第2話 避けられない婚約③
翌週、正式に「伯爵家のレティシアと公爵家のカイルが婚約」と発表されると、社交界の噂はさらに加熱した。ある者は「よくあの二人が一緒になる気になったものだ」とあきれ、ある者は「最悪と最悪が合わさったらどうなるんだろう」と興味津々。意外にも「意外と似合うのでは?」という声もあって、さまざまな推測が飛び交う。
そんな中で、二人が呼び名をどうするかという話題がちらりと浮上した。婚約者同士だから、実名で呼び合うのが自然だろうという意見がある一方、あの性格の悪い二人が素直に名前を呼ぶなど想像もつかないというのが大方の予測だった。
ある日のこと。伯爵家の庭で、珍しく二人が散歩という形で時間を共有していた。互いの父親から「婚約者同士らしく、少しは会話をしなさい」と言われたためだが、本音を言えばどちらも気乗りはしていない。
「しかし、散歩とはまた優雅な趣味だな。おまえのドレスが泥だらけにならないといいが」
「何ですって? ふふ、心配無用ですわ。あなたのように無神経に歩き回るつもりはないですから。……ところで、わたくしのことはどう呼ぶおつもり?」
「はあ? 急にどうした」
「わたしたちは一応『婚約者』なのでしょう? いずれは『レティシア』と呼んでもらうべきなのか、あるいは今まで通り『おまえ』で通すのですか?」
普段ならこんな話題を切り出すタイプではないレティシアだが、さすがに社交界で「どう呼び合うのか」などと好奇の目を向けられるのは耐えがたい。カイルは少し考えるように視線をそらした。
「別に、『レティシア』でいいんじゃないか。おまえは俺のことをどう呼ぶんだ」
「……『カイル』? まさかあなたをそのまま名で呼ぶなど、想像していませんでしたけれど」
「なら好きにしろ。呼び捨てでも構わない」
「そう。では、そうさせてもらいますわ――カイル」
一瞬だけ、風が止んだような感覚が二人の間に広がる。レティシアが意図せず口にしたその名は、決して甘い響きではなく、むしろ無遠慮な呼び方だった。だが、カイルの表情からは嫌悪とも違う微妙な反応が読み取れる。
「慣れないものだな。レティシアが俺の名前を呼ぶとは」
「わたしだって同感よ。まるでどこかの物好きになった気分」
相変わらず言い争いまがいのやり取りだが、その中には以前よりもわずかながら打ち解けた空気が感じられた。もちろん、本人たちは認めようとしない。あくまで社交上の必要に迫られて仕方なくという体裁を崩さなかった。
かくして、二人の婚約は渋々ながら公式なものとなり、周囲の関心も嫌でも高まっていく。多くの人々が「これはすぐに破談になるのでは?」と噂し、また一部の好事家は「案外、性格の悪い者同士でぴったりなんじゃないか?」と面白半分に見ていた。
当のレティシアとカイルは、今後も続くであろう「面倒事」を想像しては鬱陶しそうに顔をしかめながらも、なぜか完全に拒絶することもできないという奇妙な状態に陥っていた。
「おまえと過ごす時間など、正直少なければ少ないほどいい」
「それはわたしも同じ。あなたと楽しく過ごす方法など思いつきませんもの」
「なら、今後は最低限の顔合わせで済ませよう。……もっとも、どこへ行っても『婚約者同士』と紹介されるのは避けられないがな」
「うんざりですわ。まったく、わたくしの人生をなんだと思っているのかしら」
言うだけ言って、お互いに背を向ける。けれど、昨日よりはほんの少しだけ「相手の存在」を気にしているという事実を、二人は気づかないふりをしてやり過ごした。世間がどう騒ごうと、彼らの中ではまだ「渋々と受け入れているだけ」という段階なのだ。
こうして始まった「最悪な組み合わせ」の婚約生活が、今後どう展開していくのかは、まだ誰にもわからない。いずれ祝福される日が来るのか、それとも本当に破談に向かうのか――少なくとも今の時点で、レティシアとカイルは互いに「好きだ」などという感情からはかけ離れていた。
しかし、周囲の人々は確かに見ている。二人が無駄に長い言い合いをしながらも、微妙な呼吸を合わせたり、時折「名前で」呼び合ったりする様子を。もしかすると、そこにはまだ誰も知らない、性悪同士にしか生まれない奇妙な絆の種が潜んでいるのかもしれない。
こうして「渋々」にも婚約が定まったという事実だけを残し、伯爵家と公爵家の関係は嫌が応にも強固なものとなっていく。二人がその運命をどう掻き回していくのか、そして「最悪」と噂される組み合わせは今後どのような波乱を巻き起こすのか――社交界の人々は、期待と恐れを抱えながら成り行きを見守っていた。