第2話 避けられない婚約①
翌朝、伯爵家の屋敷は早くから妙な熱気に包まれていた。昨晩の顔合わせに立ち会った使用人たちは、まるで嵐の前の静けさを経験したかのような表情で仕事に勤しんでいる。表面上はいつもと変わらぬ掃除や食事の支度に追われているものの、その内心には「本当にあの二人は婚約するのか?」という不安と好奇心が渦巻いていた。
なにせレティシアとカイルが初めて出会った場の空気は、決して穏やかなものではなかった。それどころか、互いが互いに嫌味をぶつけ合う毒舌合戦のように見えたのだ。普通なら「これでは婚約どころか顔を合わせるのも二度と御免だろう」と誰もが思うだろう。だが、伯爵家と公爵家という大貴族同士の思惑は簡単には覆らないらしい。
「今朝ほど、旦那様と奥様が書斎で長いことお話されていたわ。きっと昨日の件が気になって仕方がないんでしょうね」
「確かに、レティシア様と公爵家のカイル様、あれではとても円満な結婚など想像できませんもの」
厨房で料理を運ぶ使用人同士がひそひそ声で話していると、メイド長が鋭い眼差しを向けてきた。余計な噂話は控えるようにと釘を刺され、彼らは急いで口を閉ざす。だが、こうしたざわつきはこの屋敷だけでなく、すでに社交界全体へ波紋を広げ始めていた。
当のレティシアはというと、自室の窓辺に腰かけ、退屈そうに外を眺めていた。昨夜はあれほど嫌味を飛ばし合ったというのに、思い返すと腹立たしさよりむしろ不可解な気分が勝っている。
「まさか一晩たっただけで、あの男との婚約話が正式に進むなんて冗談でしょう? いくら両家の大人が決めたこととはいえ、わたくしの意見をまるで無視しているわ」
窓際に置かれたクッションをぐっと握りしめてから、彼女はかすかに舌打ちをした。聞くところによれば、もう公爵家の父親と伯爵家の父親は「婚約」をほぼ既成事実化しようとしているらしい。レティシアとしては到底納得できないが、貴族社会に生まれた以上、両親の決定を無視するのは簡単ではない。
それでも、昨日初めて会ったばかりの相手と婚約などという話になるとは思わなかった。確かにこの国では、家柄を重視した結婚が当たり前のように行われる。それでも最低限の段階を踏み、少なくとも当人同士がそれなりの納得をするのが普通だ。しかし今回は、両家ともあまりにも強引だと感じる。
「とんだ押し付け合いね。性格の悪い者同士、まとめて片付けようとでも思っているのかしら」
レティシアは自嘲気味につぶやき、わざと大げさにため息をつく。その瞬間、部屋の扉がノックされた。返事をする前に声が聞こえてくるから、よほど急いでいるのだろう。
「失礼いたします、レティシア様。旦那様と奥様がお呼びです。すぐに応接間へお越しくださいと」
「はあ、やれやれ。わかったわ」
渋々立ち上がり、扉を開けて使用人とともに廊下を進む。脚を運ぶたびに、気乗りしない思いが胸の奥で大きくなるばかりだ。やがて応接間の扉が開かれると、そこには伯爵家の父と母だけでなく、公爵家の父親までもがすでに腰を下ろしていた。
「レティシア、来たか。ここに座りなさい。今、大事なお話をしていたところだ」
父はそう告げると、レティシアのために席を用意した。母親も隣で苦笑いを浮かべている。公爵家の父は威風堂々とした雰囲気で、彼女を見下ろすように言葉を投げかけた。
「昨日の対面、見ていましたよ。どうやら最初は色々と衝突があったようですが、我々としてはあなた方の将来をとても楽しみにしている。もちろん、わたしの息子も口では色々言っていても、まんざらでもないようですからね」
「まんざらでもない、ですって?」
レティシアは思わず大きな声を出しそうになったが、父親の手厳しい視線を感じて無理やり飲み込む。自分が知る限りでは、あのカイルに「まんざらでもない」と思わせる要素など見当たらない。昨夜の態度を思い出せば、会話の端々でこちらを見下しているのがありありと分かったというのに。
「ええ、カイルはなんだかんだ言いながら、あなたのことを気にしている様子でしたよ。まるで手強い相手に出会ったかのような顔をしていましたからね」
そんな公爵家の父の言葉に、レティシアの母は安堵の表情を浮かべ、父もやけに上機嫌になる。彼らからすれば、両家が協力関係を強化できる結婚ほど望ましいものはないのだろう。問題なのは当人同士の気持ちだが、それも「いずれ慣れていく」としか考えていないようだ。
「では、早速だが話をまとめさせてもらおう。レティシアとカイルの婚約は、正式に決定する」
「……えっ」
「何か不服があるのか? もちろん、まだ挙式の日取りを決める段階ではないが、婚約そのものは公にして差し支えないということだ」
父の一言にレティシアは唖然とした。昨晩のやり取りを思えば、まさか本当に婚約が成立してしまうなど想像もしていなかったからだ。彼女は抗議しようとするが、両親と公爵家の父はそれを封じるように次々に言葉を重ねる。
「レティシア、この縁談はおまえにとっても悪い話ではないのだよ。お相手は公爵家の跡取り、将来的にはこの国でも有数の地位に立つ人物だ」
「そうそう、娘には幸せになってほしいのよ。カイル様はちょっと冷たいという噂もあるけれど、きっと根は誠実な方でしょう?」
両親の言い分はいつになく熱のこもったものだった。とにかく「おまえの将来のためを思っている」という言葉を並べる。確かに貴族の娘として生まれたからには、高い地位の家に嫁ぐことが「成功」とみなされる風潮がある。それを否定するつもりはないが、あまりに当人の感情を度外視しすぎではないだろうか。
「……仕方ありませんわ。ここでわたくしが『嫌です』と喚いても、どうせ変わりはしないのでしょう?」
諦め半分でそう答えると、レティシアの父はほっとしたようにうなずき、公爵家の父は満面の笑みを浮かべる。こうしてレティシアとカイルの婚約は、当人の意見などお構いなしに「決定」として扱われることになった。