第10話 最後の大喧嘩②
しかし、その最高潮に達した瞬間、不意にレティシアの目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。本人も驚いたのか、小さく肩を震わせる。カイルも動揺し、咄嗟に何も言えなくなる。
「……泣いてないわよ。こんなの、ただ風が冷たいだけ」
「おまえ……」
「本当に嫌いなんだから。あんたなんか、いなくなったって……いなくなったって……」
最後まで言い切れない。どんなに口を尖らせても、「いなくなったら」という言葉が胸をかきむしる。あの雨の夜のことも、ほんの些細な優しさも、すべて幻だったとしても――彼が完全に消え去るなんて、想像するだけで息が詰まるのだ。
カイルは思わず手を伸ばしかけるが、レティシアは顔を背けて後ずさる。もう一度、小さくしゃくりあげてから、憎まれ口を吐こうとする。だが、言葉が出てこない。そんな彼女に、カイルが思わず声を荒らげた。
「……おまえのそういうところが苛立たしいんだ。強がるだけ強がって、何も本音を言わない。俺だって……」
「あなたが何よ。どうせわたしをバカにしてるんでしょ? 『簡単に動揺する浅はかな女だ』って」
「誰がそんなことを言った! ……馬車の夜、怖がっていたおまえを見ても、俺は『浅はか』なんて思わなかった。むしろ、どうしてか放っておけなくなったんだ!」
「えっ……」
思わぬ言葉に、レティシアが目を見張る。カイルもまた、興奮に任せて本音をぶちまけているようで、口調が荒い。
「もしおまえが本当に嫌いなら、あのとき見捨てておけばよかった。だが、そうしなかった。いつも生意気でムカつくくせに、あんな風に震えている姿を見たら……俺は、どうしようもなく腹が立ったんだ。自分に対してな」
「どうして……?」
「わからない。ただ、いなくなるなんて耐えられないと思った。ここでおまえがいなくなったら、俺は――何を糧に生きればいい?」
あまりに率直なその言葉に、レティシアは息をのむ。二人の間には、一瞬だけ沈黙が落ちる。周囲を行き交う人々が怪訝そうに振り返るが、まるで世界の中心にいるのは自分たちだけのような錯覚に陥る。
「……でも、あなた、婚約を破談にしてもいいと思ってるんでしょう?」
「そんなこと、口先でどう言おうが、本気でそう願っているわけじゃない。むしろ、壊されるのが怖かったんだ。いつかおまえが本当に去ってしまうんじゃないかと……」
カイルの声が震えるように揺れる。こんな彼の姿を見たのは初めてかもしれない。強引なやり方で相手をねじ伏せ、感情など押し殺してきたかのような彼が、いまは目を逸らすこともせず、レティシアを見つめている。
その視線に、レティシアの胸にもまた熱いものがこみ上げてきた。嗚咽をこらえるように唇を結びながら、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
「……わたしだって、あなたがいなくなるなんて考えたくないの。ずっと嫌な相手だと思ってきたけど、でも、もうわからなくなった。あなたがわたしを嫌うなら、むしろ楽なはずなのに、勝手に胸が苦しくなる」
「じゃあ、どうしてあの手紙ごときで俺を疑う? おまえは俺を信じていないのか?」
「信じたいわ。でも、それにはあなたがはっきりと示してくれなきゃ……」
言い争いの果てに、ようやく互いの内面がこぼれ落ちる。まだ和解したわけではない。疑いも不満も残っている。それでも、「全部嫌いだ」と言い張るほどの確信は、もうどこにも存在しない。
レティシアが涙を拭い、カイルが大きく息をついたその瞬間、二人の間には言葉にならない熱がこもる。今にも再び喧嘩が始まりそうな険悪さを携えながらも、そこには「本当は失いたくない」という色合いが混じっている。
「……破談がどうとか、周囲が勝手に言うなら好きにさせればいい。俺たちが本当に望むのが何か、今はまだはっきりしなくても……」
「そう、わたしはまだ――こんな形で別れたくない。あんたなんか、大嫌いなはずなのに。認めたくないけど、いなくなるのは……いや」
「ふん……。本当に面倒な女だな、おまえは」
「言ったわね、面倒な男のくせに」
二人は最後にもう一度だけ睨み合い、どちらからともなくそっぽを向く。互いの呼吸が整うにつれ、まるで大嵐が通り過ぎたあとの静寂のような時間が訪れる。
このまま手を取り合うことはできない。何も解決していないし、破談の話は現実に迫っている。それでも、今の気持ちをはっきり言葉にしたことで、ほんの小さな光が差し込んだ気がするのだ。
完全に壊れる直前、ぎりぎりのところで「別れたくない」という意思がにじみ出した。幼稚な口喧嘩の裏に隠しきれない想い――それが、次に何をもたらすのかは、まだわからない。けれど、少なくとも互いに失望のどん底にいるわけではないと気づいてしまったのだ。
「これからどうする、カイル」
「さあな。少なくとも、父に勝手なことを言われたままにはさせない。レティシア、おまえこそ……伯爵家の親が何か言うなら、おまえ自身が決めろ」
「ええ、決めるわ。……わたしはもう少し、あなたと決着をつけたいから」
あくまでも突き放すような言い方だが、その瞳はどこか揺らぎを含んだまま交差する。周囲に気付かれないよう、ほんの一瞬だけ見つめ合い、無言で車を降りる。
レティシアは、振り返りもせずにまた石畳を歩き出す。カイルは馬車に戻り、運転手に合図をして走り去った。二人の最後の大喧嘩は、決定的な破局ではなく、むしろ隠しきれない本音を浮き彫りにする結果となったのだ。
完全に修復できるかどうかは不透明だが、心の奥で「別れたくない」という叫びが確かに響き合っている。そんな奇妙な余韻を残したまま、風の冷たさだけが町の石畳を吹き抜けていた。




