第10話 最後の大喧嘩①
灰色の空は低く垂れ込み、風が冷たさを増している。まるで季節が心の隙間に入り込むように、レティシアの胸にも凍てつくような重苦しい感情が広がっていた。
婚約破談の噂は、もはや噂の域を越え、両家の大人たちすら本気で「このまま別れるかもしれない」と考え始めている。自分たちの態度を見れば、そう思われても仕方がないと理解しながらも、どこか納得できない――そのもやもやした思いを抱え、彼女は午後の庭をぼんやりと眺めていた。
伯爵家の庭園には赤や黄の花が咲き誇っているが、その鮮やかさが今はむしろ痛々しく見える。こんなに美しい場所なのに、心がささくれていると、すべてが無味乾燥に思えてしまう。使用人が心配そうに声をかけてくるが、レティシアは聞き流して立ち上がった。
「……わたし、ちょっと外へ出るわ」
「ですが、レティシア様……外出は控えられたほうが、と旦那様が」
「関係ないわ。少し気分転換をしたいだけよ」
いつもなら使用人が諦めるほどの強い口調で言い放つ。だが、その目には決意とは別の暗い色が浮かんでいた。まるで何かに追い立てられるように、レティシアはマントを羽織り、屋敷を後にする。馬車は要らないと断り、一人で玄関を出ていった。
外の風は庭よりもさらに冷たかった。石畳を歩く彼女の足取りには焦りがにじむ。行くあても決まっていない。けれど黙って屋敷の中にいると、自分がどうにかなってしまいそうだった。嫌いでもない相手が、自分の人生から消えてしまうかもしれない――そんな恐怖が頭を離れないのだ。
「どうして、こんな……。あの人と一緒になるのが嫌なら、むしろ喜べばいいのに」
自嘲混じりの独り言が風にさらわれる。そのとき、不意に視界に入ったのは、公爵家の紋章を象った馬車だった。道端で馬車を停め、カイルの姿が見える。おそらく、これから伯爵家へ向かうつもりだったのだろう。彼はレティシアを見つけると、目を細めて口をへの字に曲げる。
「何をしている。……こんな場所を一人で歩いて、まさか家出でもするつもりか?」
「あなたには関係ないわ。急に出かけたくなっただけ」
「伯爵家の使用人から、おまえが飛び出したと聞いて来てみたが……勝手な行動をとって事を荒立てる気か?」
「勝手なのはどっち? そちらこそ、婚約解消を言いふらすような真似をしているんでしょう?」
冷たい言葉が飛び交う。実際にはカイル自身が「解消」を言い触らしているわけではないのだが、公爵家から破談を示唆する発言が出たのも事実。思わずレティシアの声が震える。
「わたし……別にあなたを呼び出した覚えはないの。勝手に追いかけてくるなんて、そういう干渉はやめてくれない?」
「干渉? 馬鹿を言うな。おまえがこうやって家を飛び出せば、何か問題を起こすんじゃないかと周囲が騒ぐだろうが。俺はそれが面倒で――」
「じゃあ放っておけば? 面倒なら、別にわたしが何をしようが勝手でしょう。どうせ破談になるかもしれない相手なのに」
その言葉が、二人の間に重くのしかかる。いっそ完全に決裂してしまえばいいのに、とお互い口に出しながらも、踏み込めずにいる苛立ちが爆発しそうだ。カイルは馬車を降り、レティシアへ数歩近づいた。手を伸ばせば届きそうな距離に、二人の緊張した空気が流れる。
「本当に、破談にしたいのか?」
「……ええ。別にあなたなんかもう二度と見たくない。最初から決まっていた婚約だし、そこまで執着なんてないわ」
「だったら、なぜそんな悲しそうな顔をしている? 本当にいなくなっていいなら、もっと笑っていればいいだろう」
「あなたこそ、いつも無表情のくせに、どうして睨むみたいな目をしてるの?」
わずかな沈黙。そして、二人同時に視線をそらす。道行く人は、この二人があれほど有名な婚約者同士とは知らず、小競り合いをしている若い貴族として遠巻きに見ている。そんな視線など気にせず、再び互いの言葉が鋭くぶつかり合った。
「……もう嫌よ、こんなの。勝手に変な噂を流されて、わたしまで疑われて。あなたの父親はとっくに『婚約解消』を了承する気でいるんでしょう?」
「父が何を思っていようと、俺の勝手だ。だが、そっちも親が『もう無理に婚約を続ける必要はない』と言い出しているとか聞いたぞ」
「そうよ。そもそも、わたしが『あなたのもの』になるなんて勘弁してほしいし」
「ふん。そっちこそ、俺などに捕まるのは屈辱かもしれないな」
噛み合わない言葉の応酬。けれど、その激しさには尋常ならざる焦りが含まれていた。お互い嫌味を言いつつ、内心では“本気で別れたいのか”を確かめ合っている。だが、どちらも素直に尋ねられない。
「もういい。これ以上、顔を見ていたら吐き気がする。……あんたなんか、消えてしまえばいいのに!」
「なら、消えてやろう。おまえこそ、そんなに俺が嫌いなら今すぐ父にでも『結婚なんてゴメンだ』と宣言すればいいだろうが!」
「言うわよ! 本当に言ってやるわよ、それでいいのね?」
「どうぞご自由に。ああ、もう勝手にしろ――!」
ついに二人の怒声が周囲にも聞こえるほど高まる。カイルは苛立ちをあらわにし、レティシアも息を荒げて言い返す。町の往来でこんな大喧嘩をするのは貴族の令嬢として相応しくないとわかっていても、感情が抑えられないのだ。




