第9話 仕組まれた陰謀②
ある夕刻、レティシアが外出先から戻ると、使用人が慌てたように声をかけてきた。
「レティシア様、申し上げにくいのですが……公爵家からの使者が先ほどいらして、『このままでは婚約解消もあり得る』とのお言葉を残して帰られたのです」
「なっ……それ、本当なの?」
「はい。わたくしどもも困惑しております。旦那様と奥様も動揺されて……」
レティシアは思わず絶句した。カイル本人の言葉ではないが、公爵家として正式にそういう話が出たということは、ほぼ破談が検討され始めているに等しい。
激しい動悸が胸を打ち、息が詰まりそうになる。あれほど憎まれ口を叩いてきた相手なのに、「婚約解消」と言われると、予想以上に動揺している自分がいるのだ。
「別に……わたしはあんな男、いなくても困らない。結婚なんて、誰とでも同じようなものでしょう」
自分にそう言い聞かせる。しかし、浮かぶのは雨の夜の記憶と、時折見せる彼の真剣な瞳。それを引きずっている自分が、馬鹿みたいだとわかっていても、心がどうしようもなくざわつく。
一方、カイルも家の廊下で父に呼び止められ、「婚約をこのまま進めるのはどうなのだろう。おまえ自身も迷っているのではないか」と真顔で問いかけられる。
普段なら「放っておいてくれ」と言うところだが、今回ばかりは言葉が出ない。彼の脳裏にもレティシアの顔が浮かぶ。いつもは鋭い眼差しで見返してくるくせに、時折見せる弱さが気にかかる。それでも、「こんな面倒な状況なら破談でもいい」と言葉にできるかというと、それもできない。
「別に、あんな女……。だが、今さら引き下がるのも癪だ。何より、そこまで弱い女ではないはず……」
ぐるぐると思考が巡り、答えを見いだせないまま時間だけが過ぎていく。
そんなある夜、レティシアのもとを訪れた友人が、心配そうに尋ねた。
「本当に、婚約解消になっちゃうの? わたしは二人ならなんだかんだで上手くいく気がしていたのだけど……」
「そんなの、わたしにもわからないわ。向こうが勝手に『別れる』と言うならそうすればいい。もともと好きで決めた話じゃないし」
「でも、あなた……」
友人は続く言葉を呑み込んだ。レティシアの表情は硬く、そこに何か深い哀しみのようなものがのぞいていると感じたからだ。
本人は「別に気にしていない」と繰り返すが、その奥には言いようのない戸惑いが積もっている。もし破談になったら、自分はもう彼と会うこともなくなるのか――そう思うと、やりきれない空虚感がこみあげてくるのだ。
「胸がざわつくなんて、おかしい。嫌いなら、むしろ喜ぶべきでしょうに」
レティシアは誰にともなくつぶやいた。あくまで「嫌われ者同士」の契約めいた婚約なのだから、解消されたところで何も困ることはないはず。そう自分に言い聞かせても、心は全く納得してくれない。
同じ夜、カイルもまた書斎で机を叩き、苛立ちを隠せずにいた。家の使用人が「破談に向けた準備など、万が一に備えていかがですか」などと助言してきたのが気に入らなかったのだ。
「勝手に破談を決めつけるな。……いや、どのみちこうなる運命だったのか。くだらない」
自嘲気味に吐き捨てるが、こうして苛立ちをぶつける時点で、もう心中は乱れていると自覚せざるを得ない。あの雨の日に芽生えた小さな温もりは幻想だったのかもしれないが、それでも捨てきれない何かがある。
フェリクスやクラリッサ、その他にも自分たちの婚約を妨げようとする輩の思惑に乗せられるようで、どうにも抵抗感が拭えないのだ。
「こんな馬鹿げた陰謀に踊らされるくらいなら、いっそ……」
そう考えかけて、ふと手を止める。もし本当に破談にしてしまったら、きっと二度と彼女は自分を見てくれない。毒舌であれ嫌味であれ、あの鋭い瞳がこちらを射抜くこともなくなる――そう思うとなぜか、息が苦しくなるような思いがこみあげる。
こうして、二人の間には激しい疑惑とすれ違いが生まれ、婚約は今にも白紙に戻されそうな危機に瀕していた。
それでも表面上はお互いに「どうでもいい」「こんな相手、いなくても困らない」と強がる。一方で、胸の奥ではかすかな悲しみと焦りが火種のようにくすぶっている。
果たして本当に、二人はこのまま破局へ向かってしまうのか。周囲の陰謀が渦巻く中、彼らの心は限界近くまで追いつめられようとしていた。まさしく「破局寸前」――だが、そこにはまだ簡単には割り切れない想いが残されているのも事実だ。
嵐の前の静けさのごとく、緊迫した空気が両家を覆う。真実と偽りが絡み合い、二人の婚約が今まさに崩れ落ちそうなこの状況下で、果たしてどんな結末が待ち受けているのか。
何より、当のレティシアとカイルですら、その答えを見出せずにいる――。




