第8話 素直になれない二人②
その数日後、別の社交界の集まりが開かれた。規模はさほど大きくないが、一部の貴族やその子女たちが顔を揃える場で、カイルやレティシアも半ば強制的に参加することになっている。
二人は先日までどおり、表向きには「婚約者としてそれなりに顔を出す」という態度をとるが、その実態は険悪というしかない。周囲が「ほら、あれがあの有名な二人だ」とささやいては注目しているのを、本人たちはわかっていながらも、わざわざ牽制しあうようにして言葉を投げ合う。
「カイル、今日はいつになくご機嫌斜めのようね。そういうときは家でゆっくりしていればいいのに」
「自宅で過ごせるものならそうしたいが、こうして顔を出さなければ父が煩いのでな。それより、レティシア……おまえこそ少し黙っていられないのか。口が動きすぎだろう」
「なんですって? あいかわらず口が悪いわね。ま、あなたのそういうところも周りには『冷酷』と映っているらしいけど」
「けっこうだ。放っておいてくれ」
その調子で一歩も譲らない皮肉合戦が繰り広げられる。周囲から見れば「相変わらず犬猿の仲だ」と映るかもしれない。だが、当の二人にしかわからない微妙な違いがあった。
どれだけ口が悪くても、以前ほど本気で相手を突き放す感覚が薄れているのだ。言葉に乗る毒は変わらないのに、その裏には「相手の存在」をより強く意識している気配がある。
「……ちょっと飲み物を取ってくる」
「勝手にどうぞ。わたしは関係ないわ」
「そうか。じゃあ遠慮なく行かせてもらう」
カイルが人混みの向こうへ消えたあと、レティシアは小さく息を吐く。言葉の端々に棘があるのはいつもどおりなのに、妙に胸が苦しいのはなぜなのか。
目を閉じれば、あの雨の夜の情景が鮮やかに蘇る。冷たく震える自分に、無言のまま上着を差し出してくれたあの瞬間――たったひとつの仕草が忘れられない。そして、同時にそんな自分がどうしようもなく嫌だった。
「なに考えてるの、わたし。あんな気まぐれな優しさにほだされているわけじゃないのに」
自分に言い聞かせるように、強く言葉を噛みしめる。だが本心では、彼が少しでも近くにいると、どうにも落ち着かなくなってしまう。好きとか嫌いとか、そんな単純な感情では割り切れない――そう感じているだけで、彼女は十分に戸惑っていた。
一方、カイルもレティシアの姿をチラチラ目で追いかけては、すぐに視線を外すという動作を繰り返していた。いつも尊大で鼻につく態度が気に入らないはずなのに、あの夜の弱々しい表情を思い出すと、とにかく気にかかって仕方ない。
それを認めるのが腹立たしく、ついきつい言葉で自分を守るように振る舞ってしまう。公爵家の跡取りとして冷静沈着であろうとする自分が、レティシアなんぞに気持ちを乱されているなんて笑い話だ。
「やはりあいつは嫌な女だ。あんな口やかましい相手、誰だってうんざりするに決まっている。……そう、俺は嫌っているんだ」
けれど、心のどこかで自分に嘘をついているのがわかる。あのとき、もし彼女が馬車の中で泣き崩れるようなことになっていたら、自分はどうしただろう。恐らく放ってはおかず、もう少し手厚くケアしたかもしれない――そんな想像が頭をもたげるたび、カイルは自分自身に苛立ちを覚える。
パーティが終わり、各々が帰路につくころには、二人ともひどく疲れ切っていた。いつもより多く言葉を交わしたわけでもないのに、精神的な消耗が激しいのだ。
屋敷に戻ったレティシアは、寝室でドレスを脱ぎながらひとりつぶやく。
「こんなの、わたしらしくないわ。あいつのことなんて、どうでもいいはずなのに」
一方、カイルも公爵家の部屋で背広を脱ぎ捨て、椅子に腰掛けて重い息を吐く。
「まったく、おまえなんかに心乱されるなんて、冗談じゃない」
二人とも「大嫌いなはずだ」と自分に言い聞かせているのに、心のどこかではそれを否定する感情が大きくなっているのを知っている。
だからこそ、毒舌をぶつけ合うほど、お互いを思い浮かべずにはいられない。どんなに言葉で嫌いだと言い募っても、あの雨の夜に垣間見えた一瞬の優しさを打ち消すことはできないのだ。
こうして二人は、それぞれの邸宅で夜を迎える。完全に拒絶するには遅すぎるし、かといって認めるには悔しさが勝ってしまう。誰にも言えない思いが胸の奥でくすぶり、形を得ないまま燻り続ける。
部屋の灯りを消したあと、レティシアは枕元でそっとつぶやき、カイルは書斎の椅子に沈み込むように吐息を漏らす。言葉は違っても、本質は同じ――
「どうしてこんなことに……。こんなはずじゃなかったのに」
冷徹な態度で突き放してきたはずの相手が、ほんの少し優しい一面を見せてしまったがために、嫌いだと思い込んできた感情が揺らぎ始める。
それはお互いにとって思いもよらない苦しさを伴う変化であり、同時にどこか甘酸っぱくもある。それでもまだ、素直になれるはずがない。毒舌と皮肉を使ってしか相手に向き合えない二人は、夜の闇のなかで自問自答を続けるのだった。自らに言い聞かせるように、「こんな相手、大嫌いなはず」と。




