第7話 意外な優しさ②
馬車の中は照明が限られており、外の稲光がきらめくとほんの一瞬だけ二人の顔が浮かび上がる。顔を正面から見つめ合うには気恥ずかしい距離だが、これだけの密室状態となると、いやでも相手の温度や息遣いが伝わってくる。
「……ねえ、もしこのまま夜が明けるまで動けなかったら、わたしたちどうするのかしら」
「仕方ないだろう。運転手も含め、雨がおさまるまで大人しく待つだけだ。さもなければ、どこか近くの村に救援を頼むか」
「嫌だわ。こんな形で足止めを食らうなんて……何もできないし、退屈だし」
「俺は別に困らないが。おまえはずいぶん落ち着きがないな」
「……だって、こんな暗い夜に雷雨の中をずっと馬車で過ごすなんて、普通じゃないじゃないの」
レティシアの声はふだんの冷たさをどこか欠いて、弱音に近い響きを帯びていた。めったに聞けないその口調に、カイルも驚いて一瞬言葉を失う。相手が心細そうにしていると、なぜか気持ちがざわつくのだ。
「それが貴族のお嬢様の限界か? こんな程度で取り乱すとは、ちょっとイメージが違うな」
「誰にだって苦手なものはあるのよ。……別にあなたにイメージをよく思われたいわけでもないけど」
稲妻の光がまた車内を白く染める。今度はカイルが先に言葉を継ぎ足した。
「……おまえが人目を憚らずに嫌味を言うのは知っているが、それは強がりの裏返しでもあったのか」
「はあ? なに急に分析してるのよ。わたしはただ率直に思ったことを口にしているだけ」
「まあ、そういうことにしておこう。……とりあえず、ここから抜け出せるまで落ち着け。大丈夫だ。こんなところで馬車が横転するほどのことはない」
カイルの声は低く淡々としているが、その内容は意外に優しい。さらに彼は自分の上着をさりげなく脱ぎ、レティシアの膝の上にぽんと置いた。車内は気温が下がっていて、彼女が小刻みに震えているのに気づいたのだ。
「なに、これ」
「見て分からないか。ひざ掛けだ。いらないなら返せ」
「……別にいらないわけじゃないけど、あなたのそういうとこ、本当に気まぐれよね」
「気まぐれ? 馬鹿にするな。おまえが風邪でもひかれたら、余計な時間を取られるだろうが」
憎まれ口を叩きながらも、レティシアはその上着を素直に受け取り、膝を覆う。ささやかな温もりがじんわりと伝わってきて、ひどく落ち着かない気分になるのを押さえられない。
「……ありがと」
「何か言ったか?」
「別に。雨、少しは弱まらないのかしら」
レティシアは窓の外に目を向け、さも興味がないふりをして言葉を濁した。カイルもそれ以上追及はしない。二人の間には、相変わらず鋭い言い合いが残っているけれど、その裏で微妙な変化が起きているのは明らかだ。
やがて外の雨脚が、少しだけ弱まってきたのが分かった。馬車の外で運転手が奮闘している気配があり、どうやらこのまま少しずつでも脱出を試みるらしい。さきほどのような大きな揺れが起こるかもしれないが、ここを動かないことには夜どころか朝になっても帰れない可能性がある。
「動くみたいね。少し踏ん張ってちょうだい。……馬車が揺れるかも」
「ああ、わかっている。さっきも言ったが、落ち着いていれば大丈夫だ」
「わ、わかってるわよ」
再び車体が大きく軋む。水が跳ねる音と木製の車輪が泥を噛む音が重なり合い、なんとも嫌な振動が走った。思わずレティシアは手すりをつかむが、バランスを崩し、半ばカイルの肩に寄りかかる形になってしまう。
「きゃっ……」
「ほら、言わんこっちゃない。乱暴に動くな」
「う、うるさいわね。わざとじゃないのよ……」
頬を染めながら姿勢を立て直すレティシア。一方のカイルは呆れ顔で見下ろしながらも、その瞳にはほんのかすかな優しさがにじんでいた。二人きりの密室で、相手の気配をこれほど近くに感じるのは初めてかもしれない。それが何かを揺さぶるような気がして、レティシアはそっと目を伏せる。
「……ありがとう」
「ん? なにがだ」
「こうして落ち着けって言ってくれて。さっきの上着も。まあ、あなたに助けられたとは思いたくないけど」
「そう言うなら、素直に感謝すればいいだろうに。おまえって本当に面倒くさいな」
「人の性格にとやかく言わないでよ。そっちこそ冷たいと思ってたけど、意外と面倒見がいいのね。……そこだけは評価してあげる」
「なんだ、その上から目線の評価は」
言いながらも、カイルはさほど悪い気がしていない様子だ。レティシアもまた、周囲に誰もいないからこそ、ほんの少しだけ弱みを見せることを許せるのかもしれない。激しい雨音に包まれた馬車のなかで、二人の間には奇妙な静寂が訪れた。
十数分後、ついに車輪は泥から抜け出し、馬車はがくんと揺れながらもようやく動き始める。まだ雨は止んでいないが、勢いはさほど強くなくなったようだ。運転手が安堵の声をあげ、ゆっくりと安全な道を探りながら進めていく。
そうしてどうにか帰路を取り戻したころには、レティシアもカイルも、先ほどまでの緊迫と微妙な情動に戸惑いを覚えていた。普段なら口汚く罵るだけの相手が、思いのほか頼りになる。あるいは、普段は冷酷だと思っていた相手が、不器用ながらも気遣いをしてくれる。そんな事実が頭から離れないのだ。
「もうすぐ伯爵家の屋敷につくな」
「そうね。長かったわ。……って、まさかあなたもそこで降りるの?」
「馬鹿を言うな。俺はこのまま公爵家まで帰る。おまえを降ろしたら、そこからまた雨のなかを進まなきゃならない」
「そう。大変ね。……ま、無事に帰りなさいよ」
「当然だ。おまえこそ、俺の上着を勝手に奪ったまま降りるんじゃないぞ」
「くっ……まだ膝にあったのね。返すわよ。ありがとう、助かった」
伯爵家の門が見えたところで、レティシアはカイルの上着を畳んで返す。その手つきがほんの少しぎこちないのは、彼女なりの照れ隠しなのだろう。受け取ったカイルも、ぶっきらぼうに投げ込むように脇へ抱えるだけで、特に感想を口にしない。
馬車が停止し、玄関まで使用人が駆け寄ってくる。ドアが開くと、冷たい雨のしずくがまだパラパラと落ちているのが分かった。レティシアは最後にちらりとカイルを振り返る。
「さようなら。カイル……その、いろいろと悪かったわね。いつもより貶す回数が少なかったから物足りなかったんじゃない?」
「自意識過剰だな。レティシア……まあ、おまえが少し落ち着いてくれたのは助かったよ」
「はあ? 何よそれ。結局どっちなの?」
カイルの返事に戸惑いを見せるレティシア。だが、彼は「さあな」と含み笑いを浮かべるだけで、詳しい説明はしない。ドアが閉まると、馬車は再びゆっくりと動き出した。彼女はその後ろ姿に何とも言えない気持ちを残しながら、伯爵家の使用人の案内で玄関に入る。
大雨の夜の馬車で起きた出来事は、レティシアとカイルだけの秘密だ。二人きりの密室で見せたちょっとした弱音と、ほんの少しの優しさ。それをどう受け止めるのか、まだ答えは出ていない。それでも今夜の体験は、今後も思い返すたびに、互いの心を微妙に揺らしていくのかもしれない。
いつもなら嫌味で終わる言葉に、かすかに「また会うときにはどうなるのだろう」という期待と戸惑いを含ませたまま、雨の夜は静かに幕を下ろしていった。




