第7話 意外な優しさ①
窓ガラスを打ちつける雨音が、まるで小さな楽隊のように絶え間なく響いていた。空は分厚い雲に覆われ、夕刻とは思えないほど暗い。伯爵家の屋敷から遠くない街道は、すでに冠水している場所もあるようで、行き交う馬車の車輪が水しぶきを上げているのが見えた。
そんな悪天候のなか、レティシアは玄関ポーチの屋根下で苛立ちを隠せないまま立ち尽くしていた。せっかく隣町まで出かけていた用事を終え、あとは帰宅するだけだったというのに、ここにきて思わぬ「同行者」が現れたからだ。その名を聞けば大抵の人が敬遠しそうな人物――カイルが、彼女と同じ馬車で帰ることになったという。
「どうしてわたしが、あの嫌な男と馬車を共有しなきゃいけないの」
雨音に負けないようにやや大きめの声でつぶやくと、そばにいた伯爵家の使用人が困った顔をする。実は今日、カイルは別の用件で同じ方面へ出向いていたらしく、帰り道が完全に一致することが判明した。天候を考えると、二台の馬車をわざわざ出すより一台で済ませたほうが安全だし効率的だと両家の親が提案した結果、こうなってしまったのである。
「レティシア様、どうかご容赦ください。道もひどくぬかるんでおりますし、ここで無理に別々の馬車を出しますと、かえって危険が大きいかと」
「わかってるわよ。そんな理屈は頭では承知してるけど……」
渋々納得しながらも、気持ちは晴れない。そこへちょうど玄関の奥からカイルが現れ、使用人に手短に指示を出すと、面倒くさそうにレティシアを一瞥した。
「乗るならさっさとしろ。こんな雨のなか、屋根の下でぐずぐずしていても余計に冷えるだけだろう」
「あなたに言われるまでもないわ。……それにしても、礼儀のかけらもない言い方ね。わたしが『あなたの馬車』に乗りたいと頼んだとでも思ってるの?」
「俺は別に頼まれていない。嫌なら歩いて帰ればいい」
「歩けるわけないでしょう、この雨と道の状況で」
このやり取りだけですでに雰囲気は険悪だが、伯爵家の使用人たちは内心「また始まったか」と苦笑いを浮かべている。もっとも、これもいつものことだと思いきや、今日は事情が違う。道中の安全を最優先に、どうしても同じ馬車に乗る必要があるのだ。
結局、二人は争うようにして馬車へ乗り込み、運転手に「急ぎつつも慎重に走らせろ」と指示を飛ばした。やがて馬車が動き始めると、すぐに車輪が大きく水しぶきを立てる。雨脚は想像以上に強く、外の景色は窓ガラスを叩く雨粒に遮られてほとんど見えない。
「こんな日は、早めに出発すればよかったのに。あなたがモタモタしているから余計に遅くなったんじゃないの?」
「勝手なことを言うな。俺はさっさと用事を済ませたが、そもそもこの大雨がここまで早く降り出すとは予報になかっただろう」
「まったく……不運な日に当たったものね」
互いの顔を見ずに言い合っているが、狭い車内では嫌でも相手の存在を意識させられる。カイルは窓の外を睨むようにしながら、レティシアは小さなハンドバッグをいじりながら、沈黙とも言いがたい張り詰めた空気を過ごしていた。
ところが、しばらく進むと馬車が突如大きく揺れた。どうやら道が深く冠水している箇所にはまりこんでしまったらしい。運転手が必死に舵を切るが、車輪が泥に埋まって空回りする音が耳につく。
「……なに? 動かないの?」
「運転手が何とかしているようだが、これだけ雨が激しいと馬も落ち着かないだろう」
「えっ、ちょっと、停まったままじゃ帰れないじゃないの。こんなところで足止めを食らうなんて……」
思わず焦りがこみあげるレティシアに、カイルは面倒くさそうに視線を寄越した。外では運転手が必死に声をかけて馬をなだめているが、泥濘の深さは容易に抜け出せそうにない。激しい雷鳴まで加わり、夜空が一瞬、白々と光る。
「どうやら当分は動けそうにないな。こういう大雨の日にはよくあることだ。もう少し落ち着けば再出発できるだろう」
「よくあること? あなた、こんな状況に慣れているの?」
「まあ、旅先で似たような目に遭ったことがある。あれは雪だったが、馬車が斜面にスタックしてな。……とにかく、焦っても仕方ない。無理に動けば余計に嵌まる」
カイルの言うことはもっともだが、狭い馬車のなかでどれだけ待つことになるのか分からないとなれば、不安が募るのも無理はない。レティシアは窓を少し下ろして外の様子を見ようとするが、冷たい雨風が吹き込んできて思わず悲鳴を上げた。
「きゃっ、ちょ、冷たいじゃないの! 最悪……」
「馬鹿なことをするな。そんなに外の様子が気になるなら、せめて傘を使え」
「それでも雨が強すぎて意味ないでしょうが。……こんな日に出かけるんじゃなかった」
毒舌混じりの嘆きが漏れるが、カイルも特に皮肉を返さない。むしろ静かに様子を見守るような態度をとっている。いつもならすかさず「貴族の娘が泣き言を言うのか」などと冷たく言い返しそうなものだが、彼はただ手袋を外しながら、「仕方ないな」と小さくつぶやいた。
「ほら、ハンカチぐらい持っているだろう。濡れた手を拭け。風邪を引いたら余計に面倒だ」
「……そんなこと、言われなくても」
そう言いながらも、レティシアは少しだけ驚いていた。彼が気遣いめいた言葉をかけるなんて珍しい。普段の毒舌同士のやり取りとは違う、一瞬だけのぞく優しさが逆に戸惑いを生む。
外の運転手が「もう少し待っていただけますか」と声をかけてくる。どうやら泥から抜け出すには、雨が弱まるのを待つしかないらしい。雷鳴も治まる気配がなく、車内に時折稲光が差し込む。その閃光に、レティシアは顔をしかめた。
「雷、あんまり好きじゃないのよね」
「へえ、意外だな。おまえなら雷にだって怯まないと思っていたが」
「誰も好き好んであんな光と音を楽しむわけじゃないでしょう」
「ふん、まあそうだ。……怖いなら目をつぶっていてもいいぞ」
「な、なにを言ってるのよ。別に怖いわけじゃないわ」
言葉とは裏腹に、レティシアの表情には強がりが垣間見える。稲妻が走るたびに一瞬ぎくりと反応するのを、カイルは見逃さなかった。普段はあれほど気丈なのに、やはり天候ばかりはどうにもならないらしい。
それでも、彼女が弱みを見せる瞬間など滅多にない。カイルは自分でも理由をはっきり言えないまま、なんとなく慰めるような言葉をかけたくなるのを感じていた。
「……このままだと屋敷に戻るのはかなり遅くなるな。おまえの家の者も心配するだろう」
「ええ、そうね。連絡を入れようにも、これじゃ伝令を出せるはずもない。最悪、一晩ここかも」
車輪がガタッと揺れ、また落雷の音がすぐ近くで轟く。思わず身を震わせるレティシアに、カイルは少しだけ身体を寄せるようにして、小さくささやいた。
「……そっちに寄るな。窓際が気になるかもしれないが、万が一ガラスが割れたら危ない」
「なにそれ。あなたがわたしの心配でもしているわけ?」
「さあな。ただ、こんなときに怪我でもされたら俺も面倒だから言っているだけだ」
「ふうん、さすが『冷たい跡取り様』の言葉は説得力があるわ」
言葉は相変わらず刺々しいが、その奥にはどこか緩やかな空気が流れ始めている。レティシアもまた、こんな状況で強気ばかり張っていても仕方ないと内心思っているのか、カイルの助言にあまり抵抗しない。




