死が二人を分かつまで。
若い夫婦だった。
まだ結婚したて……今、まさに新婚旅行の途中だったのに。
乗っていた船が座礁して大破し、二人は共に海に投げ出されていた。
どうにか船の残骸である板に二人でしがみついていたけれど、板は二人で乗るにはあまりに小さすぎた。
板に全身を乗せられている妻と違い、夫は半身を常に海に浸けていた。
妻を少しでも苦しみから避けるために。
海の冷たさから逃すために。
妻は泣きながら夫を励まし続けていたが、最早その時が迫っていることを悟っていた。
「君だけでも助かってくれ」
今まさに夫の命が尽きようとしたとき。
「世界は残酷なものです」
滑稽なほどに間延びした声と共に一人の女性が空中を漂うようにして突如現れた。
呆然とする夫婦に彼女は告げる。
「私は死神です。何をしに来たかは……まぁ、分かるでしょう?」
「そんな!」
妻が泣き叫ぶ。
「彼を連れて行かないで!」
そんな妻と対象的に夫の表情はあまりにも穏やかだった。
「なぁ、君が連れて行くのは僕だけかい?」
「はい。残念ながら」
妻は叫びながら夫の身体を板の上に引き上げようとしたが、海水に浸かった夫を引き上げることは非力な彼女には無理な話だった。
そんな最愛の妻の頬を最期の力で撫でながら夫は死神に問う。
「彼女は助かるんだね」
「ええ。残念ながら」
「そうか。良かった……」
言葉と共に夫の顔から力が抜けていく。
「やめて! 連れて行かないで!」
妻のすがるような言葉に死神は首を振る。
「ごめんなさいね。これが私の役目なんで」
その言葉と共に死神は夫の体に触れて気の毒そうに呟いた。
「『死が二人を分かつまで』なんて言いますが、中々受け入れがたいものですよね」
そして。
死神は夫を連れて逝く。
……はずが。
「ありゃ」
死神が焦った顔をする。
「え、なに? え? いや、なんで?」
傍目からでも分かるほどに狼狽える死神に妻は思わず尋ねた。
「どうされたのですか?」
「いや、えっとその……」
死神は気まずそうに言った。
「コイツ、さっきまで満足そうに死んでいく雰囲気バリバリ出してたくせに魂を離そうとしないんですよ」
言葉を解しながらも理解が追いつかない妻を余所目に死神が夫の遺体を前に四苦八苦している。
「いや、ふざけんな。さっき完全に逝く雰囲気だったじゃん。てめえ! こんなとこで踏ん張るな!」
段々と言葉が粗雑になっていき、先程まで纏っていた彼女の気味悪ささえ感じるほどの冷静さはいつの間にかすっかり消えていた。
「とっとと離れろよ! 死が二人を分かとうとしているんだから素直に別れろ! この!」
そんな滑稽な寸劇のような光景は業を煮やした死神がした舌打ち共に終わりを告げる。
「あーもう! 怒った! これで終わりにしてやる!」
その言葉と共に指をパチンと鳴らすと空中から巨大な鎌が落ちてきた。
海の上に。
「は?」
妻と死神の声が重なる。
そして、死神は慌てて海を覗き込み、大きくため息をついていた。
「えぇ……うそぉ……」
明らかに萎えている死神はしばらくの間、ぶつぶつと独り言を言っていたが、やがて妻の方へ向き直って言った。
「うん。連れて行くの無理!」
そう言うと同時に死神は妻の体に手を触れる。
凍えた体のせいだろうか。
妻には死神の手が温かく感じた。
「悪いけど、あんたの寿命の半分をこの人にあげるから! 私は悪くないからね! この人が悪い! 離れようとしないこの人が!」
まくし立てるようにそう言うと、もう片方の手を既に遺体となっているはずの夫に当てた。
すると、夫がうめき声をあげて顔をあげる。
「これは……?」
困惑する夫を一瞥し、死神は妻を見て一方的に言い放つ。
「あんたから説明してあげて。私、仕事道具拾ってこなきゃいけないから!」
現れた頃の雰囲気はどこへやら。
死神は普通の人間のように大きく息を吸い、思い切り海の中へ飛び込んだ。
夫の方は困惑したまま妻を見つめ、妻もまた困惑したまま夫へ状況を説明し始めた。
そして。
二人はそのまま救出にやってきた船に無事保護された。
他の乗客の多くが亡くなったのだと、介抱されつつ聞きながら夫婦は顔を見合わせる。
助かった……と言って良いのだろうか?
この状況を。
「どうなるんでしょう? 私達」
妻が落とした問に夫は何も答えることが出来なかった。
それから数時間後。
海水と海藻、ついでに小魚にまみれた姿で死神が大鎌を持って現れた。
その姿に二人は思わず吹き出してしまう。
「あんたらなぁ……」
死神の恨めしそうな声に夫が謝罪する。
「ごめんなさい。悪かったね、けどありがとう僕を救ってくれて」
感謝に満ちた声色に死神はため息しながら言った。
「あんたが奥さんに必死にしがみついていたせいですよ。無意識かもしれませんけどね……さて、私がここに来た理由は分かりますかね? 分かりますよね、もちろん」
夫婦の心は穏やかだった。
特に妻はずぶ濡れの死神の手を握りながら感謝する。
「ありがとうございます。僅かでも夫と過ごせる時間を作ってくださって」
「僕からも礼を言うよ。彼女と過ごす最後の時間をくれてありがとう」
そんな温かな空気を死神はバッサリと断ち切る。
「何を勘違いしているんですか」
大鎌を横に大きく振りかぶり、それを躊躇いもなく夫婦に向けて振り払う。
夫婦の体に変化はなかった。
少なくとも傍目からは。
しかし、二人は自分たちの内にある決定的なものが失われたのを理解した。
「言ったでしょ? 奥さんの寿命の半分をあげるって」
その言葉を妻は理解する。
本来なら夫はあの場で死んでいた。
けれど、自分もまた救出された後、体調が快方へ向かうことなく死ぬ運命にあったのだと。
「悪く思わないでくださいね、これが私の仕事なんです」
霊となり空へ昇っていく夫婦に対して死神は言った。
けれど、二人は恨み言一つ言わず、むしろ先ほどと同じ感謝の言葉を繰り返していた。
「ありがとう。私達が共に過ごせる時間をくれて」
死神は苦笑いをしながら穏やかに消えゆく二つの魂を見送った。
数秒後、骸となった夫婦に手向けの言葉を贈る。
「ま、結果オーライってやつですね」
夫婦にとって最良の結末だったのかもしれない。
しかし、失敗は失敗。
「あーあ、あとでまーた怒られるよ……」
そんなあまりにも人間じみた愚痴を呟きながら死神は姿を消した。
仲睦まじい夫婦の死に船員たちが気づくのは夜が明けてからだった。
「死ぬ瞬間までも同じか」
「神様も粋なことをするものだ」
そんな言葉を受けながら穏やかな表情をした二人の体は冷たい海を照らす朝焼けに包まれていた。