危機
ばっとその場から窓を見てみる。キッチンにある窓はあまり大きくなく、外の様子がイマイチ見えなかったので、私はすぐに飛び出してリビングの方へ向かう。あそこには大きな窓があるから、よく見えるはずだ。
リビングに入ろうとして、足が止まった。目の前にある光景が、現実とは思えなかった。
「……嘘」
家の前にある木々たちが、ごうごうと音を立てて燃えていたのだ。
ものすごい勢いだった。普段は静かに枯れ葉を落とす穏やかな光景が嘘のようで、今はそれぞれが悲鳴を上げているように感じた。窓の外はまさに地獄絵図で、あまりの光景に絶句してしまう。
こんなところでなぜ火が? いつから? 本当に現実なの?
混乱で少しの間呆然としてしまったが、すぐに声を上げた。
「た……大変! どんどん火が広がっちゃう! 消さないと!」
私が踵を返すと、どこからともなくアレンの声だけが響いてきた。
『アンナ! アンナはそこにいて。家の中なら周りが全て燃えたとしても大丈夫だから。外に出ちゃだめだ。僕らが何とかするから!』
アレンの姿は見えない。私は戸惑いつつ、一旦窓に近づきそれに触れてみると、ガラスが熱くなっていたので驚いて手を引いた。目の前では真っ赤な炎たちが踊るようにして舞い、空には真っ黒な雲が立ち上っていく。こんなに恐ろしい光景を、いまだかつて見たことはなかった。家は大丈夫と言っていたけれど、この熱さで外の恐ろしさが伝わってくる。
外では目には見えない何かが必死に動いている様子が伝わってくる気がした。精霊たちだろうか?
「そういえば、前ノアが言ってたっけ……」
『人間たちの環境破壊などが原因で彼らは疲弊していました。私が自然が多く静かな場所を求めたのは、精霊たちが休みやすいからという理由が大きいです。』
精霊たちにとって自然はとても大切な居場所なのだろう。それがこんなことになってしまうなんて、大丈夫なんだろうか。いや、精霊たちだけではない。これほど大きな火事が起こっては、街の人たちまで被害が及ぶんじゃ……!
私はいてもたってもいられず、慌てて廊下へ飛び出した。
『アンナ!』
「少しでも手伝わせて……! 水を掛けるくらいなら出来るから。ここで守られてるだけなんて嫌……!」
ノアが魔法をかけてくれているなら、間違いなくこの家は無事なのだろう。でも、守られているだけでいいんだろうか。精霊たちや街の人たちに危険が迫っている時に、一人でぬくぬくと過ごしているなんてできない。
私は廊下を抜け、玄関の扉を勢いよく開けた。途端、とてつもない熱風に煽られ、つい顔を顰める。
これだけで皮膚が焼けてしまいそうだった。火の恐ろしさを実感し、ぞっと全身が震え出す。とんでもない規模の火事に、自分の無力さを思い知らされる。ぱちぱちと焼ける音と、
「ノア……早く帰ってきて……!」
少しでも火を食い止めなくては、と歯を食いしばり、一歩外へ踏み出した時だった。
がつん、と後頭部に衝撃を受ける。
わけもわからず目の前が真っ暗になり、がくんと膝が折れた。遠くで私の名前を呼ぶ精霊たちの声を聞いた気がした。
ずきずきと頭が痛む。
顔を歪めつつ唸り声をあげた私は、静かに瞼を持ち上げた。目の前がぼんやりとして視点が合わなかったが、少し経ってからようやく周りの景色がわかるようになる。
まず視界に入ったのは古い壁と、ぼろぼろの小さな机だった。机の上には埃が被っており、人が住んでいなさそうな気配を感じる。部屋はあまり広くはなく、机のすぐ横に外へ通じると思われる扉が一つだけあった。左手には小さな窓らしきものがあったが、布で覆われており外の様子は全く見えない。
体を起こすと、またしても頭痛に襲われる。そこで、自分の手が後ろで縛られていることに気が付いた。驚いて体を見下ろすと、黄ばんだシーツが敷かれた古いベッドの上だった。見たことがない場所だ。
「え、な、なに……?」
紐をほどこうと体をばたつかせるが、しっかり固定されているようでびくともしない。
バクバクとうるさく鳴る心臓を落ち着かせて冷静になるよう自分に言い聞かせる。何が起こったの? 何があったっけ。
「あ、そうだ、火事があって……!」
火を消そうと外に出た途端、頭を殴られたような感覚があって気を失っていた。気がついたらこの部屋、というわけだ。ということは、誰かが……。
「目が覚めた?」
声がしてはっと後ろを振り向く。今まで気付かなかったが、ベッドの隣には小さな椅子があり、そこに人が座って私を後ろから眺めていたらしい。彼はだらりとだらしなく背もたれにもたれかかり、脱力した状態でこちらを見ていた。
「……ハリス?」
唖然としてその名を呼ぶ。すっかり憔悴した様子のハリスが、どこか焦点の合わない目で私を見て微笑んだ。一気に恐怖が押し寄せ、自分の唇が震えるのが分かった。
「ごめん、痛い思いさせて……そうしないと、アンナは二人になってくれないだろうから……」
ハリスが着ていたシャツは、先日会った時と同じもののようだった。皺だらけで汚れも付着しており、お世辞にも清潔感があるとは言えない。顔色は悪く、髪もぼさぼさになっていた。
「ど、どうしたの、ハリス……あなたがやったの?」
「アンナ。君ともう一度だけ話したい」
「も、もしかしてあの火事もあなたがやったの!? あの後火はどうなったの!??」
最後に見た光景は、家の周りの木々たちが勢いよく燃えている様子だった。あのあと、火はどうなったのだろう? 精霊たちは、街の人たちは? ノアは帰ってきたのだろうか。家は大丈夫だと思うけれど、あの炎で被害がないわけがない。
ハリスは力なく笑った。
「こんな時に人の心配かあ。アンナはさすがだな」
「ふざけないで答えて!」
「……あの家は普通の家じゃないね」
ハリスの声色が変わる。どこか恐ろしい色をした目で、ぼんやりと壁を眺めている。
「あんなにボロなのに、壊そうとしても壊れないし火もつかない。侵入しようとしても、ドアも窓もびくともしない……あの男が魔法ってやつで何かやってるんだろ」
「……それって……家に入ろうと試した、ってこと……?」
「こっそり入ってアンナと話せられたらそれでよかったのに、上手く行かないから出てきてもらうことにしたんだ。あの男も一緒に出てくるかなあ、と思ってどうしようか困ってたんだけど、アンナ一人だから驚いた。神様は俺の味方かな」
さーっと血の気が引く。つまりハリスは、私とコンタクトを取りたいがために火をつけて外に出てくるようにしたのだ。それもたまたま、ノアがいない時に。最悪の偶然だと思った。ノアは玄関を使わず魔法で外出するので、外から見ていてもいないことはわかりにくいはずなのに。
彼はふふっと笑う。
「それに、あの森で火事が起こると街の人たちも大騒ぎになって混乱してたからね。アンナを誰にも見つからずここに連れてこられた」
「ここは、どこなの……?」
「街のはずれにあった廃屋だよ。誰も使ってないし人通りも少ないから、気づかれない」
「こんなことまでして、何が目的なの!?」
私が尋ねると、ハリスがゆっくりこちらを見た。感情の色が見えない瞳に、恐ろしさが増す。彼はいつも優しくて笑っていて、花屋の仕事を頑張っていて、こんな人じゃなかったはず。
「一緒に帰ろう、アンナ。もう一度俺とやり直そう」
「……何を言っているの?」
「大丈夫。俺、今度は間違わないから。アンナだけを一生大切にするって誓うよ」
にっこり笑って言うハリスだが、その笑顔は今まで見てきた笑顔とはどこか違った。作り物のような、人形のような笑い方なのだ。




