悩み
途端、ぐわんと目の前が回ったような感覚に陥る。遠い記憶と化していたあの日の出来事が、鮮明に蘇ってしまう。鏡もナイフもないのに、震えが出て収まってくれない。
「アンナ? どうした」
魚屋のおじさんが心配そうに声を掛けてきてくれるが、私は返事をすることが出来ずにいる。でもハリスは気づいていないのか、急ぎ足で私に駆け寄り、どこか弾んだ声で私に話しかけた。
「アンナ! やっぱりここにいたのか……今、君の叔父という人をたずねに行ったんだけれど留守みたいで、どうしようかと迷っていたんだ!」
「……」
「……久しぶり、アンナ。思ったより元気そうで安心したよ」
「……なぜ、あなたがここに?」
かろうじて声を絞り出して尋ねると、ハリスはバツが悪そうな顔で答える。
「母が隠していた手紙を見つけたんだ……」
ああ、と目を閉じてため息をついた。
私が前の街を出るとき、ハリスの両親にだけは手紙を書いてきた。彼らは父子家庭の私を幼い頃から面倒見てくれた素敵な人達だったし、ハリスとの結婚も凄く喜んでくれていたので、何も言わずにいなくなるのは申し訳なかったのだ。
具体的な住所は告げず、叔父のいるところへ行く、今までありがとうとだけ書いた。そして、このことはハリスには告げないでほしいとも。
その手紙をハリスは見つけ出してしまったのだろう。彼には、叔父がトルンセルにいることを話していたので、この街にいることが分かってしまったのだ。
私は俯き、震える手を必死に抑えながら深呼吸を繰り返し、自分に言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫だから落ち着け。私はもう新しい生活を手に入れて前に進んでいるのだから、今更怯える必要なんてない。正々堂々と話せばいい。
そう心で呟いていると、ふと脳裏にノアの顔が浮かんだ。顔色を悪くさせてクマを作り、ソファ周辺を散らかしながら仕事をする光景だ。そんな何てことないノアの姿を思い出しただけで、ふっと心が軽くなったのが分かる。先ほどまで震えていた手も、すっと普段の様子を取り戻した。
少し……落ち着いたかもしれない。
それでも、私はハリスの顔から少し視線を逸らしたまま言う。
「それで、わざわざ何の用?」
「俺……謝りたくて……」
「もういいから。私はこの街で新しく生活をスタートさせてるから、もう関わらないで。それがあなたにできる唯一のことだから。じゃあ」
それだけ言って立ち去ろうとした私の腕を、ハリスがぐっと掴んできたので、驚きで小さな声を上げた。つい、ハリスの目を見てしまう。彼は至って真剣な顔で私に言う。
「やり直したい! もう一度、アンナとやり直したいんだ!!」
……何を言っているのこいつは……。
唖然としたまま、動くことも出来ず、ただぽかんと口を開けた。
私と両親の思い出の家に浮気相手を連れ込み、私たちのベッドで愛し合った。それも、私の友達である女性をだ。
母の形見のドレッサーにばっちりそれが映っていたためトラウマになり、私は鏡だけではなく刃物も使えなくなり、仕事さえも失った。
ここまで私を追い詰めておいて、またやり直したいなんてどの口が言うのだろう。
嫌悪感でいっぱいになり、私はハリスの手を払った。
「ふざけたこと言わないで……私が、私がどれだけ辛い気持ちになったと思ってるの」
「本当にごめん、謝る。でも本気じゃなかったんだ、あれは一時の迷いであって、本当に結婚したいのはアンナしかいないんだ! 僕たち、幼い頃からずっと一緒にいたじゃないか……これからそうだって信じてた」
「信じてたのは私の方よ! 絶対にありえない、もう目の前に現れないで!」
私はそれだけ叫ぶと、引き留めるハリスの声を無視してその場から駆け出した。一度も振り返らなかったし、とにかく全力でその場から離れた。
そのまま家に帰るのも危ないと思い、ハリスを完全に撒くために町中を走り回って逃げ続けた。もし万が一、あの屋敷に辿り着いてしまったらと思うとぞっとする。ようやく訪れた平穏な生活を壊されたくない。
それに……ノアにも知られたくない。
私が刃物を使えなくなった理由を、彼に具体的に話したことはない。ノアも追及してきたことはなかった。聞いてもらいたいという気持ちがないわけではないが、同時にノアには知られたくないという正反対の気持ちもあり、心がぐちゃぐちゃになる。
せっかく忘れかけていたのに、どうしてかき乱すようなことをするんだろう。そっとしておいてほしいのに。
脳裏にあの夜のことが蘇って胸を圧迫する。苦しい、もうハリスのことなんて好きじゃないのに、やっぱりあの裏切りは私をずっと苦しませる。
しばらく走り回り、ハリスが追ってこないことを確認した私はようやく家へ戻っていった。結局魚を買い損ねてしまったので、近いうちにまた買い物に行く必要がある。
ため息をつきながら中に入り、キッチンを目指して長い廊下を進んでいると、突然右上から声が降ってきた。
「大きなため息ですね」
びくっと驚き見上げると、階段の上からノアがこちらを見ていた。
「あ、ノア……」
「何か悩み事ですか」
ノアは相変わらず黒い服を着て、青い瞳で私を見た。先ほど街であったことが蘇り、ぐっと答えに詰まる。
話してみたい……でも聞かれたくない。結婚を目前に婚約者に浮気された女だなんて、ノアには知られたくない。
「……いえ、魚を買い忘れてしまったな、って……」
「魚? それだけですか?」
「はい。また明日にでも買いに行きますね」
へらっと無理に笑うと、私はそのまま逃げるようにキッチンへ向かった。ノアの綺麗な青い瞳は、今の私には苦しく感じる。
とはいえ、果たして私はどうするべきなのか。
あれでハリスが諦めてくれれば一件落着。でも万が一、諦めていなかったら? 街をうろうろして私を探し続けて、誰かがぽろっと『魔法使いの家で働いてるよ』なんて言ってしまったら、彼が訪ねてくるかもしれない。
それは何としても避けたい。精霊たちもノアもいるこの家に、ハリスは来てほしくないのだ。
考えた挙句、とりあえず相談するなら叔父さんにだろう、と結論が出た。どうやら叔父さんの住所はバレているらしいし、もしかするとハリスがまた訪ねに行くかもしれない。叔父さんなら勝手に私の住所を教えることはしないだろうけど、あらかじめ説明しておくに越したことはない。
とはいえ、叔父さんの家に行く途中にハリスにあってしまったら……そんなリスクもあり、一人思い悩んでいた。
「アンナ、唸ってどうしたの」
隣からそう声が掛かり、顔を上げるとアレンが心配そうにこちらを見ていた。私の手には木べらと鍋の取っ手。イチゴのジャムを作っている最中だった。
「え、ごめんね唸ってた?」
「うんめちゃくちゃね」
「ちょっと考え事。ごめんね、大したことじゃないから」
私はそう笑って答えるが、アレンは納得していないようだった。むっとしたように口をとがらせて言う。
「嘘だね。僕たちは人間の心に敏感なんだ。何か悩んでいるでしょ?」
「えっ、悩みっていうか……」
「言ってみてよ。ノアに内緒にしてほしいなら、そうするから」
アレンはそう言ってにっこり笑った。本当に彼が内緒にできるのだろうか……と疑問はあるが、優しい言葉は素直に嬉しいので、少しだけ話してみることにする。
「大したことじゃなくて。叔父さんに伝えたいことがあるんだけど」
「行けばいいじゃん」
「えっと、街を歩かずに伝える方法はないのかなーって」
「なんで街に行きたくないの?」
「ちょ、ちょっと足が疲れてて、歩くのを休憩したいの」
苦しすぎる嘘だが、アレンは疑わずふうん、と受け入れてくれたようだ。
「例えば手紙とか?」
「手紙は書いた後、結局届けに行かないと……」
「それくらいなら僕がやってあげる」
アレンがにっこり笑ってそう言ったので、私は驚いて鍋から手を離した。
「え、アレンが!?」
「ちょっと手紙を置いてくるぐらいならできるよ。僕たちは別にここに閉じ込められてるわけじゃないんだからさ。元々、遊びに来てるんだよ」
他の精霊はともかく、アレンはずっと家にいるから、遊びに来てるというより住んでるという方が正しいと思うけれど。
そんなことは置いておいて、私は喜んでアレンに言う。
「じゃあ、お願いしてもいいかな!? これが終わったらすぐに書くから!」
「任せて! それぐらい余裕だよ!」
アレンはどや顔でそう言ってくれたので、私は笑いながらジャム作りの続きに入った。これで叔父さんにハリスのことを伝えれば、もしハリスが叔父さんを尋ねても居場所がバレることがない。それに、街の人にも口止めしてくれるかもしれない。




