新たな仕事
「アンナ!? 信じられない、突然どうしたんだ!」
叔父さんは私の訪問に、目を真ん丸にして驚いた。久しぶりに会う叔父さんは少し白髪が増えていたけれど、変わらない優しいたれ目をしていた。
彼は結婚しており、フロンという女性と五歳の男の子と暮らしている。三人は温かく私を迎えてくれ、淹れたてのコーヒーを出してくれた。何かを察したのは、フロンさんは息子を連れて他の部屋に行き、私と叔父さん二人きりにしてくれた。
私は彼の正面に座り、まずは頭を下げる。
「突然来てごめんなさい。フロンさんもびっくりしたよね」
「それは全然いいよ。言ってくれれば迎えに行ったのに……一体どうしたの? もうすぐ結婚する、って聞いたけど」
そう尋ねた彼は、私の顔色を見て口を噤んだ。恐らく顔に出てしまったのだろう。
……すべての事を説明しなくてはと分かっているのに、どうしても言いたくない。私の家で婚約者が友達と寝ていた場面を見てしまっただなんて、口に出したくない。
「結婚は……なしになったの」
か細い声でようやくそれだけ言えた。まだまだ説明しなくてはいけないことがたくさんあるのに、それ以降は出てこなかった。
少し沈黙が流れた後、叔父さんは優しく微笑んだ。理由を追及することなく、私に言う。
「もう暗いし、今日は泊まっていきなさい。大丈夫、フロンも君が私の娘同然の存在だって知ってるから。アンナは幼い頃から一人でたくさん頑張ってきたんだから、たまにはゆっくり休息をとるのがいいよ。トルンセルはぴったりだと思う」
それだけ言うと、彼はフロンさんに泊まりの準備をするように伝えに行ってしまった。突然押しかけ、泊るだなんて非常識の自覚があり、心苦しい。
出されたコーヒーを一口飲むと、なんだか泣きたくなった。涙が零れないよう必死になりながら啜る。
少ししてフロンさんと叔父さんが戻ってくる。彼女は嫌な顔を一つもすることなく、私に声を掛けてくれた。
「空き部屋があるから、そこを使ってくれればいいわ。狭いけれど、そこでよかったら何泊しても構わないから。シーツを敷いてくるから少し待ってて」
「あ、私自分でやります!」
「いいのよ、コーヒー飲んでゆっくりしてて。あ、そうだ、息子のパウルです。よろしく」
五歳の少年は少し離れたところで、どこか恥ずかしそうにしてこちらを見ている。その様子を微笑ましく思い、私は優しく声を掛ける。
「初めまして、アンナです。突然来てごめんなさい、よろしくパウル」
パウルは少しもじもじしたあと、すぐにこちらに駆け寄って隣に座った。そしてキラキラした目で見上げてくる。
「料理人って、ほんと?」
ぐ、と答えに詰まる。嘘ではないが、今は無職だし料理が出来る状態ではないのだが。
「ええと……レストランで働いていたのは事実だよ」
「凄い! パパが言ってたよ、女性で料理人は珍しいんだけど、アンナはすっごい才能があるから出来てるんだって!」
「大げさだなあ……」
「今度何か作ってくれる!?」
期待のまなざしで見つめられ、私は困り果てつつも頷いた。彼は嬉しそうに笑う。大丈夫だ、包丁を使わない簡単な料理なら作ってあげられるだろう。パンケーキぐらいなら……。
そう、私は決して料理が一つも出来なくなったわけではない。包丁さえ使わないものなら今でもできる。ここ最近の自分の食事だって、それで何とかしてきたわけだ。かなり範囲が狭まれたので、仕事としては出来なくなった、というだけ。
パウルは私にトルンセルについて色々話してくれた。魚が美味しいんだ、野菜もよく採れて美味しいよ、最近はお菓子の店が増えてきた……美味しい物を食べるのがとても好きな子なのだと、よく分かる口ぶりだ。
微笑みながら話を聞いていると、フロンさんが部屋の支度が出来たと呼びに来てくれた。シャワーも使っていい、と簡単に家の中の説明も簡単にしてくれた。
だが、洗面所にある鏡を見て強く顔を背けたのを、叔父さんやフロンさんに見られていないか心配だった。
シャワーを借りてベッドですっかり熟睡してしまった。
家ではソファばかりで寝ていたので、疲れが取れていなかったのだろう。朝目が覚めると体が軽くなったように感じた。私は簡単に支度をして、部屋の外へと出る。
「アンナ、おはよ!」
パウルが無邪気な笑顔で挨拶をしてくれ、ほっとした。こういう時、子供の無垢さは傷ついた心を癒してくれると思う。
「おはよう」
「アンナ、朝ごはんを作って! なんでもいいから!」
起きた途端そうねだられ、ギクッとする。昨晩、料理をしてあげると約束したのは自分だ。
大丈夫、包丁さえ使わなければきっとできる。できるはずだ。
「パンケーキは好き?」
「好き!」
「じゃあ、焼こうかな」
「やった! お母さん! アンナがパンケーキ焼いてくれるって!」
パウルが跳ねながらキッチンへ向かって行く。フロンさんが申し訳なさそうにこちらに来たので、構わないですよ、と答えた。キッチンを借りる許可をもらい、私は見慣れないそこに立つ。
一般的なキッチンだ。包丁はしまってあるみたいなので安心。私は卵を取り出した。
誰かに作る料理は久しぶりだった。あのレストランを辞めてしまってから、包丁を使えるよう苦しみながら練習をするだけで、料理自体が苦痛に感じるほどだった。吐きそうになりながら鏡を見たり包丁を握ったり、とにかく嫌な毎日だった。
材料を混ぜたものをフライパンで焼いていく。甘い香りが鼻につき、ああこんないい匂いを嗅ぐのも久しぶりだなと思った。後ろでパウルが目を輝かせながらこちらを見ているのが分かる。
「出来たよ」
「わあ、なんか綺麗!」
人数分のパンケーキをテーブルに運ぶ。他にも、朝フロンさんが用意してくれていた卵やソーセージなどがあった。テーブルの上にはフォークとナイフが置かれており、私はぎくっと焦った後、自分の分のナイフのみこっそり下げておいた。ナイフも遠くならまだしも、近くで見るのは得意ではない。
みんなで座った後、早速パウルが我慢できないとばかりにかぶりついた。すると、彼はみるみる顔をとろけさせて笑ったのだ。
「ふわっふわだあ! 美味しい!」
続いてフロンさんと叔父さんも食べ、不思議そうに目を丸くした。
「家にある材料を使っているのに、何が違うのかしら」
「凄く柔らかい。さすがプロは違う」
三人が口々に褒めてくれるので、恥ずかしく思いつつ心が温かくなるのを感じた。美味しそうな顔を見て自然と自分の頬が緩む。
ーーやっぱり、誰かに料理を振舞って喜んでもらえるのは、とっても嬉しい。
でも、プロとしてはもう通用しない。それに、家でするにしても包丁を使わないんじゃろくなメニューにならない。家政婦としても働くのは厳しいだろうな。そう改めて思うと、心が酷く痛んでじんわりと涙が浮かんだ。
少し俯きながらフォークで卵を食べていると、叔父さんが私に言う。
「トルンセルの印象はどう? 小さいけど素敵な街でしょう」
「……はい、とっても。あの、こっちで住もうかと思っていて……仕事を探そうと思ってるんです。あ、もちろん家も自分で見つけます、多少の貯金はあるので」
「え!?」
叔父さんがぎょっとする。
「でも兄さんの家は? あそこには義姉さんの残した形見もたくさんあるだろう? 業者に頼んで今から届くの?」
「……いえ」
私は小さく答えた。なんて説明すればいいか分からなかった。
大切な家や形見は、今私にとってトラウマを呼び起こすものになってしまっているから、戻りたくないなんてーー
かといって処分する勇気もなくそのまま。いつか時間が経って心の傷が大丈夫になったら、また引き取りに行きたいのだけれど。
叔父さんとフロンさんは顔を見合わせる。視線で何か会話を交わすと、叔父さんは微笑んで言う。
「分かった、君がそうしたいならもちろん協力するよ。家は、いい所が見つかるまでここで暮らせばいい。気にすることはないんだよ」
「そ、そんな、申し訳ないです!」
「大丈夫だよ、パウルはアンナのパンケーキを凄く気に入ったみたいだからね、色々作ってもらえるとそれで十分ありがたい」
「あ、あの……」
私料理はーーそう言おうとして、叔父さんの声にかき消される。
「そうだ! アンナにぴったりの仕事を紹介できるかもしれない!」
「え?」
「そうだそうだ、適材適所だ。きっと上手く行くはず。ずっと探していたけどなかなか見つからなくて」
叔父さんはにこにこ嬉しそうに笑いながら、ずばり言った。
「魔法使いの所で料理人として雇ってもらえばいい!」
彼の提案に、目が点になった。