睡眠中の事故
そして周りからの視線から逃れるように、フードをすぽりと被った。
「では私はこれで。アンナ、帰りましょう」
「え、あ、は」
ノアはそう言うと、突然私の体をひょいっと抱きかかえたのでぎょっとする。いわゆるお姫様抱っこで、平然と私の体を支えている。
「飛びます」
「とび!?」
そんなとんでもないことを言ってのけた彼は、私が心の準備が済ませる時間も与えてくれず、そのままふわりと空に向かって歩き出した。体が重力を失い空に上がっていくのを、私は悲鳴すら上げることが出来ずがちがちになって受け入れるしかなかった。
ぐんぐん体は上り、屋根までくる。そのまま私たちの屋敷へと向かって行った。
……海の中に落ちた後は、空を飛ぶだなんて。
無論空の散歩なんて初めて。子供の頃は『空を飛べたなら』とあこがれもしたが、実際体験するとあまりに怖い。景色を楽しむ余裕も、心地いい風を感じる余裕もない。
「くしゅんっ」
つい小さなくしゃみをすると、ノアが私の顔を覗き込む。すぐ真上にノアの顔があり、恥ずかしさに自分の顔がぼっと熱くなった。
「すみません、濡れたままでしたね」
そう言って、彼は私を抱きかかえたまま指先を小さく回して円を描いた。すると、どこからともなく風のようなものが私の体を包み、一瞬で濡れた服や髪が渇いてしまった。いつだったか、アレンに唐辛子を口に入れられた時、ノアが使っていた魔法だ。
「あ、ありがとうございます……温かくなりました」
「行くのが遅れてすみません。仕事で帰りが遅くなり、帰宅するとアレンを筆頭に精霊たちに罵倒されまして」
「罵倒」
「すぐにあなたを助けに行け、と……私が留守中も、彼らと上手くやってくれていたんですね。ずいぶん愛されているようだ」
そう言ったノアの表情は、どこか嬉しそうに見えてどきりとした。彼に抱きかかえられているというこの状況も、密着度が高くて私の心臓を速まらせるには十分な要素だ。
「いえ……ノアが来てくれなかったら死んでいました。ありがとうございました」
「あの少年が助かったのはあなたのおかげです。水の中に沈みながらも、絶対にあの子を離そうとしなかったんですからね。少年をすぐに助けることが出来ました。死にそうなときにできることではありません」
「そんな……」
「精霊は人の心を見る能力があります。なので、心が美しくない人間には懐かない。あなたを雇ってよかったと思っています」
ノアの静かで淡々とした言葉は、心地よかった。初めて出会った時は表情も変わらずぼそぼそ話す彼を変わった人だ、と思ったりもしたが、今はそんな低いアルトの声がとてもありがたい。
私は少し微笑む。
「それでいくと……ノアの心も綺麗ということですね」
私がそう言うと、ノアは驚いたようにこちらを見下ろした。ばちっと至近距離で目が合い、私たちはどちらともなく視線を逸らす。
心の底からそう思っていた。
凄く変な人だけど、精霊たちに愛され、街の人たちに愛され、私とパウルを救ってくれた。分かりにくいけれど、この人はとても優しい人なんだと。
しかしノアは気まずそうに私から目を逸らしたまま言う。
「いえ……あなたが思っているほど私は善人ではありません。現に……」
何かを言いかけた彼を見つめる。でも、続きが聞けることはなかった。私はそっと微笑む。
「あなたが留守中、買い物に行ったんです。そしたら街の人たちからたくさん食料をサービスしてもらっちゃって」
「はい」
「それを使ってたくさん料理を作って……でも精霊たちがすっかり食べてくれて」
「はい」
「甘いものが特に好きみたいですね……あ、今日も朝焼いたんですけど……」
「はい」
私のくだらない話に、ノアは丁寧に相槌を打ってくれた。なんだかその淡々とした返事が心地よくて、私は静かに瞼を閉じる。疲れがどっとやってきて眠気を誘った。
「ノアの分も……無くなっちゃいそうなので……色の違う籠を用意して、こっちが精霊たちの分、ノアの分って説明したら、ちゃんと、聞いてくれて」
「はい」
「思ったより……ずっと楽しく、働けています」
「はい」
「よく分かりました……ノアは、本当に優しい人です……あなたの……好物も、知りたい……」
「え?」
空を飛ぶという不思議な感覚と、ノアから伝わるぬくもりが心地よく、私はそのまま意識を手放してしまった。誰かの体温を感じるなんて、どれくらいぶりだろう……そんなことを考えながら。
「あれっ」
目を開けると、自分の部屋のベッドの上に横たわっていた。
窓からは日が差し込み、青空が見える。時計を見ると、朝の八時を指していた。
「え、あ、うそ!」
記憶を呼び起こすも、この家に辿り着いたことはまるで覚えていない。つまり、ノアに抱えられたまま、帰宅途中に寝てしまったというわけだ。さらには、すっかり寝坊する始末。
「いけない!」
慌てて起き上がり、簡単に身支度を整える。せっかくノアが帰ってきたというのに、昨日の夕飯も、さらには朝食も作れていないとは、全く仕事が出来ていないではないか。
私は部屋から飛び出し、キッチンへ向かおうとすると、リビングのソファに黒い塊が見えて足を止めた。
「ノア?」
やはりノアだった。はじめて会った時のように、彼はソファの上で黒いフードを被ったまま爆睡していた。顔はよく見えないが、気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。さらに、彼の近くには色々な本や紙が散乱していた。まさか、たった一晩でこんなに散らかしたというの?
呆れつつもそばに近づき、そっとそのフードを取ってみる。やや顔色が悪い寝顔がそこにあった。
「その調子じゃしばらく起きないなー」
背後から声が聞こえたので振り向くと、アレンが立って呆れたようにノアを見ていた。私はアレンにまず謝る。
「アレン、昨日の夜何も作れなくてごめんね」
「そんな事気にしてないよ! 僕だけじゃなくて精霊たちもね。嵐で大変だったのは分かってる。言ったけど、別に僕たちは食べなくても死なないしね」
「あ、それとノアに私とパウルのことを伝えてくれてありがとう」
「当然だよ! もとはと言えばノアの帰宅が遅すぎたのが悪いんだ。アンナが無事でよかったよ!」
アレンはそう言ってにぱっと笑ってくれた。あまりの可愛さに胸がぎゅうっとなる。さらに、アレンの周りの温かな空気がフワフワ漂っている気がして、他の精霊たちも同じことを言ってくれている気がした。
「みんなありがとう……」
「昨日は疲れただろうからゆっくりすればいいんだ。その調子ならノアもしばらく起きないんだからさ。あ、でも昨日の食べ物はもうなくなったよ」
「あ、みんな食べてくれたの?」
「じゃなくてさ」
アレンの視線の先を見てみると、寝ているノアの側に、本や紙などに紛れて空の白い籠が転がっていた。私がノアのために作っておいた料理たちだ。
昨日作った朝食と、お菓子たち。それを全て彼は食べてくれていたらしい。
「あ……食べてくれてたんだ……って、クッキーとかはまだしも、他のものは冷めて固くなっちゃっただろうに……」
「いいんだよ、アンナのご飯は冷めても美味しいから。アンナは疲れてるでしょ? 僕たちのことは気にせず、ゆっくりしたらいいよー!」
アレンはそう言って手を振ると、すっと消えていなくなってしまった。私は優しい提案に心を温かくしながら、眠るノアを眺める。
同時に、昨日彼に抱きかかえられたまま眠ってしまったことや、部屋まで運ばせてしまったことを思い出し、気まずく思った。申し訳ないな、彼にかなりお世話になってしまった。
……ノアには本当に感謝だ。料理人の仕事を与えてくれ、命の危機も救ってもらった。
静かに寝たままのノアの顔をそれ以上見ていられなくなった私は、とりあえず彼のフードを戻して目元を隠した。そして、毛布ぐらい持ってこようと足を踏み出した時、床にあった紙を思い切り踏んでしまい、ずるりと足を滑らせる。
「わっ!」
体のバランスを崩し、そのまま倒れこむ。ノアの寝顔が一瞬でこちらに迫ってきた。
次に感じたのは、口元にごつんという強い刺激と、不思議なノアの香り。
私の体はノアに覆いかぶさるようにして倒れ、その拍子に彼の顔に激突した。そして、彼の唇すぐ横に、まるでキスをするような形で触れてしまっていた。
「うう……ん」
ぶつかった痛みでノアの表情が歪む。私はハッとして慌てて体を起こし、自分の口を手で押さえた。
一瞬の出来事で、自分自身何が起こったのか理解できていない。ちょっと待って、触れた? 私、触れたんだっけ?
いや違う、多分ギリギリ大丈夫だった。ギリギリノアの口のすぐ横だったから、セーフなはず!!
そう自分に言い聞かせたが、ぶわわっと熱が上がってきてゆでだこのように変化した。ノアは元々多少の刺激では起きないので、幸いにも彼は気づいていない。そのことに対してはほっとした。
寝ている相手にキスみたいなことをしてしまったなんて、これじゃあ私が変態みたいじゃないか。いやでも事故だった。事故だったから!
「そ、そもそも一晩でこんなに散らかすのが悪い!」
ついにノアのせいにした私は、怒りながら自分の部屋に向かって毛布を持ってきた後、ノアに乱暴に投げつけた。それでも彼は起きず気持ちよさそうに寝ているだけだ。
自分一人が焦っているのがとても悔しくてーー私はなんとも言えない気持ちでキッチンへ向かった。




