魔法使いの住む街
例えばガラスに映る自分の顔だとか、そういうものはまだ大丈夫らしかった。やはり一番は鏡で、それに似た、銀色に光るものがとことん苦手になってしまったのだ。
それ以降は地獄のようだった。友人たちにあれだけ祝ってもらったのに、今更結婚をなしにする罪悪感と恥ずかしさ。家の外に出れば、好奇の目で見られ噂されるのが耐えられなかった。
ハリスは何度も家に足を運んでくれたが、私は一度も対応していない。彼と話せる精神状態ではなかった。
休みを取りしばらく籠りつつ、何とか包丁が使えるように一人で特訓したが、まるで状況はよくならず、私は諦めて仕事を辞めた。包丁が駄目な料理人など、使い道がない。
それでも同僚たちは『辞めずに休みということにしておけばいい』『いつかだいじょうぶになる日が来る』と口々に励ましてくれ、本当にありがたかった。でも、それを受け入れなかったのは自分だ。
いなくなってしまいたかった。ハリスとの思い出があまりに多すぎるこの街から、噂が出回ってひそひそこちらを見てくる視線から、逃げ出したかったのだ。
私は荷物をまとめ、ハリスの両親にだけ挨拶の手紙を書いて町から出た。父と過ごした家を出るのも、母の形見に布を掛けたままでいなくなるのも心苦しかったが、他に方法がなかった。頼りになるのはトルンセルに住む叔父だけだったので、そこを目指して今に至る。
いつの間にか婦人も列車を下り、再び一人になっていた。列車内はかなり空いており、私以外の乗客は数えるほどしかいなくなっている。
明るかった空はだいぶ暗くなり、赤い夕陽がさして美しい。そろそろ目的地に到着するので、私は立ち上がり荷物を持った。
トルンセルは、婦人が言っていたように小さな町だ。私は一度も訪れたことはないが、海が見えて魚が美味しい、可愛らしい街だと叔父から手紙で聞いていた。人口もさほど多くなく、栄えているとは言えないが、その程よいのどかさが人気で観光にも訪れる人が結構多いだとか。
列車から降り、手紙に書かれていた住所を頼りに地図を開く。大きなトランクを持ったままだと長距離の徒歩は厳しいが、歩いていけない距離でもないので、私は気合を入れて歩き出した。仕事がないので、節約したいという気持ちも大きい。
可愛らしい街だった。時刻的にそろそろ閉店する店が多いので賑やかさはないが、どこか懐かしさを感じる街並みは私の心の傷を癒してくれる気がした。
「旅行中?」
すれ違った老人が私に声を掛けてくる。大荷物なので、旅行と勘違いされるのは当然だろう。
「いえ、叔父に会いに来ました」
「そうかあ! トルンセルは初めて?」
「はい。とても素敵な街ですね」
「ははは、小さいけど、住み心地はいいよ。天候もいいし、海が近くて魚が美味しい。でも昔は、嵐も多く不漁が続いた時期があって大変だったんだよ。でも魔法使いが住みだしてから、本当に平和になった」
「……えっ?」
足を止めてきょとんとしてしまう。おじいさんは頷いてもう一度言った。
「魔法使いが、酷い嵐は収めるようにしてくれるみたいでね……もちろん、干渉しすぎることはしない。被害が大きそうなときだけすっと現れて抑えてくれる。こんな小さな街になぜ住んでいるのか分からないが、彼が救ってくれていることは間違いない」
「この街には魔法使いがいらっしゃるんですか?」
驚いて声が大きくなってしまう。魔法使い、それは誰しもが存在を知っていて、でも本人に会えるのはごく一部の人間しかいない。非常に稀で凄い人なのだ。
私が小さな頃も、父は魔法使いについて色々話してくれたことがある。父はどうやら、彼らに憧れているようだった。でも結局、会うことなく亡くなってしまったようだが。
おじいさんは目を丸くする。
「知らなかったの? それを目的にここへ来る人も多いんだけど……ああでも、彼はとても人嫌いで変わり者だから、会える可能性は低いと思うよ。街に出てくることもかなり珍しくて、私も一度見たぐらいかなあ。それもローブで顔を隠してるからよく見えなかったし」
「はあ……」
「とにかく、彼のおかげでこの街は平和で楽しい街だよ。楽しんで」
そう言うと、おじいさんは私ににっこり笑って去っていった。小さくなっていく背中をぼんやり眺めながら、魔法使い、という単語に現実味を感じられないでいる。
ここに住んでいるのか。魔法使いが……。
少し頭の中で想像した魔法使いは、幼い頃絵本で読んだ黒いフードを被って鼻が尖った、気難しそうな老人だった。しわがれた声で呪文を唱え、爪が伸びた指で何かを指示する。
……こんなことをしている場合じゃない。暗くなる前に、叔父さんの元へ行こう。
私は気を取り直し、急いでその場から離れた。