閑話:元事務職員の後輩、⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎(黄金郷編 エピローグ)
私は田中良子。
某IT企業某部署の主任にして、次Qには係長への昇進が内定している気鋭の若手。
とはいえ、その昇進の経緯はあまり喜ばしいものではない。
係長級のひとりが脳溢血で亡くなられてしまった。その穴埋めだからだ。
不幸による昇進を喜ぶほど無神経ではない。身寄りの無い方だったが会社からの信頼は厚く、会社葬が行われたときには様々な部署の管理職や役員が来た。
棺に入ったご遺体に花を入れる時、泣いている人も相応数いた。堅物で知られる社長が泣く姿など、今後見ることはないだろう。
私はその人の直属の部下だった。
松本さんは私を丁寧に育ててくれた。勢いだけで入社して何もわかっていなかった私にパソコンの使い方からじっくりと教えてくれて、彼が係長に昇進するのと同じタイミングで私も主任に昇格した。
ある時から私はストーカー被害に悩まされるようになり、そのストーカーがどうやってかセキュリティの万全な会社の中に押し入り、私を傷つけようとする事件があった。
松本さんはナイフを持ったストーカーを見ると、逃げたり狼狽えたりするのではなく平然とストーカーに歩いて向かっていた。
その行動に虚をつかれたストーカーの手首をつかみ、関節技をかけてナイフを手放させ、肩口から押さえ込んであっさり制圧した。
ストーカーを視界に入れてから10秒もかからない間の出来事。私は悲鳴をあげる間もなく助けられることとなった。
そんな松本さんが亡くなったと聞いた時は愕然とした。
父のように、兄のように慕っていた頼れる先輩がいなくなって、これからどうしたら良いのかと思っていたが、教育の賜物か上の空でも業務はちゃんとこなして、まだまだ先のことなのに昇進の内示を受け取ることになった。
一度は固辞したものの、同席していた社長からの「松本くんの意志を、どうか君が引き継いでほしい」と言われ、不安はあるものの受諾したのだった。
なんでそんなことを思い出したんだろうか。
「田中くんも元気にしているといいんだけどね」
そう、松本さんの声を聞いた気がしたからだった。幻聴のようで、しかし間違いなく肉声だった。矛盾しているが、そうなのだ。
感情が、揺さぶられる。
「あれ?主任、検証で使う共用のPCが松本さんのアカウントでログインされているんですが、何か覚えあります?」
まるで私の感情に畳み掛けるかのように、部下の子がそう聞いてくる。
実際見てみると、確かに松本さんのアカウントでデスクトップが表示されている。
松本さんはセキュリティ意識が高く、何かあった時のためにという理由で自分のアカウントのログインIDとパスワードを他人に教えるということは一切しなかった。
それは私にもそうだった。
だから、本人がログインしない限りはこんなことはありえない筈。
どうしてこんなことが起こったのか。
名残惜しさはあるが、故人のアカウントなのですぐシャットダウンして共用のアカウントでログインし直すように責任者として指示する。個人の感情を優先させるなら、調査という名目でPCの中を見るということはできなくもないが、それを松本さんは良しとしないだろう。
ぐしゃぐしゃになりそうな感情を抑えて席に戻ってPCのディスプレイを見ると、妙なテキストファイルがあることに気づいた。
ファイル名は「田中くんへ」。私は松本さんのログインIDとパスワードを知らないが、私は松本さんに自分のログインIDとパスワードを半ば強引に教えていた。
もしかして、と思い、そのテキストファイルを開いてみると。
「俺はあっちで元気にやっている。田中くんも元気で良い人生を送ってくれよ。おじさんとの約束だ。じゃあ」
ファイルのプロパティを見ると、日付は今日、時刻は1時間前。
私は離席するときに必ずロックをかけているので、誰かが私のPCを操作することはできない。
私のIDとパスワードは、松本さんにしか教えていない。
だから、こんなことができるのは
「ごめん皆!急用ができたんで早退する!!」
PCをシャットダウンして、私はそう叫んで誰かが止める間もなく職場を飛び出した。
何故かわからないけど、
どうやったかわからないけど、
たぶん松本さんは私に最後の挨拶をしてくれたんだ。
突然亡くなって、いつものように松本さんに会えると思っていた明日が来なかった私に。
お別れを言えなかった私に。
あの世なのかどうか知らないが自分は元気でやっているからと。
そうなんだと、わかった。
ありがとう松本さん。
あなたがいなくても、明日からまた元気に頑張ります。
松本さんも、そんな私でいてほしいと思ってくれてると、信じてます。
だから、今日だけは泣きます。
私の恋が本当の意味で終わりを告げた、今日だけは。




