二話【銀の腕輪】
深淵に沈んでいった怪魚。
零落してゆく心情。
欠如していった常識。
─────呪える。
今なら、出来る。
暗闇の意志の中で、ぼんやりと俺は言葉を並べた。
思い出してゆくのは鮮明に映った悪魔たちの姿だ。
正確には、愚民の集合体とでも言おうか。
手を伸ばそうにも、体がない。
脚を伸ばそうにも、体がない。
─────動かない。
それにしても、喉が渇いた。
有象無象を想起した後に、呆れたのか。己の自然体は生きようと再稼働しようとし始める。蟻さえにも負けるであろう緩慢な動作。
ゆっくりと瞼を開く。
「ああ。くそ」
体感が徐々に戻ってくる。
あまりにも鈍いが、体が段々と動くようになってきた。……だが同時に、ひしりと体の奥深くから蠢く痛みを感じ取って。
ふと一瞬、俺は動きを止めた。
「……そうか。フレンディ、アイツがやったやつか。まぁ、死なないで済んだんだ。良しとしよう」
厳かに起き上がる。
流動する激痛は耐え難いモノだったが、だからといってこの場で野垂れ死ぬのも少々嫌悪感があるのだ。
それに、こんな所でくたばっていられるか。
起き上がった後に、辺りを見渡した。
「─────夜空。街灯の少ない小さな街。河川敷……」
見渡して溢れた語句を多用し、拙い己の記憶から現在位置を探り出す。されど、見当もつかない。……場所が不明だった。
しかし、それは別にどうでもいい事だったのかもしれない。
今の自分は無職だ。
そして何のスキルもなく、何の技術も持ち合わせていない。
今まで冒険者だったが、魔族との戦闘など碌にした事もなく。ただの普遍的な荷物持ちだったのだから。
剣の技術も、弓の技術もない。
……先程までの生きる欲望は、いつの間にかまた消え失せていた。
ああ。そうだった。
己の生きる価値など。
もうなかったのだと。
静かに、気が付く。
あまりにも苦しくて、溜息さえも出てこない。
罷り通った奇跡などはいらないのだ。
俺は己の着用している青と灰色が混じったローブから麻袋を取り出して、中身を見た。
中からは鉄の匂いがふんわりと鼻をくすぐる。
……故に。目を細めて、鼻をつまんで。中に入っていた硬貨を全部と取り出す。全部で銅貨計二十三枚。
ゴミ同然のその金に意味はあるのか、と思いつつ。
「これでは飯も食べれない……よな。仕方がない、もう■のう」
ノイズの罹ったその声で、俺は呟いた。
◇◇◇
ガラガラと馬車の車輪の音が夜道を響く。
体は振動し、ちょいとばかしむずがゆい。ただ呆然と。
俺は馬車に乗った木箱に腰掛けながら、通り過ぎてゆく景色を眺めていた。目的はないのに、刻一刻と時間半経過してゆく。
馬車に乗る乗客は自分一人だ。他客はいない。
「なぁ、兄ちゃんよ!」
そんな中、馬を引き運転を熟すスキンヘッドの男はコチラに語りかけてきた。
今の己とは正反対。朗々とした声色で旅のパレットに異色を織り交ぜる。
話してたい気分ではない。だが、相手は空気を読むという能力が欠如している様子で。
「この金で行けるところまで果てしなく進んでくれってお願いしてくれたけどよ。うんと先に行った後にどうするんだ? ここから先に行けば、マシな所なんて一切ないぜ? 観光なんて以ての外だ。なにせ、魔物がうじゃうじゃいるからな」
純粋無垢な疑問。実に歪んだしんなりとした空気感。
男は口をハキハキと疾く動かして、そんな失言を漏らしてゆく。……ヒイラギノヤ、自分からすれば紛れもない愚問である。
されど。
そんな事を気にかけるのも、もうどうでもいい。
「……死にに行く」
ただ。事実を吐いた。
穏やかな陽光が己の灰色髪を照らしてゆく。まるで温暖プール。……それほど平和で心地よいモノが良かったのだが。
、、それにしても、喉が渇いた。
必然的に重くなった空気なぞ無視して、最後の晩餐を何とするか。そんな事を考え始める。
だが、話はそれで終わらなかった。
「─────ふーん。死にに行く……か」
勿論、重い調子にはそれなりの声で返される。スキンヘッドの運転手は退屈そうに、大きな溜息を一つ呟いた。
心なしか、馬車が少し速い。
貨物が右左へと灯火の様に揺れ始める。
「おっと、ここからは道が舗装されてねぇからな。砂利道だ、少し揺れるから舌噛むなよ」
「……ああ」
「はぁ。それにしてもよ、王様は国民に私の為に働けなんて言うが、王様も王様で国民が望んでくれる事なんか何一つとしてやっちゃいねえよな。この道だってそうだ。商道だから舗装してくれって、俺たちは言ってるのに一言も返してくれやしない。理不尽極まりねー。嫌だね、理不尽ってのは」
この男は突然、何を言い出すのか。
どうやら随分と愚痴を言いたい気分の様だ。
俺も理不尽は嫌だ。目を閉じて、地獄を思い浮かべながら運転手の言葉に共感する。……現実とは実に非情なものだ。
「あんたのその頬の傷。魔物にでもやられたのか? それとも、なんだ。愛人にぶっ叩かれて振られたのか? ま、どのみち死にに行くんだし関係ねぇか」
的外れに高揚し、男はペラペラと悠長に口を動かす。ストレート極まりないその発言は…………どう考えても失言である。
だけど今は、それぐらいが丁度いい。
「はっ、パーティーの仲間がお前は弱すぎるっつって、俺を追放してきたんだよ。……生きる価値すらないって言われた時にはショック過ぎて言葉なんて出てこなかったぜ、ははっ!!!」
自虐しながら、ぎこちなく顔を引きつらせて笑う。
「成程な、そりゃ俺でも狂って死にたくなるかもしれないな。……ふん。生きる価値がないなんて話をすりゃ、そんなのは誰にも持ち合わせてなんちゃいねぇのにな! アーハッハッハッハッ!!」
深く考えているのか、それとも浅い思考なのか。それは分からないが、俺を宥め賺す様な発言をした。
同時に彼は酷く大袈裟に、又は自然に。大きな笑みをこぼす。
「んま、気楽にいけよ兄ちゃん。そういえば聞いてなかったな、名前は? 俺はクレエント。この体系には似合わねぇ名前だ」
「……俺の名前か。ヒイラギノヤ、それだけだ」
「ほぅ、良い名じゃねーか。ノヤ、ね。聞きなれない感じだが、逆にそれがいい。稀有な名前っていうのも、良いもんだろう?」
「そんな得ばかりじゃないけど、な」
そんな会話を続ける事数分。
気が付けば、辺りは静まり返っていた。
昼。夜。
特に口に出さなければ時間はどんどんと過ぎていき、とうとう一日が経過する。
◇◇◇
早朝。
目を開くと、馬車は荒野付近を走っているのを目撃した。
……どこだろうか。
むぅと起き上がり、馬車から見える景色を俯瞰する。
「んだよ、ここ」
「─────」
運転席の方を見ると、スキンヘッドの男は相変わらず馬を引く縄を持ってのんきに座り込んでいた。……随分と遠い所まで来たらしい。
喜々は多少ある。だが、それよりも違和感が勝っていた。
違和感を声として、運転手に話す。
「なぁ、クレエントさん。俺のあのちんけな金でどんだけ走ってるんだ? ……随分と遠い所まで来たようだけど」
「まぁな。サービスってもんだよ、サービス。……もう終活してんなら、一度ぐらい地獄を見ても構わねぇだろう?」
変わらず陽気な声色で、男は答えを返した。
サービスはありがたい。だがそれにしても……地獄を見ても構わない?
意味が分からない。景色を見ていた視線など放棄して、もう一度運転手の方を一瞥した。
空気は軽い。
「恐怖心を凌駕する……己に内包する絶望がありゃ、ここでの生活はあっちよりかは幾分マシだろうな。ほら、サービスはここまでにしておこうか。降りな」
「え? あ、ああ」
馬車の荷台からひょいと飛び降り、地面に着地する。
辺りを見渡せば、広がるのは水一つない荒野のみ。
随分と荒れ果てた土地だ。生命の気配などは微塵も感じられない空気感には、恐怖すら覚える。
隣にはクレセントが並び、葉巻にどこからか火を付けて口に加えた。
「ふぃー。一仕事の後は疲れたぜ」
馬車に腰掛けながら、彼は空を見上げ始める。
何を考えているのだろうか。
分からない。
ただ、それよりも。自分には気になる事があったのだ。
彼の表情を伺いながら、ここまで運んでくれた感謝と共に疑問を述べる。
「クレセントさん、ここまで運んでくれてありがとう」
「はっ、金払ってもらってんだし。当たり前だろ」
「いや。……それでも、ありがとう。サービスもしてくれたしな。それと、ここってどこなんだ?」
しかし。運転手は天の彼方を見据えながら、その質問に”答え”ではなく、更なる質問を生み出した。
「あーーと、兄ちゃん……ノヤ。あんたは確か、追放されたとはいえ。パーティーに入っていたってことは、冒険者だったんだよな?」
「あ? 一応、名目上はそうだな。……戦った事なんて、ほぼないけどさ」
「実戦経験なんてどうでもよくてだな。冒険者をやった事があるなら、誰もが知っている冒険者そのものの最終目的。魔王の討伐……兄ちゃんもそれぐらいは、把握してるだろ?」
「ああ、魔王か。流石に知ってるよ。でもそれが、俺の質問とどう関係してるんだ……?」
「─────この荒野の名前はシャーレンズロード。異界の大地なんて異名を持つ。十年前に魔王が生まれた大地なんだ」
男は苦笑交じりにそう告げた。
魔王。それは流石の俺でも知っている。
……つまるところ、そんな忌み嫌われた存在が生まれた所だ。墓場として、死地としてはピッタリだろう? そういう事だろう。
「あ、勘違いするなよ? 嫌味じゃねぇ。これは俺なりの”おもてなし”」
「なんだそりゃ」
「兄ちゃんの要望通りだろう? 死にに行くならば、丁度良い地獄だ。ここは本当になんにもねぇところ。さてと、俺もまだ仕事が残ってるしな。ここで上がらせてもらうぜ」
そう言って彼は俺の隣から去り、再び運転席に飛び乗り鎮座した。
彼の表情を伺えば、変わらずな陽気なその姿が目に映る。
「……あと、ほらっ。冥途の土産ってわけじゃあねぇが。お前にそれやるよ」
「⁉」
そして。唐突に運転手は荷台に乗っていたナニカを俺に放り投げてきた。上空に踊ったそれを焦燥しながらも両手でキャッチする。
それは─────リングだった。
腕輪といった方が適切かもしれない。両手の掌を見ると、そこにあったのは銀の腕輪。腕輪の表面には一つだけ赤い石が埋め込まれている。
「なんだ、これ?」
「……お前がこの大地で死にたくない、生きていたいって思ったんならば。……又は何かを守りたいなんて思った時にはそれを腕にはめて『■■』と叫んで使えばいい。もしかすると、兄ちゃんの生きる導になるかもしれない」
「……生きる導?」
「はは、そりゃ大袈裟な比喩だったかもしれないがな。なんにせよ、この大地は呪われて腐ってるんだ。まともに生きようとするならば、早く去ったいいってレベルでな」
「─────?」
男は縄を引き、馬を再稼働させた。
「よっと、話はここら辺にしておくか。運命ってのは必ず到達する。今はただその運命が残酷じゃない事を祈るばかりだな。じゃーな、ノヤ。健闘を祈る! これから始まるのは─────なんだろうな、ハーハッハッハッハァ!!!」
そう言って。運転手は通り過ぎてゆく。
地平線を超えて、その先へ。
気が付けば、俺はただ一人で荒野に立っていた。