第6話 二人の距離
5時30分にセットされたタイマーが耳元で鳴り響く。
少し早いように思えるこの時間は、朝食と弁当を作るためだ。
僕の通う高校には学食があるが、節約するためにも弁当を作って持っていくことにしている。
佳奈の通っている中学校は、給食が支給されるため弁当はいらないが、朝食は必要だった。
眠気に襲われながら料理をするのは大変だが、作らないわけにはいかない。
欠伸を噛み殺しながら、学生服に身を包む。中学2年生の頃にはこの生活だったが、朝早く起きるのは、どうしても慣れなかった。
未だ寝ぼけた状態で手摺を頼りに階段を下る。ここが今まで住んでいた場所ではないと気づいたのは、台所に着いた時だった。
寝ぼけすぎだろ、とは思ったものの、ここ二日の出来事を顧みると当然のことかもしれないとも思った。
本当に多忙な休日で、まだ疲れが抜けきっていない。
これだけ疲れていても癖で早く起きれてしまう自分に感動を覚えるほどだ。
しかし、台所に着いたあたりで問題が発生した。
「これ、勝手に料理してもいいのかな……?」
そう独りごちたのは、遠慮はしなくていいと言われたものの、料理を勝手にするとなると憚られたためだ。
それに、作るとなれば僕と佳奈だけの分を作ればいいというわけでもないし、全員分作るとすれば、七瀬家が和食派か洋食派かなんてのもわからない。
料理をする以前の問題が山積みだった。
そんな風に悩んでいると、微かに階段を下りる音が聞こえてきた。
「あら? 優くん、早いのね」
「あ、詩織さんおはようございます」
詩織さんが僕とは違い、眠気を全く感じさせない様子で二階から下りてきた。僕たちが増えた所為で家事の量も増えてしまったはずだが、疲れた様子も見えない。
大人の余裕というものだろうか、高校生の自分とはわけが違うらしい。
「おはよう。……それで、こんなに早くどうしたの?」
「いつも朝食を作っていたので、癖でこの時間に起きてしまったんです」
「あっ、そうなの? それなら、私があなた達の分も作る気でいたのだけど……」
「手伝ってもらえる?」と申し訳なさそうににそう言った。
「ええ、もちろんです」
元々作るつもりで下りてきたのだ。返事は当然、快諾。
多分ここで手伝わなくてもいいと言われたとしても、明日はまたこの時間に起きてしまうだろう。
2年の間で染み付いた生活習慣は、簡単に変えれるものではなかった。
「本当は私一人で作れたら良かったのだけど、まだ五人分の食事は慣れてなくてね」
詩織さんは、本当に困ったような表情をしていた。
やはり、詩織さんもまだ家に住む人が二人増える事態に順応できていないのだろう。人数が増える事で、一番負担が掛かるのは詩織さんだ。
表情にこそ出ていないが、本当は疲労が溜まっているのだと思う。その原因が自分たちである事が、申し訳なかった。
「いえ、僕たちが来た所為なので、家にいる間くらいは手伝わせてください」
せめて、自分たちが増えた分くらいは手伝おうと思った。これ以上迷惑をかけないようにも。
「そんなに気にしなくてもいいわ。……それに、自分たちの所為だなんて思わないで。私これでも、あなたたちが来てくれるのを楽しみにしてたのよ?」
そう言った詩織さんの目は優しく楽しそうに、それでいて何かを期待しているようだった。
「そうなんですか。それなら、期待に応えないといけませんね。……ささっと作っちゃいましょう」
だからこそ、その期待に応えられるよう、裏切らぬようにしっかりとした自分であり続けるのだ。
弁当に詰め終えた頃には、誠二郎さんと麗香さんも下りてきた。
「おはようございます」
「おはよう。優くんは早起きだね」
誠二郎さんは朝が強いのか、表情はスッキリとしている。これから会社で仕事だろうか、スーツ姿が決まっていた。
「……おはよう」
麗香さんは、誠二郎さんとは反対に朝が弱いのかもしれない。若干弱々しい声で、遅れた返事だった。
寝起きで頭が回っていないのか、言葉数も少なく舌足らずな喋り方をしている。
どこかふわふわと浮いているような、ぼんやりとした様子だ。
僕と同じように、辛うじて制服には着替えたのか、制服姿で椅子に座っている。未だ眠いのか、半目で目をこすっている姿は普段よりも可愛らしく映る。
「いつもあんな感じですか?」
隣で調理をしている詩織さんに尋ねてみる。その言葉だけで伝わったのか、詩織さんは頭を悩ませていた。
「そうね……あれよりも酷いと思うわ」
あれでもまだ完全に油断はしてないもの、と。
親だからこそわかるのか、娘のことをよく理解しているようだった。僕がこの家で暮らす前は、下りてきた後にそのまま寝てしまったらしい。
麗香さんの意外な一面を知れた反面、それは同時に、僕が麗香さんにとってまだまだ不安が残っているということである。
一朝一夕で変わるものではないと思うが、信用されなくとも安心できる空間に戻せるようには努力したいと思うのは当然だった。
未だぼんやりとしている麗香さんを見ているのも悪い気がして、僕は詩織さんに一言かけて席を外す事にした。
「詩織さん、佳奈を起こしてきますね」
佳奈の部屋は僕の部屋の隣だ。ありがたいことに、誠二郎さんは僕たち兄妹の二人に空き部屋を与えてくれた。
鍵もついてあり、個人の生活スペースがしっかりと確立されている。年頃の女の子にとっては安心して過ごせる空間だろう。
もっとも、今からその空間に足を踏み入れるわけだが。
「佳奈、起きろ」
取り敢えず初めはドアをノックしながら声をかける。だが、この程度で佳奈は起きない。これは過去の経験からわかっていたし、佳奈自身も言っていた。
一つ溜め息を吐く。
「……入るぞ」
勿論、返事はない。
そっと二つ目の溜め息を吐きながら、部屋の中へと足を踏み入れる。
鍵がついてあるにもかかわらず開いているのは、佳奈は揺すりでもしなければ起きないからだ。それを佳奈もわかっているからこそ、鍵を開けている。
そろそろ自分の力で起きてはくれないだろうか?
毎日寝起きの悪さにおいて難敵の佳奈を起こすのは大変なのだ。
「早く起きろ、佳奈」
先ずは布団を剥ぎ取って、揺する。佳奈は唸っているようだから、少しずつ意識が復活しているのだろう。
ひたすら揺すっていると不意に目が薄っすらと開く。
「あと──」
「──はいはい、起きような」
先手必勝とばかりに言葉を遮ると、諦めたように佳奈の大きな目がぱっちりと開いた。
完全に目が覚めたようだから、「着替えてから下りてこいよ」と言い残し、自分は部屋を出る。中からは「はーい」と聞こえてきたから、大丈夫だろう。
起きてからはすっきりとしているのは佳奈の良いところだった。
もちろん、起きる前を直してほしいという意見に変わりはないが。
佳奈も無事に起き、朝食は五人で取ることになった。気になっていた和食派か洋食派かということも、七瀬家では洋食派だということがわかった。
トーストと共にベーコンエッグやサラダが並んでいる。佳奈と2人の時はこれよりも雑ではあるが似た朝食であったため、気にすることなく食べることができる。
先程まで眠そうにしていた麗香さんも目が覚めたようで、今は静かに朝食を取っていた。
「そういえば二人共、学校への行き方はわかるのかい?」
誠二郎さんの言葉に二人して「あー……」と呟く。
ここでの暮らしばかりに目がいってしまったため、その先に頭が回っていなかった。
目先の出来事にまで頭が回っていないのは反省すべき点である。どうやらここでの準備が万全になって満足してしまったようだ
「仕方がないと思うよ。最近は忙しかったからね」
「……どうしましょうか?」
迷惑をかけないようにと思っていたのに、早速迷惑をかけてしまう自分が情けない。誠二郎さんのフォローが身に沁みる。
「詩織と麗香に案内してもらえばいいよ」
「そうね。私は時間があるから、佳奈ちゃんを案内するわ。麗香はついでだから優くんを案内してあげて」
「うん、わかった」
1人で探索しながら向かうのもいいけれど、ここはお言葉に甘えることにする。時間もないだろうし、そもそも許してくれないだろうから。
「じゃあお言葉に甘えて。お願いします」
「うん」
少し軽く、しかし素っ気なさの残った返事だった。
住宅街を麗香さんと歩く。並ぶとは程遠い、数歩後から追うような感じだが。
僕と麗香さんの間柄では、横には並べない。今はこれくらいの関係性だろう。
昨日は気まずさから麗香さんが話しかけてくれたものの、今は二人の間に会話はない。あっても道を案内する程度のものだ。
しかし、昨日の会話のおかげか、不思議と気まずさはもう無かった。
だが、麗香さんの歩き方に力が入っているように見えるのは気のせいだろうか。
それも、歩みを進めるごとに増しているように見える。後ろ姿しか見えないため、その表情はわからないが良い表情ではないだろう。
いつもとはまた違う雰囲気が気にかかった。
だけど今の僕では麗香さんに話しかける事ができない。そして彼女も気に掛けられることを望んでいないだろう。
今の僕ができる心配など、彼女の警戒を高めるだけになるだろうから。
こうしている間にも、周りの景色は変わっていく。
不意に、住宅の間から吹く暖かい風が僕と麗香さんの間を吹き抜けた。
距離にして約3メートル程。その距離は、麗香さんとの心の距離を表しているようだった。