第21話 離れた距離
夜、喫茶店から戻った時。
リビングにいたのは麗香さんだけだった。
「ただいま」
「あ、おかえり」
そんな挨拶もすっかり馴染み、笑顔で迎えてくれる。
今は勉強しているというわけではなく、テレビの前のソファーに座って寛いでいるようだった。
すっかりテレビに釘付けになっている麗香さんを横目に、僕は一先ず風呂を済ませることにした。
バイト終わりのお風呂。至福の時間である。
時刻は11時を少し前にしたところ。
風呂を上り、リビングに戻るとまだ麗香さんはいた。
「珍しいね。この時間にここにいるの」
「……ん? うん、見たいドラマがあったの。……あ、ちゃんと勉強は一区切りつけたからね」
「わかってるよ」
麗香さんのことだからそこを抜かるとは思えない。
でも、なるほど。ドラマか。
麗香さんが座っているソファーとは違う、側面に位置するソファーへと腰掛けテレビを見る。確かにドラマ、多分恋愛ものだろう映像が映っていた。
多分、というのは美男美女が映る映像とともにエンドロールが流れ出したからだ。僕が腰かけたところ、丁度終わったらしい。
麗香さんは「んっ……」と伸びをする。
「面白かったぁ……」
「そういうの、ちゃんと興味あったんだね」
そういうの、とは恋愛ドラマのことだ。
「あー、クラスの女の子の中で最近流行ってるみたいでね。話についていくためにも見てたの」
「……じゃあ、興味があったわけではなさそうかな」
「いや、あるよ?」
あれ、てっきり恋愛系の話は極力避けているのかと思っていた。
まあ一輝たちの恋愛話は真剣に聞いていたし、そういう話が嫌いなわけではないのか。
「自分の恋愛は今はいいかなって感じだけど、人の恋愛話は聞いててドキドキするし、応援したくなる」
「なるほどね」
「まあ、今回のは話についていくためだけどね」
そう自嘲気味に笑った。
にしても、話についていくため、ね……
麗香さんの立場というのも何かと大変そうだ。そこまでして、何を守りたいのか。
「じゃあ恋バナとか、そういうのは普通に好きなんだ?」
「まあね。でも、そういうのは朱莉としかできないと思うよ」
「……? そのクラスの子たちは?」
薄々わかっている。だけど僕は聞いた。
今朝見た麗香さんの周りにいた子たちを見ればわかるというものだ。
「あの子たちはなんだか気を使ってくれてるみたいだから。多分恋バナとかそういうのはしてくれないと思う」
どこか寂しそうに、ぼんやりとした面持ちだった。
ならば本当になぜ、麗香さんは学校であの態度を保っているのだろうか。ちょっとでも抜けたところがあれば、気軽に絡んでもらえるだろうに。
少し暗くなってしまった空気を換えるためか、努めて明るく麗香さんは言葉を発した。それと、少しムッとしたような表情で。
「──っていうか、私も普通の女の子だから恋愛とか興味あってもおかしくないと思うんだけど?」
「ごめん、恋愛ドラマとか見てる姿見たことなかったからさ」
「確かにここではそういう姿見ないかもだけど、部屋では普通にみてるんだよ?」
揶揄うように、楽しそうに。
こういう話の方が麗香さんは生き生きとしているし、僕もこういう雰囲気の方が好きだった。
だけど僕の中に渦巻いている疑念や焦りは、この状況をどうにかして先に進まなければ駄目だ、とその感情を制御できなかった。
「さっきの話に戻るんだけど……」
「うん……?」
一度断りを入れたのは、焦りの中にも少し躊躇いがあったから。
「──じゃあどうして、完璧に凝る必要があるの?」
僕の口から溢れでたのはそんなストレートな言葉だった。
僕の焦りや不安が募り、つい放ってしまったその言葉。まずはどうにかして麗香さんと近づかなければ、その一心で言ったのが良くなかった。
なんとなく、空気が変わった気がした。
「どういうこと?」
困惑混じりに言う麗香さんには、若干の警戒が見て取れた。
一瞬にして彼女の前に見えない壁ができたかのように、急に距離が開いたような錯覚を覚える。
「麗香さんが僕たちといる時の態度になれば、みんなちゃんと友達みたいに接してもらえると思う」
だけど僕は止まることができず、今まで考えてきた疑念を吐き出すように言葉を紡いでいく。
「でも麗香さんはそれをしないでしょ? だからどうしてそこまで完璧を演じ続けるんだろうって」
「……」
麗香さんは黙っているだけだった。
その顔に浮かべている感情が何かはわからない。でも少し、葛藤を抱えているように見えた。
「“完璧”に、何か意味はあるの?」
「っ……」
確信をついているであろう質問。
それに麗香さんは弱々しく首を振っていた。
そして少しして、
「……私、完璧じゃないとダメなんだ……」
ぽつりと、小さな声で言う。
「どうして?」
「……それで、居場所ができたから」
居場所。
確かに麗香さんの学校での立ち位置は確立されている。誰もが認める完璧美少女で、その地位を落とすことはないだろう。
でも、それだとしても完璧じゃなきゃ駄目な理由はないはずだ。
ならば何故、そんな視線を向ける。
しかし今度ははっきりと首を振られた。
「これ以上は、昔の話とかになっちゃうから」
「だとしても──」
「──っ、ごめん……」
「……」
踏み込みすぎた、と思った。
俯いていて表情は窺えない。だけど、それだけははっきりとわかった。
そして同時に、冷静になった途端ハッとさせられた。
多分だけど、その先の話を聞いたところで僕は行動を起こせないだろう。
学校で絡むことすら躊躇って、逃げている自分だ。どうせ何もできやしないし、麗香さんにまともな助言することすらも恐らくできない。
そんな状態の僕に、何を話せると言うのか。
「私も前の話とかはちょっと覚悟がいるの。だから、ごめん」
「……」
申し訳なさそうに、そして悲しそうに。
だけど、僕の心の中にあるのは無力感だけだった。
「また明日ね……」
そう言って、足早にリビングを出て行く。
逃げるように去っていく麗香さんの背を見て、僕は両手で顔を覆った。
その背中には何も声をかけられない。
だって僕には、なんの覚悟もできていなかったのだから。
学校で麗香さんと絡むことも、麗香さんの過去を聞いて行動を起こすことも。
深い悔恨を吐き出すように大きな息を吐く。
「なに、やってんだろ……」
こんな感じになりたいわけじゃなかったのに。
昨日の自分を思い出して、腹が立った。
「何が頼って、だ……」
なんの覚悟もできてないくせに、一丁前に何かできないかなんか考えて。
何一つ行動に移せないのに感情だけ先走らせて、馬鹿みたいだ。
麗香さんが完璧でい続けるのが居場所のためだとするのなら、他に居場所さえできればいいはずなのだ。
それはきっと僕が覚悟を決めて、麗香さんが学校でも楽にいられる居場所を作ることができれば済むことのはずで。
あの四人でいられることは、歴とした居場所になるはずだ。
だけどそれを僕の過去が足踏みさせる。
未だに心に残っている中学時代のトラウマ。その自分の過去を恨んだ。
「ほんと、なにやってんだろ──」
何も返ってこないその呟きが、無力感を示すように溶けていった。
翌朝、二階から降りてきた麗香さんには謝った。
こういう人間関係の歪みは早めに正しておいた方がよいと知っているから。
それと、このもやもやした感情のままテストを迎えるのは単純に気分がよくなかったから。
謝罪を受けた麗香さんは「気にしないで」と笑っていた。周りから見れば普通だし、向こうも謝って一件落着と形だけはそうなった。
でも、この件で麗香さんとの距離が開いたということだけははっきりわかる。
気軽に話しかける雰囲気でもなく、どこか初めて会った時のような、それどころかそれ以前の空気感だった。
家族の前で会うことはあれど、普段の掛け合いや楽し気な話はない。学校であっても目が合うだけ。
テストが迫っていることもあって麗香さんは基本部屋で勉強をしていて、二人になるようなことも一切なかった。
避けられていて、それでいて自分も自然とさけている。そう気づくのに時間はかからなかった。
二人の間にできた明確な壁。
これ以上踏み込む覚悟もできない僕に、それを解決する術も原動力もなかった。
そしてそのぎこちない関係のまま、テストの日を迎えた──