第1174話。ペイ・フォワード。
【ワールド・コア・ルーム】ゲームマスター本部ノヒト・ナカ執務室。
私は帰還しました。
「お帰りなさい。チーフ。お疲れ様です」
ミネルヴァが労いの言葉を掛けてくれます。
「ただいま。気持ち的には疲れました」
私は無敵体質のゲームマスターなので全く疲労しません。
しかし……疲労感……のような気分はありました。
ただし、【サントゥアリーオ】の公務員内定者の【保育器】輸送は、【パノニア王国】の移民事業より楽だったという印象です。
作業の手数や精密性、それから魔力コストなどの労力的には今回の方が多くのリソースを使いましたが、率直に言えば【保育器】に収容されて意識がない人達の扱いは楽でした。
【パノニア王国】の移民事業は、自我を持つ個々人が好き勝手に行動し、こちらの思い通りには動いてくれませんからね。
当然です。
他人を御す事が、人類社会最大のテーマなのですから。
【パノニア王国】の国民が我儘だという訳ではありません。
彼らは私を神として見ていますので、最大限の敬意を払い、また信仰心や畏怖心というような感情を持って、各自が私の指示に従い粛々と行動してくれています。
しかし、彼らは皆それぞれに自我と感情を持つ人達の集合体……つまり群衆でした。
極端な話、群衆というのは足並1つ、呼吸1つ取ってさえバッラバラ。
彼らは、私の手を煩わせないように整然と行動しようと努めてはくれますが、目や耳や認知能力が衰えた高齢者や、傷病者や障害を持つ人達などは、他人と行動を合わせようとしても簡単ではありませんし、幼い子供達は基本的に……周囲の状況に合わせる……という事自体を理解出来ません。
そういう時に私は、看護者や保護者に対して……高齢者や傷病者や障害者を急かしたり、子供を叱り付けたりしなくても大丈夫なので、ゆっくり落ち着いて移動しましょう……という具合に気を配っていました。
群衆を案内するのは難業なのです。
その点、【保育器】に収容された【サントゥアリーオ】の人達を移動させる事は楽でした。
まあ、これは群衆を誘導する大変さとの比較の問題でしかありませんけれどね。
私が費やした物理的リソースは、【保育器】に収容された【サントゥアリーオ】国民の輸送作戦の方が大変でしたが、その大変さは基本的に私がコントロール可能なモノが大半です。
自分の意思だけで消化可能な問題に、人間は余り悩みません。
人間が直面する悩みの大半は対人関係でした。
私に敬意を払い畏怖している人達でさえ御し難のですから、多様な考えを持つ他者との付き合いが如何に難しいかという事の証左でしょう。
面倒な雑事を他人に丸投げして自分は研究室に引き篭もっているセレブ・ニートのノート・エインヘリヤルの気持ちが理解出来ますね。
「何かお飲み物をお持ちしますか?」
私付きの【コンシェルジュ】が訊ねました。
「いいえ。直ぐ夕食に行きますので大丈夫です。ありがとう」
「畏まりました」
【コンシェルジュ】は執務室の入口付近の定位置に立ちます。
「チーフ。【ファミリアーレ】は、先程オラクルさん、ヴィクトーリアさん、ウィルヘルミナさんが送って来てくれ、皆【ワールド・コア・ルーム】に戻っています」
ミネルヴァが報告しました。
「わかりました」
今日の午後【ファミリアーレ】の子達は、4つのグループで行動しています。
グロリアとイフォンネッタは、【竜城】で【高位女神官】達から【回復・治癒職】としての技術研修を受けていました。
ロルフは【マリオネッタ工房】の【竜都】工場に、リスベットは【アブラメイリン・アルケミー】の研究室に、それぞれ出勤しています。
残りのメンバーは、【剣聖流道場】へと出稽古に向かいました。
「本部のメンバーも全員今日のシフトは終業していますが、ウィローだけは研究室に居残って作業をしています。ゲームマスター本部の就業ガイドラインとして、緊急時以外の残業は推奨しないと窘めはしたのですが……これは業務外のプライベートの趣味です……と言って研究を止めようとしません」
どうやら、ゲームマスター本部にも、研究オタクのニート気質が居るようです。
「あ、そう。ミネルヴァの方でウィローの食事や休息などに気を配ってあげて下さい。まあ、ウィローは【知性体】なので本質的には、空腹も疲労も無視出来てしまいますけれどね」
「了解です」
原則として、【霊体】の【知性体】は、空間に遍在する魔力をエネルギー源として活動するので、飲食は不要ですし魔力の供給さえ滞りなく行われていれば不眠不休で活動しても問題ありません。
例外的に、受肉して【物質的肉体】を獲得した【知性体】は、一応空腹も疲労も感じました。
空腹や疲労が一定値を超えると【物質的肉体】の恒常性に悪影響が生じます。
しかし、トリニティの【盟約の知性体】であるウィローは、主人のトリニティがウィローを【帰還】して【再召喚】すれば、トリニティが魔力コストを支払う事で空腹や疲労の影響をリセットする事が可能でした。
「カリュプソは、【パノニア王国】でシピオーネさんやグウィネス女王達と、会議がてら食事をしています」
「なるほど。トリニティとカルネディアは?」
「図書室に居ます」
「まだ夕食を食べていないのですか?」
今日の私は、【サントゥアリーオ】での作業に時間が掛かったので、普段の平均的な夕食の時間を少し過ぎていました。
基本的に、私の陣営のメンバーは【シエーロ】中央領域【エンピレオ】や、【ドラゴニーア】の【竜都】標準時を基準に行動していますので。
「カルネディアさんがチーフの帰りを待って一緒に夕食を摂りたがっていますので、まだ夕食を済ませていません」
「そうですか。わかりました」
私はゲームマスター本部の図書室に向かいます。
・・・
ゲームマスター本部の図書室。
私が図書室を覗くと、トリニティとカルネディアが何やら本を開いていて、フェリシテはカルネディアの肩に座り、セグレタリアが側に立って話をしていました。
「かつての人種の魔法学では、思念を伝える素粒子……【共感子】……があると考えられていました。結論から言えば、思念を伝える【共感子】なる素粒子は存在せず、思念は宇宙全域に遍在する魔力を媒介にして伝播します。何故そう結論付けられたかと言うと、観測によって思念は発信源から放射状に広がり距離に関係なく信号が薄まらず伝わる事が確かめられたからです。思念が粒子によって伝わるとするなら、思念が発信源から放射状に広がると徐々に個々の粒子の隙間が大きくなり、受け取り側の信号は薄まり、限りなく距離が離れれば、やがて粒子間の隙間は距離に比例して巨大になり、結果としての場所によっては思念の粒子信号が受信されない事もあり得るからです。しかし、思念の伝播において、そのような信号の濃淡や、思念が受信されない隙間などは発生しません。従って……思念の伝播のメカニズムは波の性質を持つとわかりました。そして、波である思念を伝える媒介物は宇宙空間に満ちた魔力なのではないか?……との仮説が立てられました。900年前、この仮説を英雄グレモリー・グリモワールが【知の回廊】に質問したところ、それが肯定され定義が確立したのです。なので思念が伝わる状態は……思念波……と呼ばれるようになりました」
セグレタリアが説明します。
「ただいま戻りました。みんなは何をしているのですか?」
「あ、お父様。お仕事ご苦労様でした。お勉強をしています」
カルネディアが言いました。
「カルネディアが学ぶには、少し小難しい話でしたね?理解出来ましたか?」
「はい。お勉強は面白いです」
カルネディアは屈託なく言います。
うん。
うちの子は天才ですね。
「お帰りなさいませ。セグレタリアに講義を行ってもらっていました。カルネディアには基本的な一般常識としての魔法物理学について、私には人種の魔法理論の歴史的系統に立った学説や解釈、あるいは誤謬についての講義です」
トリニティが言いました。
「既に正しい知識を獲得しているトリニティが、いちいち誤謬を学ぶ必要があるのですか?」
「私達【スポーン】個体の【魔人】などと異なり、必要な知識を持たない状態で産まれてくる人種は、必ずしも正しい魔法理論に立脚しているとは限らず、誤謬に基づいた学説を信じてしまっている場合があります。従って、私がゲームマスター代理として査察などを行う際に、人種の魔法などの理解レベルに合わせて、誤謬も含む知識を持っておく必要があると愚考致しました」
「なるほど。確かに、そういう知識も必要かもしれませんね。さて、夕食に行きましょう。カルネディアは、お腹が空いたでしょう?」
「はい。お父様と一緒にご飯を食べたくて待っていました」
カルネディアが言います。
良い娘ですね。
仕事の疲労感など吹き飛びましたよ。
「カルネディアは、何が食べたいですか?」
「う〜ん。お父様と同じモノが良いです」
「そうですね〜……なら、少し歩いて何を食べるか一緒に考えましょうか?」
「はい」
私達は、【ワールド・コア・ルーム】内の飲食店に向かいました。
・・・
私とトリニティが左右からカルネディアの手を繋いで歩いていると、【ファミリアーレ】の女子チームと会いました。
「あ、ノヒト先生、トリニティ先生、カルネディアちゃん、フェリシテさん、セグレタリアさん、こんばんは」
ハリエットが言います。
私達は挨拶を交わしました。
「皆も食事ですか?」
「はい。何処のお店で食べるか、少し迷っています」
グロリアが言います。
「何処の店ですか?何を食べるか迷っているのではなく?」
「はい。多数決で洋食という料理を食べる事は決まったのですけれど、高級なお店は敷居が高くて、如何しようか?と」
リスベットが説明しました。
「洋食屋は別に敷居なんか高くはないでしょう?マナーなんか気にしないで食べたいモノを食べれば良いのですよ」
「料金とか格式に気遅れしています」
ジェシカが言います。
「【ファミリアーレ】が【ワールド・コア・ルーム】で食事する際は料金は私に請求されますし、【ワールド・コア・ルーム】の飲食店は基本的にお客が身内だけなのです。誰に気を使う必要もないのですから、格式なんか関係ありません」
「この子達は、本来なら自分で支払うべき食事の料金が、マイ・マスターに請求される事を気兼ねしているのでは?」
トリニティが推定しました。
【レジョーネ】の【遺跡】攻略に際して獲得した物品の収益を分配された【ファミリアーレ】の大半の子達は、現在かなりの財産を築いています。
なので、ノース大陸での観光などプライベートの支出は、現在は彼女達が支払っていました。
しかし、【ファミリアーレ】が【ワールド・コア・ルーム】で食事をする際には、その料金は私に請求される約束事になっています。
「私はゲームマスターとしては現在無給ですが、プライベート・ビジネスの【ソフィア&ノヒト】の収益で巨万の富を築いています。ですから、そんな事を遠慮する必要は全くありませんよ。そもそも、【ワールド・コア・ルーム】の飲食店の料金設定なんか、それらしい金額がメニューに表示してあるだけで、実際には存外に適当なのです。【竜都】の飲食店などなら、サービスの質や、調理技術や、内装や調度品も含めた店の雰囲気や、原材料の違いなどに付加価値があり、結果として店舗の料金設定や格式の差として反映されますが、【ワールド・コア・ルーム】の飲食店で調理やサービスを行うのは【コンシェルジュ】です。何処の飲食店でもサービスや調理技術に差はありませんし、そもそも無償で働いている【コンシェルジュ】には人件費自体が発生しません。差があるのは食材の調達コストの違いくらいですが、それだって【ワールド・コア・ルーム】では、ファミレスやフード・コートやファスト・フード店などの大衆店でも、同じ原材料を使っているので、店ごとの原材料費も大して変わりません」
「【ワールド・コア・ルーム】の飲食代をノヒト先生に支出をして頂いている事に遠慮する気持ちもありますが、その他にも私達は最近まで孤児院で生活していた貧乏人なのに、ノヒト先生などのおかげで急にお金持ちになって、そんな成金の私達が高級なお店に躊躇なく入って好きなモノを食べるのは、何だか少し引目を感じてしまいます」
グロリアが言いました。
なるほど。
そういう事ですか。
【ファミリアーレ】は、【レジョーネ】がサウス大陸の【遺跡】で入手した多数の【宝】や膨大な量の魔物素材の売却益を分配した事で、大金持ちになりました。
【ファミリアーレ】が大金持ちになれたのは、彼女達が偶然私やソフィア達【レジョーネ】と出会い、庇護下に入り、身内として扱われているからです。
それは、【ファミリアーレ】の子達の努力や才能とは無関係の幸運でしかありません。
もしかしたら【ファミリアーレ】は、自分達が優遇されて、同じような出自や境遇の貧しい人達が居る事に対して申し訳ない気持ちを持っているのかもしれません。
その気持ちは理解出来ます。
「それは現実として受け入れるしかありませんね。事実として、あなた達は沢山の財産を持っています。それは基本的に、あなた達の努力や才能とは関係ありません。しかし、世の中には、そういう幸運な出会いや巡り合わせで社会的に成功する人達も厳然として存在します。このように世の中は不公平で理不尽です。けれども、あなた達は、そういう幸運な境遇を与えてくれた人達や神々に感謝こそすれ、引目を感じる必要は全くありません。あなた達がお金持ちになって、そのお金を使う事で経済は回り、誰かの給料になります。それが資本主義です。資本主義においては、【世界の理】や法律や公序良俗や倫理に反しない限り、お金儲けをしたり資産を築く事は正しいのです。あなた達は、幸運によって財産を持つに至ったのかもしれませんが、それは悪い事をして儲けた訳ではありません。あなた達が幸運に恵まれた自分達の境遇を、恵まれない境遇の他所の人達と比較して自らを戒め身を律しようとする考え方には、素朴に好感を持ちます。その気持ちを、ずっと忘れないで欲しいと思います。だからといって、あなた達は自分の幸運や恵まれた境遇を誰に恥じる必要もありません。あなた達が幸運によって得た現在の恵まれた境遇を卑下するなら、それは、あなた達に幸運を与えた【創造主】に対する冒涜になりますよ。欲望の赴くままに浪費したり、無計画に散財したり、無駄使いをしろ……とは言いませんが、あなた達は……自分が支払うお金は誰かの給料になるのだから、決して悪い事ではない……と気楽に考えれば良いのです。そして【ファミリアーレ】の【ワールド・コア・ルーム】での飲食は、私が支払います。そういう約束をしたからです。これは決定事項です。あなた達が【ワールド・コア・ルーム】で飲食をして、それを私に支払わせる事を遠慮するなら、私は嬉しくありません」
一同は、まだ微妙な表情をしています。
「問題を単純化すると、あなた達は私やソフィアなどから受けた親切や厚意や善意を返せない事と、他の人達が同じように私やソフィア達から親切や厚意や善意を受けられていない事に引目を感じているのではありませんか?」
一同は、頷きました。
「私やソフィア達から受けた親切や厚意や善意を、当人に返す事をペイ・バックと言います。現在のあなた達は、ペイ・バック出来ません。しかし、こう考えてみて下さい。私やソフィア達から受けた親切や厚意や善意を、あなた達は将来誰かに与えて下さい。私やソフィア達には、それぞれ手が2つずつしかありませんが、【ファミリアーレ】の分も含めれば二進法で手の数は増えます。私やソフィア達から親切や厚意や善意を受けたあなた達が、将来それぞれ誰かに親切や厚意や善意を与えれば、私やソフィア達は間接的に、より多くの人達に親切や厚意や善意を与える事が出来ます。それは私のゲームマスターとしての職責や、ソフィア達の守護竜としての【存在意義】にも合致します。そう考えて、あなた達は今の内に私から沢山親切と厚意と善意を受けておいて下さい。これは将来あなた達が、より沢山の人達に、より多くの親切と厚意と善意を与える為の私からの投資なのです。こういう考え方を、ペイ・フォワードと呼びます。ペイ・バックより、ペイ・フォワードの方が、より広範に良識を拡げられる為、良い仕組みなのです」
一同は、多少納得してくれたようです。
「では、皆で洋食屋に行きましょう」
私達は、洋食屋に向かいました。
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