第1130話。エクイティ。
【ホテル・ドラゴニーア】ディバイン・スイートのメイン・ダイニング・ルーム。
食前酒やジュースなどが各自のグラスに注がれます。
私は、ソムリエールからお勧めされた……【アンナ・マリア・カプレーティ】……という銘柄のラウレンティア産最高級ワインのスプマンテをお願いしました。
スプマンテとは所謂発泡ワインやスパークリング・ワインの事で、広義のシャンパンに相当します。
【アンナ・マリア・カプレーティ】とは1千年以上の歴史を持つ【ラウレンティア】でも指折りの格式を持つワイナリーが醸造する銘柄で、このカンティーナのエクストラ・ヴィンテージと呼ばれるワインや発泡ワインは世界的高級ワインの代名詞であるスーペル・ラウレンティアの中でも最高品質との評価を受けているのだとか。
しかし【アンナ・マリア・カプレーティ】は家族経営のワイナリーで、自家ブドウ園で採れるブドウを使って昔ながらの手作りの製法に拘っている為、どうしても生産量には限りがあり、近年では債務が膨らみ赤字経営が続いて破綻の危機に瀕していたようです。
【アンナ・マリア・カプレーティ】を、このまま破綻させてしまったり、機械化による大量生産を行う他のワイン・メーカーに買収され、職人の手仕事による伝統的な製法が失われてしまうのは忍びない……と思ったソフィアと彼女の会社【ソフィア・フード・コンツェルン】は、そのワイナリーの経営権を友好的企業買収によって債務ごと譲り受けて助けました。
つまり、この【アンナ・マリア・カプレーティ】は【ソフィア・フード・コンツェルン】のブランドなのですね。
確かに失われてしまうには惜しい、素晴らしく美味しいスプマンテです。
今夜のディナーは、イタリア料理系統の【アルバロンガ】料理の老舗【ガストロノミア】の料理でした。
アラカルトだと言うので、私は日本にいた時に馴染みのイタリアンで毎回食べていたメニューをオーダーしてみる事にしました。
ナポリ料理のカプリ島のサラダ、ローマ料理のサルティン・ボッカ、ナポリ名物ピッツァ・マルゲリータ、ボローニャ料理のタリアテッレ・アッラ・ボロネーゼ、ナポリ料理のペシェ・アッラックア・パッツァ。
メイン・ディッシュだけは定番を外して、ボローニャ料理のボローニャ風カツレツにしてみます。
本来ならメイン・ディッシュは、フィレンツェ料理のビステッカ・アッラ・フィオレンティーナが私の日本時代のド定番。
しかし、ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナはランチで食べましたのでカツレツに差し替えました。
私は、この定番コースを会社近くのイタリアンで3日と置かずに食べていたのです。
たまに気分でメニューを変えてみる事もありますが、おそらく500回以上は同じメニューを食べたのではないでしょうか?
私は美味しいと思ったお気に入りのお店には通い詰めるタイプなのです。
それから、生ハムを注文して私とトリニティとカルネディアでシェアする事にしました。
私の元同一自我のグレモリー・グリモワールは、私とは随分とバリエーションを変えていますね。
私は、てっきり選んだ料理が丸被りするかと思いましたが……。
どうやら、日頃【サンタ・グレモリア】で暮らすグレモリー・グリモワールは、現地の鮮度管理上の問題や、一緒に食事をする現地の人達の好みに多少は合わせる必要などから、あまり食品を生で食べる機会がない為、カルパッチョなどを選んでいるようです。
あるいは、私とグレモリー・グリモワールは異世界転移して自我が分かれてから、各々それなりに時間が経過した事で、別々の記憶と経験を蓄積した事によって行動選択に差異が生じているのかもしれません。
もしかすると、そもそも異世界転移によって私とグレモリー・グリモワールは、お互いの職務や立場やキャラ設定やロール・プレイなどに、元の人格が引っ張られている可能性もあります。
私とグレモリー・グリモワールは今や別人格なので、それぞれ個性が分かれる事は悪い事ではありません。
むしろ集合知の効用を考えれば、私とグレモリー・グリモワールは価値基準や行動選択や趣味趣向が違った方が自然で、その方が面白いと思います。
まあ、人間性の根幹部分では変わらないと思うので、私がグレモリー・グリモワールを信頼している状況に変化はありませんけれどね。
各自のオーダーが終わると、徐にソフィアがグラスを持って立ち上がりました。
「今宵はグレモリーの厚意で世界一と言われる【ガストロノミア】の料理を味わえる事となった。グレモリーよ、ありがとう。また、ノース大陸を巡る観光旅行もこれで終わりじゃ。初日から【マッサリア】の爆破テロの救援活動に巻き込まれたり、我ら【ラ・スクアドラ・ディ・ソフィア】は【ドゥーム】に強制転移させられ現地時間で3か月を過ごしたり……と色々な事があったが、何はともあれ皆無事で旅行日程を終えられ重畳じゃ。それでは、打ち上げじゃ。乾杯っ!」
ソフィアが乾杯の音頭を取ります。
「「「「「乾杯」」」」」
一同はグラスを掲げました。
先んじて生ハムが提供されます。
豚のお尻から腿までの生ハムが丸ごと登場したので、生ハムを注文していなかったメンバーも欲しがり、結局全員に生ハムが切り分けられました。
私達は注文した料理が出来あがるまで、生ハムをアテに食前酒を楽しみます。
「ねえ、ノヒト先生?」
ハリエットが声を掛けて来ました。
「何ですか?」
「ティルトって何ですか?」
ハリエットは脈絡なく質問をします。
ハリエットの話に脈絡がないのは、いつもの事でした。
気心が知れた身内では、もはや誰もそんな事は気にしません。
「ティルトというのは、本来は……傾ける……という意味ですが、ハリエットが聞きたい意味は、おそらく……戦闘中に焦りや恐怖心などで動揺して平静を失い合理的な判断が出来なくなる状態。または、そういう人物……の事ですね。概して他人を馬鹿にしたり揶揄する場合に用いられる、所謂悪口の部類ですよ」
私は……ティルト……という言葉をハリエットが聞いたシチュエーションは【スカアハ訓練所】での体験入所の時だろうと推測して答えました。
この世界には、ユーザーによって様々な言葉が持ち込まれていて、特に戦闘中に使われる言葉の殆どは、地球のゲーム用語に由来します。
既存のゲーム用語で事足りない時には、ボード・ゲームのチェスやモノポリー、カード・ゲームのポーカーやブラック・ジャック、ビリヤードなどからも専門用語が借用されて来る場合もありました。
ティルトはポーカー用語です。
そういうユーザーが使う言葉が、NPCにも普及するケースがありました。
「なら、アイツらは【ファミリアーレ】の事を、そういう者達だって馬鹿にしたのか……」
ハリエットは唇を噛みます。
「【スカアハ訓練所】の訓練生に言われたのですか?」
「うん。【スカアハ訓練所】の体験入所の初日に【ファミリアーレ】とフェリシアとレイニールは、4組に分かれて【スカアハ訓練所】の教官とか訓練生と即席パーティを作って【経験値迷宮】に入ったんだけど、アタシと一緒のパーティになってリーダーになったリスベットが沢山の魔物と【遭遇】した時に一時撤退を指示したら、アイツらがリスベットの事を……ティルトだ……って笑って……」
ハリエットは悔しそうに状況説明をしました。
「矮小で脆弱な勇者養成機関の雑魚如きが、マイ・マスターの弟子たる【ファミリアーレ】に対して……ギリリッ」
トリニティが歯を食いしばります。
トリニティは、日頃目を掛けている【ファミリアーレ】が他者から馬鹿にされたと知って怒ったのでしょうね。
「リスベット。私は、あなたの判断を信用していますが、経験から何か学べるかもしれませんので、フィード・バックしましょう。その時の詳しい状況を教えて下さい」
私が、そう言うと今まで談笑していた【ファミリアーレ】が真剣な顔に変わり、こちらに注目が集まりました。
「あの時は【スカアハ訓練所】の訓練生が【斥候】役になっていたので、普段のアイリス先輩やジェシカ先輩に比べて【索敵】の能力が低くて、予想外の近距離で【敵性個体】と【遭遇】してしまいました。なので一旦体制を立て直そうと前後が開けた直線通路までの撤退を指示しました。そうしたら、【スカアハ訓練所】の訓練生達が指示に従わず、勝手に交戦を始めてしまいました。結局は、彼らが魔物を倒したのですが、その時に……あの状況では、エクイティ的に、応戦するのが正解で、私はリーダーとしてはティルトだ……と言われました。エクイティやティルトという言葉の意味はわかりませんでしたが、状況や【スカアハ訓練所】の訓練生達の態度から、私を蔑む言葉だという事は理解出来ました」
リスベットが説明します。
「なるほど。私はリスベットの判断が適切だったと信じています。エクイティとは原義的には……公正や公平……を意味しますが、金融用語としては……株式などによって調達された資金、つまり株主資本……という意味です。それが、如何転じたのかはわかりませんが、エクイティは戦闘において……理論上・計算上の推定勝率。または個々のプレイヤーの行動選択によって変動する、その時々のパーティの推定勝率……を意味します。つまり、【スカアハ訓練所】の訓練生達は……理論値に基づくとリスベットの一時撤退の判断は誤っている。そして、リスベットが判断を誤った理由は、ティルト。つまり急な魔物との【遭遇】によってリスベットが動揺して冷静さを失ったからだ……と言った訳です」
「私は冷静に状況を判断しました。少なくともパーティ・メンバーを危険に曝さないように、安全マージンを取りました」
「わかっています。なので、【スカアハ訓練所】の訓練生の言葉など全く気にする必要はありません。【スカアハ訓練所】の指導や、訓練生達が学習して理解している戦闘教則が、例えば……エクイティ(理論値における推定勝率)的に勝率90%の行動選択と、勝率10%の行動選択とを比較して、機械的に前者を選ぶ……という事であるなら、そんなモノは論外です。愚にもつかない妄言の類なので忘れてしまいなさい。安全マージンを第一に考えたリスベットが正しいと、ゲームマスターとして私が保証します」
「わかりました。でも、確率論の話だけなら、勝率9割と勝率1割なら、9割を選ぶのが妥当なような気がします」
「そんな事はありません。何故なら、勝率90%の行動と、勝率10%の行動を二者択一する際の、それぞれの行動選択によって起きる結果の具体的リスクが全く考慮されていないからです。機械的に勝率90%の行動選択をして敗北した場合の結果が、パーティ・メンバーの死亡やパーティの全滅が確定するというリスクならば、そんなモノは絶対に受け入れられません。逆に、勝率10%の行動選択をして、その瞬間には勝利する可能性が低くても、パーティ全員がより安全だったり優利な場所で体制を立て直せるような場合があります。エクイティ(理論値における推定勝率)とは時々刻々と変動します。局面的に勝率10%しかなくても、リスベットが行ったよう一時撤退して体制を立て直せば、勝率が100%に変動する場合もあるのです。なので、エクイティ的に確定死亡リスクとのトレード・オフによって高い勝率が期待出来るという事ならば、そんな行動は絶対に選択してはいけません。如何なる場合もパーティの生存率を高める行動選択が唯一絶対の最適解です。ですから、リスベットは間違っていません」
「わかりました」
エクイティという言葉もポーカーなどのカード・ゲームから由来する用語でした。
このゲーム【ストーリア】は電子計算機科学の専門家であるモフ太郎氏の中の人が、ゲームに登場する全【敵性個体】の戦闘マトリクスをスーパー・コンピューターに掛けて解析・計算するなどして詳細な研究・分析が行われているので、シチュエーションごとのエクイティ(理論値における推定勝率)というモノは実際に存在します。
ただし、そのシチュエーションはユーザー側のレベルやステータス、装備類や、パーティ構成や、地形データ……その他ありとあらゆる状況を係数として考慮しなければ正確なエクイティ(理論値における推定勝率)は算出出来ないので、ポーカーなどのように行動選択が限定されている場合とは異なり、シチュエーションが膨大となり、更には戦闘局面ごとに確率がリアル・タイムで時々刻々と変動するので、瞬間瞬間の行動選択から派生する分岐は限りなく無限大に近くなりました。
その全てのパターンを記憶する事は、人間であるユーザーの脳力では到底不可能です。
もちろん、それはNPCにとっても同じ事。
なので、エクイティなどというモノは記憶力や演算速度などの関係で正確な数値としては事実上活用不可能なので、ザックリとした大まかな傾向は出るとしても、ほぼ役に立ちません。
まあ、ゲームマスターとしてステータスが桁外れにブーストされている私や、ミネルヴァや守護竜など【神格者】のスペックならばエクイティを使い熟せるかもしれませんが……。
しかし、私や守護竜達なら、そもそもエクイティなどを無視したスペック任せのゴリ押し戦術で、大概の【敵性個体】相手には無双出来てしまいますけれどね。
そして最も重要な観点は……エクイティを参考にする戦闘は、ユーザーだから成立する……という事なのです。
ユーザーは死亡判定が出てもレベルと所持金の半減ペナルティだけで【復活】可能。
しかし、NPCは【神蜜】を適切に使用しなければ、死亡したら取り返しが付きません。
【神蜜】は死亡判定が出て1時間以内に遺体の体内に投与しなければいけませんし、脳や脊椎など中枢神経に重大なダメージがあれば効果がないのです。
そして、そもそも【神蜜】は超絶レアの希少なアイテムでした。
従って、私はNPCがエクイティなどという統計学に生命を預けて戦闘を行う事を正しいとは思いません。
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