第1065話。ミョルミドーンの伝統的役割分担。
【デマイズ】近郊のジャングル。
私とトリニティを地上に残して、ソフィア達は【蟻魔人】達によって【甘露】の採集作業が行われている樹上の視察に向かいました。
「SAN値が削られるような光景とは?神で在らせられるカプタ(ミネルヴァ)様やソフィア様は、もちろん問題ないでしょうが、他の皆さんの【精神耐性】は大丈夫なのでしょうか?」
トリニティが樹上を見上げて心配します。
SAN値とは英語の……Sanity(正気、健全の意)……から由来するゲーム用語で、精神状態を数値化したステータスの事でした。
この言葉は現在ではゲームに留まらず一般化していて、ゲーム・ファンのコミュニティ以外でも徐々に意味が通じるようになっていますし、このゲーム【ストーリア】のユーザー達にも精神の状態を表す用語として普通に使用されている言葉です。
しかし、原典はクトゥルフ神話を題材にして1980年代に発表されたTRPGでした。
そのゲームではプレイヤーが超常現象などを体験するとSAN値が減少して行き、SAN値が0になる(あるいは一定以下になる)と発狂してゲーム・オーバーになる(あるいは行動にペナルティが掛かる)という仕様になっています。
私達のゲーム会社ではオリジナルへの敬意を表して、ゲーム【ストーリア】を始めとする私達の会社が開発したゲームでは、このSAN値に相当するステータスを……【精神耐性】や、海外向けの翻訳ではメンタル・エンデュアランス……という表記で統一していました。
「あ〜、大丈夫ですよ。単に私のように虫や【蟲】のビジュアルが苦手な者の感性で言うと、無数の【蟲】が密集している光景が集合恐怖症的に多少気持ち悪く感じるのです。私は見たくありませんが、ああいうのが平気なタイプもいます。【精神耐性】が低い者が見たら、もしかしたら実際に数値が何ポイントが減るかもしれませんが、最悪でも【精神汚染】が起きるようなレベルではありません。精々【甘露】を二度と食べられなくなるか、夢で見てうなされる程度でしょう」
何しろ、【甘露】を分泌する【魔蟲】は、特定の樹木の柔らかく代謝が活発な新しい枝の表面に無数にビッシリと貼り付いてウゾウゾと這いずり回っているのです。
また【甘露】を分泌する【鎧蟲】や【巨アブラムシ】は穏やかな性質ではありますが、体長は実に1、2mもある巨大な【蟲】でした。
そんな巨大な【蟲】が大量に隙間なく木の枝にミッシリと群がり蠢く光景……。
あれを虫が苦手な女性が見たら、間違いなく悲鳴を上げるでしょう。
【甘露】は、特定の昆虫や【蟲】が樹木や草の篩管液を食糧にする為に吸って余分な成分を体外に排泄した液体を、蟻や蜂などの相利共生関係にある別の虫や【蟲】や【蟻魔人】が集めた物質なのです。
篩管液を餌とする虫や【蟲】にとって、篩管液は栄養に比して糖分と水分が過剰過ぎました。
篩管液の原液を、そのまま消化吸収しようとすると、未発達な消化器官しか持たない虫や【蟲】には負荷が大きいのです。
従って、虫や【蟲】は消化する前に篩管液から効率良く吸収可能な適量の栄養素だけを濾し取って濃縮して必要な分だけを摂取していました。
つまり【蟻魔人】が採集する【甘露】とは、端的に言えば、篩管液を餌とする【鎧蟲】や【巨アブラムシ】の排泄物なのです。
おえ〜……。
まあ、【蟲】の排泄物と言っても消化器官の手前でバイパスされて濾過され寄り分けられているので、厳密な意味では糞尿などとは違います。
また、【甘露】が食品として加工される段階で、当然ながら殺菌・消毒などの処理も行われてもいました。
なので食品衛生上は何ら問題ありません。
しかし、一旦【鎧蟲】や【巨アブラムシ】の口から体内に入って出て来た分泌物というだけで、虫が苦手な私には忌避するのに十分な理由でした。
私が苦手な昆虫と、その排泄物というダブル・パンチでギブアップですよ。
まあ、そんな事を言い始めたら何も食べられなくなるので私の忌避感は合理的な考えではないと自覚しています。
ただし、もしも他のモノを選べるなら、私は出来るだけ虫や【蟲】由来の食品は口にしたくありません。
つまり個人的な食べ物の好みの問題です。
この篩管液から濾過され排泄された【甘露】にも、他の生物にとっては糖分を始め有益な栄養分が沢山残っているので、【蟻魔人】の食糧となる訳です。
そして貴重な【甘露】を生成して【蟻魔人】に供与する事の対価として、【鎧蟲】や【巨アブラムシ】は【蟻魔人】から守ってもらい共生していました。
自然界では【蟻魔人】と、【鎧蟲】や【巨アブラムシ】は、お互いがいなければ生存出来ない相利共生関係にあるのです。
すると……。
「うきゃーーっ!」
誰かが悲鳴を上げて、地上に逃げて来ました。
キアラです。
どうやらキアラも、こちら側のタイプだったみたいですね。
・・・
「あんなゾッとするような光景を目にするとは……」
キアラが血の気の引いた顔で言いました。
キアラは【甘露】が採集されている現場……つまり【蟲】の大群を目撃して気分が悪くなったようです。
「何じゃ?草食で田畑を荒らす訳でもない【蟲】は人畜無害じゃ。どうという事もあるまい?」
【甘露】の採集作業の見学を終えて合流したソフィアが言いました。
地球や環境不変ギミックがないフィールドならば、木に取り付き樹液を吸う【蟲】は、森の木々を枯らす場合もあるので有害ですが、環境不変フィールドの木は枯れても一昼夜で回復するので、【鎧蟲】と【巨アブラムシ】の食糧は無限にあり、被害は無視出来てしまいます。
「申し訳ありません。ただ……あの、ウジャウジャ、モゾモゾ〜というのが生理的に無理でした」
キアラは苦いモノを飲んだような表情で言いました。
「私達にとっては、ごく普通の家畜達の営みなのですが、見慣れない方とっては心地良い見た目ではないかもしれませんね……」
アントワネット女王が言います。
「はい。背中がゾクゾクして鳥肌が立ちました。でも、ウルスラ陛下はアレを見ても平気なのですか?」
キアラが訊ねました。
「アタシも【蟲】は好きではないけど、あの【蟲】は例外。美味しいスイーツの素なんだからね。スイーツは正義なんだよ」
ウルスラは何やら確信を持って言います。
「そうじゃ。我らにとって益【蟲】であるか、害【蟲】であるかは区別して考えねばならぬ。ところでカプタ(ミネルヴァ)よ、先程其方は……【鎧蟲】の外殻も利用価値が高い……と言っておったが、その事について詳しく説明を求むのじゃ?」
ソフィアが訊ねました。
「はい。【鎧蟲】の外殻を形成する鱗の部分は、【鎧蟲】が分泌する【甘露】の成分から生成され固化したモノです。この外殻の成分にはアルミニウムや炭酸カルシウムや蝋を含みます。この【鎧蟲】の外殻は貝殻のように固く、自然界の【蟻魔人】は天然の鎧として利用します。外殻の成分は個別に抽出しても利用価値が高いので様々な用途に利用されています。また【鎧蟲】の外殻は赤色をしていますが、この色素は染料として使えます」
カプタ(ミネルヴァ)は説明します。
「重要な事は【甘露】もその他の素材も【鎧蟲】や【巨アブラムシ】を傷付けずに採集出来る点です」
アントワネット女王が言いました。
「ふむ。労力以外の元手が全く掛からず食品や素材を永続的に手に入れられるのは確かに利が大きいのう」
ソフィアは頷きます。
・・・
私達は【甘露】の生産地から【デマイズ】の都市方面に戻りながら、ついでに【ジャイアント・トリュフ】の菌床となる木の葉の収穫地も視察しました。
「【蟻魔人】は力持ちじゃの。まあ、我には及ばぬが」
ソフィアが言います。
「【働き蟻魔人】は魔力を身体に流せば平均して体重の100倍程度の質量を持ち上げて運べます。体重50kgとして換算すると5tです」
アントワネット女王が言いました。
「ふむ、狭く入り組んで足場が悪い森の中でも運用可能な重機と考えれば大したモノじゃ。それに【蟻魔人】は重機より手先が器用で自立して思考出来る。端的に言って、【蟻魔人】は優秀な種族であるのじゃ」
「お褒めに預かり光栄でございます。私達【蟻魔人】は【魔人】の中では戦闘力は高くありません。その代わり、集団の統制と重量物を持ち運べる点で他の【魔人】より秀でています」
「しかし……先程の【甘露】の採集地でもそうじゃったが、【蟻魔人】の男達は周りに立っているだけで作業は女達任せか?男は怠け者じゃのう?」
ソフィアは言います。
見ると、せっせと働いているのは女性の【働き蟻魔人】達ばかりで、男性の【兵隊蟻魔人】達は槍を持ち周囲を警戒しながら突っ立っていました。
「男達は、作業に勤しむ女達に危険がないように絶えず見張り、もしも害敵に襲われたら身を挺して女達を守ります。【蟻魔人】の伝統的な役割分担でございます」
アントワネット女王は説明します。
「ふむ、伝統のう。じゃが、カプタ(ミネルヴァ)の陣営には戦力が沢山いるのじゃから、護衛は必要なかろう?男女で労働負荷が違い過ぎるのではないか?我は男女の性別を根拠として労働内容に差を付ける事は、あまり好まぬ」
「【蟻魔人】の男は戦闘に特化しているので生産活動では大して役に立たないという理由もあります。以前は私も生産効率の観点から【蟻魔人】達に公平な労働分担を命じておりましたが、それは【蟻魔人】達にとってストレスになるらしく、統治に問題を生じさせました。【蟻魔人】達は【魔人】の中では温順な性質ですので、私に対して反乱を起こすまでには至りませんでしたが、ストレスにより労働効率は私が計算した推定値より大きく低下してしまったのです。なので【蟻魔人】達自身が、このような役割分担に不公平やストレスを感じないのであれば、好きなようにやらせています」
カプタ(ミネルヴァ)が言いました。
「なるほど。まあ、【ドゥーム】の庇護者であるカプタ(ミネルヴァ)や、【蟻魔人】達自身が、それを是認しておるなら、部外者の我が口出しする事ではないがの」
「御理解下さり、ありがとうございます」
アントワネット女王は言います。
私やゲームマスター本部の基本的な立場もソフィアの考え方と同じでした。
まず大前提として、男女の性別に基づき片方の性が、もう片方の性に優越するという思想は誤りです。
ゲームマスター本部は、そのような偏見や差別を是認しません。
ただし、その一見偏った考え方が、当該コミュニティにおいて伝統的価値観として多数に受け入れられているモノであるなら、その伝統には一定程度の妥当性を許容します。
これは……俯瞰から見て不合理に思える価値観も、当事者達がそれを支持していて、法律や公序良俗に鑑みて他者や社会に不利益を与えるモノでない限り問題にはしない……という多元主義の考え方でした。
多元主義は本質的に各個人の自由意思に基づくか否かが許容される根拠となります。
一方で……男女を区別する行為は差別だから理由の如何に関係なく絶対認めない……という考え方は絶対主義と呼ばれていました。
絶対主義は社会の合理性が個人の自由意思に優越するので、全体主義の考え方です。
私もゲームマスター本部も、多元的多様性と自由主義を重視していました。
現代地球の先進国の社会で、公共の浴場やトイレなどが基本的に男女別になっている理由も、この多元的多様性と自由主義の考え方を認めているからです。
・・・
【デマイズ】都市内【甘露】加工工場。
私達は【デマイズ】の都市内に戻り、【甘露】を加工する工場を見学しました。
工場の中は、綿飴の屋台のような甘い香で充満しています。
「【甘露】は採りたての新鮮なモノなら原液をそのまま飲んでも問題はありませんが、賞味期限を伸ばして保管や輸送をしたり、他の食品に添加して二次加工するような場合には、このように加熱殺菌したモノを使用します。原液を型枠に流して加熱し水分を飛ばして乾燥させ固形の板状に成形したモノとして製品化する場合もあります。板状の【甘露】は再加熱すれば、原液よりは幾分か粘度がある蜜飴のような状態になり、お菓子を中心に様々な食品の添加物となります。砂糖よりも栄養価が高い砂糖の代替品と考えて頂いて差し支えありません。また【甘露】は砂糖と異なり哺乳動物の口内細菌の餌にはならない特徴があり、つまり虫歯の原因にはなりません」
アントワネット女王が説明しました。
「ふむふむ。我やウルスラは元来虫歯などにはならぬが、肉体が脆弱な人種にとっては有益な甘味原料となるのじゃな?」
ソフィアが言います。
「はい。【甘露】は非常に優れた食品であり、甘味です」
「ただし人種には極稀に【甘露】にアレルギー反応を示す個体もいるので、その点だけは注意が必要です」
カプタ(ミネルヴァ)がアントワネット女王の説明を補足しました。
「なるほど。蜂蜜などと同じような事じゃな?」
「そうです」
「わかった」
私達は【甘露】工場を後にして、見送りのアントワネット女王達と挨拶を交わします。
そして、次の視察地である【ディストゥルツィオーネ】に向かって【転移】しました。
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