08.弟と顧問にイジられて
「思い出づくり同好会の顧問は私なんだから」
「えっ、そうなのか多気?」
「そうだよ。僕と香良洲先生の二人だけが、この部室でいつもくつろいでいるのさ」
香良洲は後ろ手に扉を閉めると、玲治たちとは反対のソファにゆっくり腰かける。
なんだかこうして面向かって腰かけ合っていると、面談を受けているような気になって落ち着かない。玲治はそんなふうに思ってそわそわしていた。
転校初日の今日、朝に教室まで案内してくれたのも香良洲だったが、その時の玲治は緊張しっぱなしであまり香良洲の容姿を覚えていなかった。午後のホームルームのときも、多気と話していてじっくりと見ていなかったし。
しかしよくよく見れば見るほど、本当に香良洲は美人だった。
姉のあきらも綺麗だったが、それとはまたベクトルが違うというのだろうか。大人びた落ち着きがあって、全身から濡れ衣のような艶っぽい雰囲気が漂っている。
そんなふうに玲治が観察していると、長い睫毛に隠れた暗い赤色の瞳と視線が合ってしまった。
「どうしたの、嬉野くん。そんなに私の方をじろじろ見て」
「あっ、い、いや、別に……」
ストレートな図星に思わずどもってしまった。しまった、これではまるで意識しすぎている思春期真っ盛りの男子だと思われてしまう。
いや確かにその通りの年頃な玲治なのだが、なんだかそういう子供っぽいというか、初心な反応をしてしまうのが恥ずかしく感じる年頃でもある。
高校生にもなるとそう言った恋愛経験とか性経験が、一種のステータスと化すものだ。
彼女が出来たことが無い奴は女子との接し方がわからず、甘酸っぱいチェリーな奴は相対的に自信が少なく見える。なぜだか男という生き物は見栄を張りたがる性質を持っており、極端に考えが寄りがちなのだ。
玲治もそんな見栄を張りたがる男の一人。
「香良洲先生って、よく見たら綺麗な人だなぁって思ってただけっすよ」
はは。と乾いた笑いを零す玲治。
何とか取り繕うことが出来たかな、なんて安堵していたがその声は震えており、ばっちりと香良洲には見抜かれてしまっていた。
さらに玲治の誤魔化した表情を、弟のなぎさが崩しにかかる。
「あー、お兄ちゃんってば先生のおっぱい見て鼻の下が伸びてるよ」
「なっ!? ちち、違うぞ! ななななに言ってんだなぎさ!」
「……お兄ちゃんのスケベ♪」
小悪魔的な笑みを浮かべてからかうなぎさ。
完全に取り乱していた玲治を見て、香良洲がくつくつと笑う。
「なんだ、そういうこと。恥ずかしがらなくったっていいわよ、そういうお年頃なんだものね」
「違いますってッ!」
「玲治……担任の先生に欲情するとはね。見上げた性欲だよ」
「そんなモンを見上げるなァ!」
「そんなに熱くならないで頂戴、嬉野くん。大丈夫よ、生徒の悩みを聞くのは先生として大事な仕事だから」
女性らしい仕種で腕を組む香良洲。
ぎゅっと服ごと抱くようにしたせいで、余計に彼女の胸元が強調されている。
男子ならば誰だって目を奪われてしまう二つの大きなモノだが、玲治は必死に目を逸らそうとして香良洲の顔を睨みつけた。まるで人を眼力で呪い殺してしまいそうなほどの目つきの悪さだ。
しかし香良洲はそれに怯むことなく微笑みを崩さない。
「もしもそういうコンプレックスがあって学校生活が苦しくなったら……いつでも私に相談してね。私が何とかしてあげるわ」
「な、何とかって……何なんですか……」
「いい解決法を知ってるから。二人っきりで……嬉野くんの悩みを解決してあげる」
香良洲の言葉は甘く、そして濡れている。
溶けかけた生チョコのようなその言葉に、玲治は頭の奥が痺れそうになった。
まだまだ青いチェリーの玲治からすれば香良洲の全ては毒に感じられる。悩まし気な肉体、潤った唇と、その隙間から漏れ出す淡い吐息。まばたきするたびに揺れる長い睫毛。
十六歳の少年には何もかもが刺激的すぎる。
「先生っ、あんまりお兄ちゃんをゆーわくし過ぎないでよ。ボク妬いちゃう」
「あら……そう言えば君は一年生みたいね。嬉野くんの妹さんかしら」
「香良洲先生、なぎさくんは玲治の弟ですよ。男子の制服を着ているでしょう?」
そう言われて、ぼんやりとだがハッ、とした香良洲。少しだけ眉を上げた程度の小さなリアクションだったが、やはり彼女もなぎさが男だということに驚いたようだ。
「まぁ、随分と可愛らしい弟さんがいるのね嬉野くん」
「へ……? あ、あーそうでしょ、そうっすよね。ホント、我ながらね、可愛い弟ですよえぇ」
香良洲の色気に中てられてぼーっとしている玲治は、自分でも何を言っているかわかっていない状態だった。
ただ何となくそれっぽい相づちを特に考えもせずに口にしているだけ。その様子を見て多気はこみ上げる笑いを抑えきれずに口元に手を当てている。目つきの悪いままへらへらしているちぐはぐな玲治の顔が、面白くて仕方なかったのだ。
「お兄ちゃん……そんな可愛いなんて言われたら、ボク恥ずかしいよ……」
「謙遜することないぞーなぎさぁ。あきら姉さんも美人だけど、お前だって男の癖にスゴク可愛いんだしー」
「や、やだぁっ、もう……んへへ……♪」
兄にベタ褒めされて頬を赤らめるなぎさ。緩み切ったその表情は完全に女の子にしか見えなかった。
完全に状況を楽しんで思わず失笑する多気と、感情の掴みどころがないような微笑を浮かべる香良洲。そして熱っぽい頭で乾いた笑い声を出す玲治。
和気藹々(?)とした雰囲気のなか、いつの間にかテーブルの上の紅茶は冷めきってしまっていた。
◆
玲治はあれから部室で何があったのか全く覚えていなかった。
ぼんやりと何かを口走っていたことは記憶にあるが、その内容までは思い出せない。何か自分が自分ではなくなっていたような気さえしていた。
「何故か知らんが、めちゃくちゃ疲れたぞ……」
東の空から夜がやってくる頃、玲治は校門の前でぽつりと呟く。
さんざん香良洲と多気にいじられた所為だろうか。ひどい倦怠感が全身にのしかかっていた。
目頭を尖らせて空を見つめる玲治の隣では、満面の笑みを浮かべたなぎさが学生鞄をくるくると楽し気に回している。
「あー楽しかった! 今日はありがとねタッキーっ」
「いやいや。僕も楽しませてもらったよ、主に玲治にねぇ」
「頼むからお前らの胸の内にしまっといてくれ……すげぇ恥ずかしいこと言ってた気がするから」
多気は思い出し笑いしながら玲治を舐めるように見る。なるほどこれが視線で辱められるということかと、玲治はより一層目つきを悪くして歯噛みした。
見る神に祟りは無いが触る神に祟りはある。これ以上刺激して本格的に怒らせてしまう前に退散しようと、多気は背を向けて手をひらひらと振った。
「それじゃあまた明日。会えるのを楽しみにしているよ」
夜が染みだし始めている方角へ向かって去っていく多気の後ろ姿を睨みながら、いつか同じように辱めてやると玲治は強く思っていた。
とりあえず明日、教室で会ったらタキツバと連呼してやろう。あいつはこの呼び方をすると顔色を変えるからな。今日の仕返しくらいには丁度いいだろう。
悪人のような笑みを浮かべる玲治だったが、ふと自分の服の袖が何かに引っ張られるような感覚を覚えて首を動かす。
袖口をきゅっ、と小さく抓んで引っ張っていたのはなぎさだった。
「ねぇねぇお兄ちゃん。お兄ちゃんの家ってどこにあるの?」
「ん? 俺の家は下の大通り沿いだけど。ほら、あの茶色いマンション」
「わぁっ、それならボクたちの家とも近いね! ボクとお姉ちゃんの家も大通り沿いにあるんだよっ」
「そっか……また今度、そっちに遊びに行ってもいいか?」
「もっちろん! ……ってあぁ! もうこんな時間だ!」
校舎の壁に取り付けられた大きな時計を見て、なぎさが大声を上げる。
何事かと玲治が目を丸くして――実際には全く丸くないが――いると、なぎさは猫耳みたいな帽子をぐいっと被りなおして、鞄のショルダーストラップに頭を通してそれを右肩にかけた。
何か焦っているという雰囲気は、時間を気にする言葉からも伝わってくる。
「今日お姉ちゃんが遅くなるから、家事とかボクがしなきゃいけないんだった!」
「家事……って、あれ? 父さんとか母さんは……」
玲治が両親について問いかけようとするが、なぎさはそれを聞く余裕もなさそうにせわしなく腕をぶんぶんと振って言葉を切った。
「お兄ちゃん、ボクもう帰るねっ。本当は途中まで一緒に帰りながらお喋りしたかったけど……また明日っ!」
「あ、おいなぎさ!」
びゅん。と風を巻き起こしながらなぎさは猛スピードで走り去ってしまった。
その足の速さは凄まじく、五〇メートル走で六秒台前半は確実と言える。見る見るうちに遠くなっていくなぎさの後ろ姿を見ながら、玲治は一人取り残されてしまった。
電線で休むカラスの鳴き声が、孤独な玲治をより寂しげに演出する。
「……まぁ、また明日会えるしな」
結局、きょうだいとしての話はあまり出来なかったなと思い返す玲治。
明日こそは色々と訊いてみよう。そう思いながら、一人寂しく家路に着くのだった。