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最終話.愛らしい

「よう、おはよ」

「ああ、おはよう玲治」


 あの夏の日は現実だったのかと思えるほどに、日々冷え込みを増していく冬の日。

 鶴山高校の生徒たちも冬服を身にまとい、それでも足りない生徒は自前のカーディガンを中に着こんでいる。そう、玲治の目の前の席に座る多気のように。

 登校してきて自分の席に座った玲治の周りには、相変わらず多気一人。他の生徒たちは二人を避けるようにして廊下側に集まってホームルームまでの時間を潰していた。

 たぶん、来年になっても同じように友達の少ない学校生活を送ることになるんだろうな、なんて玲治は思った。でもそれでもいい、少なくとも、両手の指で足りる友達の数がいれば十分だ。その考えは負け惜しみにも聞こえるが、本当に玲治はそう思っているのだ。


「最近、特に寒くなったような気がするねぇ」

「地球は温暖化してるんじゃないのか? なんでこんなに寒いかね」

「冬はそういうものだよ。それとも君、四季の儚さを感じられないほど情緒のない人間だったかい?」

「情緒不安定じゃないだけマシだろ」


 玲治は冗談交じりに頬杖をついて窓の外を眺めた。窓際の席の特権というか義務というか、こうして外の景色に視線をやってしまうものだ。特に見るものもなく、見飽きたほどの外の景色。

 四季によって雲の高さや木々の色は変わるため、そのちょっとした変化くらいしか楽しめるものもない。逆に言えば、それを楽しめる玲治にはしっかり情緒があるということだ。


「情緒不安定と言えば玲治。最近、なんだかいつも幸せそうだね」

「は? んだよ、いきなり」

「そう感じたから言ったまでさ。そのひどい目つきは相変わらずだけど、表情が出会った頃より柔らかい印象があるよ」


 嫌味ったらしい気障な微笑みを浮かべながら、眉を指で撫でる多気。

 いつもの彼と何ら変わりないなと、玲治は特に言い返さずに鼻を鳴らすのだった。

 やがてチャイムが鳴り、担任の香良洲が教室に入ってくる。いつもながらの美貌と色気にクラスの男子たちは鼻息を普段より荒くしているように感じられた。冬になってから肌の露出が少なくなったとはいえ、香良洲の身体つきは魅力的なままなのだ。


「みんなおはよう。今日も寒いわね――」





 四時間目までの授業が終わるまで、どうしてか冬は長く感じる。寒さで時間までも震えて動きが遅くなっているのではないかと思えるほどだ。

 どうにかこうにかその長い時間を終えて、玲治と多気はいつものように食堂へ向かった。

 券売機の前に立ち、こんな寒い日はやっぱり身体が温まる物をと玲治は麻婆豆腐定食のボタンを押す。


「またそれかい? 君、血管に豆板醤でも流れて生きているんじゃあないだろうね」

「体はマーボーで出来ている」

「君の汗は辛そうだ」


 日替わり定食を頼んだ多気と共にトレーを受け取った玲治は、ぶんぶんと手を振るなぎさを目印にテーブルまで行って席に着いた。

 いつも通りの狭いテーブル。そう感じさせるのはあきらが平らげた大量の定食、その残骸の多さのせいだ。


「あきらさん。今更すぎますが、貴女の身体のどこにそれほど入っているんです?」

「ホントに今更だな多気」

「でも不思議だよね~。お姉ちゃんってどれだけ食べても太らないんだもん」

「ふふ。胃袋を鍛えれば誰でもこれくらい食べられるようになるぞ」

「胃袋なんて鍛えられないよぉっ!」


 温かく談笑しながら昼食を食べていく玲治たち。いつもと同じ光景だが、よくよく考えてみれば変わった集まりだ。玲治は既に、学校全体に噂が流れるほどにその目つきの悪さを怖がられており近づこうとする生徒は皆無だ。その隣の多気も、学校ではちょっとした有名人。もちろん悪い意味での、だ。付き合ってみれば悪い奴ではないのだが、あの性格では初対面で軽く引かれるのも致し方なし。

 そんな悪い意味での有名人二人と共に昼食を取っているのは、いい意味での有名人二人だ。

 あきらは前期生徒会の書記でもあり、男女問わず大人気の女子生徒。未だに彼女の靴箱の中には毎日ラブレターが入っていて、どこを歩こうとも焦がれるような視線が付いて回る。なぎさも同じく男女問わずに好意を引き寄せる男の子だ。男子生徒のファンクラブに男子生徒が所属していることから、どれほど可愛らしいのかは明白である。

 光と影が同じ場所にあることに、食堂内の生徒たちは困惑を覚えて仕方ない。

 玲治は噂によるとあきらなぎさのきょうだいだというのだからまだわかるが、それでも多気が一緒にいることが不思議でならない。といった風に、奇異と嫉妬が混じったような絶妙な視線を集めてしまうのだ。


「お兄ちゃんってばまたマーボードーフ?」

「またって何だよ。なぎさだってまたラーメンじゃないか」

「違うよっ、今日は味噌ラーメン! ボクの一週間は月曜日から醤油、塩、味噌、豚骨、鶏白湯でローテーションなんだよっ!」

「なぎさくんなりにこだわりがあるんだねぇ」

「ラーメンに変わりはないけどな……」


 結局のところ似た者きょうだいということだろうね、と多気が笑う。

 すると、あきらが壁時計を見てからトレーの上に残っていた最後のスペアリブを口の中に頬張り、綺麗に骨だけを残して皿の上へ戻した。


「すまないが、このあと一身に勉強を教えることになっていてな。また部活の時に会おう」

「ん、わかった。……ってそう言えば姉さん、寺内先輩っていつもどこで飯食べてるんだ? 仲いいんだから一緒に食べればいいのに」

「一身ならいつも、屋上に行ってお弁当を食べているぞ?」

「屋上? 閉鎖されてるはずだろ?」


 鶴山高校の屋上は基本的にいつも鍵がかけられており立ち入ることが出来ない。漫画やアニメではよく屋上が解放されており、そこで昼食を食べるシーンなどがあるが、玲治たちにとってはとても非日常なワンシーンに映る。

 それだと言うのに、どうやって寺内は屋上に立ち入っているのだろうか。


「本当は駄目なんだがな。血統の力で無理やり」

「ああ……空繰からくりならそりゃ行けるか」

「町を眺めながらお弁当を食べるのが大好きなんだ一身は。……それじゃあ、またな」

「ああ、また」


 大量のトレーをどういうわけかバランスよく運んで歩いて行くあきら。その重労働とも思えるほどの食器の量を見かねてか、それともただ会話のきっかけが欲しいだけなのか、食堂内の生徒たちが一斉にあきらの方へ詰め寄っていく。

 その光景を玲治が目で追っていくと、最終的にあきらは箸一膳たりとも残らずに手ぶらになってしまい、申し訳なさそうにそのまま食堂を出ていくのだった。





「――と、言うわけでだ! クリスマスは誰かの家に集まってパーティを開くのがいいと思うのだけれど、どうかなみんな?」


 放課後になり、思い出づくり同好会の部室に集まった五人のメンバープラス一人の顧問。

 ホワイトボードには書き順のおかしい汚い文字で、クリスマス計画と大きく書かれていた。

 冬休みに入ってから最初のメインイベントと言えばやはりクリスマス。世間一般のその日の過ごし方と言えば恋人と、というのが定番であるが彼らは部活を通して友人たちと過ごすことを選んでいた。というか、恋人など誰もいないからそうならざるを得なかった。


「んやぁーっ! また負けちゃったあ……」

「ふふんっ、いくらナギだからってこのあたしに勝とうなんて百万年早いわよ?」

「スピードは自信あったんだけどなぁボク」

「いやいや結構いい勝負だったって。もうちょっとやればなぎさが勝つんじゃないか?」

「何言ってんのよ嬉野! まだまだ本気じゃないわ、今のあたしは六十パーセントってところかしら」

「どこぞの漫画のキャラみたいだな」

「ふふふ……三分でジェンガを平らにしてあげましょうか?」

「ジェンガはもともと平らだろ……」


 多気が声高にポーズまで決めて計画を話していたというのに、笠良城となぎさはトランプゲームに夢中になっていて、玲治もそれを観戦していたために全く話を聞いていなかった。

 無視されて恥ずかしくなったのか、それとも怒りをあらわにしているのか、多気は眉を痙攣させながらふぅ、とため息を吐く。


「む……私はいいと思うぞ、多気くん」

「私もよ。パーティなんだから、お酒持って行ってもオッケーよね」


 話をちゃんと聞いていたのはあきらと香良洲の二人だけ。二人ともリアクションという点においては激しいタイプではないので、どうにも多気は肩透かしを食らった気分だ。

 ちょうど笠良城たちのゲームも一勝負ついたようで、仕切りなおすように多気は咳払いの後に、気持ち大きめの声で続ける。


「問題は誰の家でやるかということさ。みんなはどう思う?」

「どう思うってねぇ……言い出しっぺの法則でアンタの家でいいんじゃないの」

「僕の家は遠いよ? 駅で四つも離れているから移動の時間がもったいないじゃないか」

「泊まりにすればいいじゃない」

「五人も泊められるほど大きくないよ」


 それから話は踊るがされど進まず。

 笠良城は自分の家に大勢を上げるのをかたくなに拒否したためバツ。香良洲の家も多気と同じく広さが足りないとのことでバツ。結局、残りは一つだけだった。


「別に俺たちの家でいいんじゃねぇか。馬鹿みてぇに広いし」

「そうだね、部屋も余ってるくらいだし」

「父上と母上も歓迎してくれるだろう」


 三人とも嫌な顔せずにそう答えた。嬉野家は豪邸と呼べるほど広く大きいため、十人くらいが集まってパーティしても余裕があるくらいだ。

 それならば、と多気がホワイトボードに追記していく。開催場所、嬉野宅と。その字は所々間違いだらけだったが、形として伝わるので誰もツッコミは入れなかった。むしろ多気の誤字は恒例となっている。


「……なんか、金持ちの余裕ぅ、みたいでちょっと腹立つわね」

「心が痩せてるよ小物くん。身体は精神を表すそうだ、だからそんなにも貧相な――」

「うっさいわよタキツバ!」

「ぐぅぅ! その呼び方はよしてくれないか……!!」


 こんな風に、いつも通りの思い出づくり同好会の時間が流れていく。

 いつも楽しい時間を過ごしているため、他のどの部活よりも活動時間が長く、下校時はすっかり日が暮れるのだ。いつも玲治たちが最後に学校を出ていく。

 今日もやはり遅くなり、香良洲だけは職員室へ残って他のみんなは玄関で靴を履き替えて夜空の下、下校し始めた。


「うぅ……さぶいよぉ……お兄ちゃんあっためてぇ」

「もっと着込んでこいって。これからもっと寒くなるぞ」


 後ろから抱きついてきたなぎさに何のリアクションも取らず玲治は素っ気なく言う。きょうだいでのスキンシップも、今や慣れっこだ。

 それぞれが吐いた白い息は、暗い夜空に昇るように揺らめいていく。何の気なしにそれを目で追った玲治は、星空を横切る謎の影を見つける。一体それが何なのだろうかと目を細めて注目していると、影は放物線を描くように空から地面へと徐々に近づき、やがて玲治たちの目の前に落ちてきた。いや、着地した。


「っとと……!!」

「なんだ一身、どうしたんだこんな時間に」


 空を飛んできたのは寺内だった。彼女はどうやら校舎の方から飛んできたようで、自分の学生鞄を肩にかけながら急いでいるような様子。


「おぉあきらに他のみんなも! 部活の帰りか?」

「そうだけど……どうしたのみーちゃん、すんごい急いでるみたいだけど」

「実は呑気に話してる暇あらへんねん! はよぉ逃げな――!」


 寺内が言い終わる前に、校舎の方から大きな、それは大きな怒号が響く。

 その声を聴いてみんなはどうして寺内が急いでいたのか、その理由の大体を把握することが出来た。


「てーらーうーちーィ!! そこで止まれェ!!」

「いひィッ!? は、はいぃぃ!!」


 やがて校舎の方からずんずんと足音を立てて、生徒指導室の鬼と呼ばれし三雲がやってくる。その表情はまさに鬼気迫るもので、部外者の玲治たちも思わず緊張に背筋を伸ばしてしまっていた。

 その場で硬直したままの寺内の襟元をむんずと掴み、三雲は口を裂くように笑う。


「私の手伝いがまだ残っているというのに……何処へ行くんだァ?」

「え、えぇっと……! センセのお夜食を買いにいく準備やぁ……!」

「自分の鞄を持ってかァ……?」


 三雲は寺内の頭を掴み、そのままギリギリと締め上げていく。そう、アイアンクローである。

 彼女の握力に、寺内は表情を歪ませて喘いだ。


「ぬぅああぁぁあああ!! いだだだだだだだだッ!?」

「逃げようったってそうはいかんぞ寺内ィ……だけど小腹が減ったのは確かにそうだ、コンビニでカップラーメンとお茶買って戻ってこい! 五分以内にな!!」

「わっ、わかりましたぁ!!」


 びゅん、と風を巻き上げてまた飛び去っていく寺内。その後ろ姿を見送りながら、どうしてここまで三雲先生に使いっぱしられるようになってしまったのかと疑問に思う玲治であった。


「ん……お前たち、今帰りか」

「あっ、は、はいそうです」

「寄り道せずに気を付けて帰れよ」

「わ、わかりました……」


 鬼が嵐のように訪れて、そして去っていく。

 こんなに外は寒いのに、じんわりと汗ばむほどの緊張感。それから解放されてみんな一斉に息を吐いた。


「こ、怖かったぁ……」

「マジやめてほしいわ……前に指導された時より迫力が十割増しだったわよ」

「三雲先生を本気で怒らせるとああなるからねぇ。僕らも気を付けよう、本当に」

「血統使われたら逆らえないもんな……」


 生きた心地がしなかった五人は、校門を出てそれぞれの帰り道に分かれて歩き始めた。

 玲治とあきらとなぎさは、同じ道をずっと歩き続ける。以前までは分かれていた交差点を過ぎても、ずっと一緒のままに。





「ただいまぁーっ!」

「おかえりぃーっ!」


 快活な声に、快活な返事。

 朝出かけるときと全く同じテンションでやり取りする弟と母親に、玲治は呆れることを通り越してむしろ感心を覚える。


「寒かったでしょみんなっ、お風呂も出来てるから先にあったまってきてね~」

「わーいっ! ありがとお母さんっ!」

「あ……ですが母上、父上が先に」

「お父さんならもうそろそろ……あっ、出てきたわ」


 廊下の奥から姿を現したのは風呂上がりで湯気を纏わせた北勢。紺色の甚平を着て湿った長い白髪をタオルで拭いながら、帰宅した玲治たちに気付いて真っ直ぐに近づいてくる。

 風呂上がりなためか北勢の顔色は血色がよく、皺の刻まれた表情もどこか柔らかに見えた。


「お父さんっ、ただいま!」

「ただいま帰りました、父上」

「うむ」


 腕を組んで出迎えてくれた北勢を通り過ぎて、あきらとなぎさは荷物を部屋に置きに戻っていく。玲治も靴を脱いで家へ上がり、きちんと脱いだ靴を揃えて置いた。

 そうして北勢の方を向き直り、相変わらずの不愛想な表情のままぶっきらぼうな口調で言った。


「ただいま、父さん」

「ああ。……外は寒かっただろう、早く風呂に入って温まるといい」


 不愛想な息子と不愛想な父親の掛け合いを、母親のすずかは隣で微笑ましく眺めるのであった。

 玲治はそのまま階段を上がり、自分の部屋で上着を脱いで荷物を置いた。以前暮らしていたマンションと同じような間取りの部屋に、同じような家具の配置。ただ違うのは部屋の匂いと、窓から見える景色だけ。

 再び廊下に出て階段を下りていく。真っ直ぐに脱衣所に向かって、着替えがあることを確認してから服を脱ぎ、洗濯籠に放り込んでから風呂場へ入る。軽くシャワーを浴びたあと薄緑色のお湯に身を沈めていった。

 身体の芯から温まり気持ちの良いため息を吐く頃、どたどたと足音が聞こえ始めまもなく全裸のなぎさが入ってくる。玲治はいまだになぎさの素肌に慣れていなかったが、少し恥ずかしがりながらも彼の背中を流してやるのだった。





 玲治たちのあとに入浴したあきらも戻り、全員がリビングに揃ったところで夕食の時間となった。献立は簡単ではあるが季節にあった味噌煮込みうどん。四人家族なのだが大きな土鍋が三つも用意されているのは、主にあきら一人の為のようなものだ。

 嬉野家では食事の際にテレビを映さない。家族間の会話だけで時間を忘れて食べ進めていくスタイルである。今日学校で何があったのかとか、週末はどう過ごそうかとか、天気の話や趣味の話、何でもない世間話などで十分に盛り上がる。

 北勢と玲治が使っていた七味唐辛子の瓶が底を尽きる頃、三つの土鍋は底まで綺麗さっぱりに無くなっていた。


 玲治は食後に洗面所で歯を磨き、あとは寝るだけだと自分の部屋でくつろいでいた。

 ベッドの上に腰かけて、本棚から取り出したコミックをぱらぱらと読み進めていると、こんこんと部屋のドアがノックされる。


「お兄ちゃん……まだ起きてる?」

「おぉ、どした?」


 可愛らしいパジャマ姿のなぎさが部屋に入り、とてとてと歩いて玲治の隣にぽすんと座り込んだ。こんな時間にどうしたのだろうかと、玲治は読んでいたコミックを脇に置いて再度問いかける。

 なぎさはどこか遠慮がちというか、言いたいことがあるのに言えないでいるような様子に見える。


「なんだよ、どうしたんだ?」

「んと……あのね、お兄ちゃん。ボクたち一緒に暮らせるようになって……ずっと一緒に居れるようになったよね?」

「ああ、そうだな。姉さんも進学先を地元の大学に変えてたし……俺たちも同じ大学行けば、ずっとこの家で暮らしていられるしな」

「それでね……」


 なぎさはぐい、と玲治に顔を寄せて珍しく真剣そうな顔で言い放つ。


「お兄ちゃんは結局っ、ボクとお姉ちゃんのどっちが好きなのっ!?」

「へぇっ!? 急になんだよ!」

「だって気になるんだもんっ! 最後はどっちと一緒になるつもりなのかが!」

「どっちとって……! 前にも話したろ! とりあえず家族一緒に暮らせるだけで今はいいって!」

「むぅ……! そんなこと言ったって、ホントはボクの方が好きなんでしょっ! わかってるよ!」


 頬を軽く染めながらなぎさはどんどんと顔を近づけてくる。

 それはもう、唇があとほんのわずかで触れ合うかというくらいにまで。

 玲治はすんでのところで、なぎさの肩を押して距離を取った。


「お、落ち着けって……! ちゃんと答えは出すから、今はこのままでいさせてくれないか……」

「えー……どうして?」

「……今のままで、今の俺は楽しいんだよ。もうちょっとだけ、このまま、今を楽しんでいたいんだ」

「……はぁ。しょーがないなぁ」


 するとなぎさはぴょんと跳ねるようにベッドを下りて、部屋のドアの前まで名残惜しさの欠片も無さそうな足取りで向かう。

 あまりにも呆気なくて玲治は不思議に思った。なぎさならどんな言い訳をしようがずっと絡み続けてくると思っていたのに。

 ドアを開けて出ていく際に、なぎさは玲治の方を振り向いて、笑う。その笑顔はいつもの快活なものとは少し違う、そう例えるならば多気がいつも浮かべるような気障ったらしいような、いやらしい微笑み方だった。


「ボク、ぜーったいにお兄ちゃんのモノになるからねっ」


 それだけ言い残してなぎさは部屋を出ていった。言い回しが独特ではあったが、なんだか背筋に冷たいものが這うような気分が玲治を襲う。なぎさの宣言が現実になるかどうかなんてわからない。わからないのだが、玲治の瞳にはその宣言が本当に映った。

 もしかすると、なぎさが今まで以上に積極的になったとして、自分はちゃんと理性を保っていられないかもしれない。そんなふうに玲治は不安を覚えた。

 そりゃあ確かに、最終的にはどっちか選ばないといけないだろう。弟も姉も自分のことが好きで、自分も二人のことが好き。でも、選びたくなんてない。どっちとも一緒じゃ、駄目なんだろうか。


「……っと」


 思いに耽っていて気づかなかったが、ベッドの枕元でスマートフォンが振動していた。

 手に取って液晶画面を確認すると、そこにはあきら姉さんの表示。どうしてわざわざ電話なんてかけてくるのだろうと思いながらも、玲治は電話に出た。


「もしもし、姉さん?」

『ああ……玲治。すまないなこんな時間に』

「いやいいよ。っていうか、なんで電話? 部屋に来てくれれば話せるのに」

『ただ寝る前の挨拶をしたかっただけだ。……それに、面と向かって言うのが、なんだか恥ずかしくなってきてしまってな』

「……? どういうこと?」


 そう問いかけてから、しばしの沈黙。

 時間にすると十秒程度だっただろうか。その沈黙の後に、電話の向こう、壁の向こうのあきらは一言だけ呟くように言った。


『……好きだぞ、玲治。おやすみ』


 それだけ聴こえて、電話は切れた。

 電話だったからあきらの表情は見えるわけがない。そして、その言葉が嘘であるかどうかも玲治の瞳には映らない。それでも、わかりきっていた。

 あきらはきっと、少し恥ずかしがりながら、少し身体を縮こまらせながら言っていたのだろう。心で想っている本当の言葉をそのまま言ったのだろう。


「それはズルいって、姉さん……」


 気が付けば玲治の右耳が真っ赤に染まって、そこから染みだすように頬も熱を帯びていた。

 さっきのなぎさといい、あきらといい。こんな気持ちじゃしばらく寝付け無さそうだ。そう思った玲治は気を紛らわすために、脇に置いてあったコミックを手に取ってまた読み始める。

 描いてある台詞もキャラクターの表情も動作も、何一つ頭に入ってこなかった。





 深夜零時を回った頃。

 ようやく玲治の気分も落ち着いてきたところで、彼は何冊も取り出していたコミックを全て本棚に戻して部屋の電気を消そうとした。そうしたところで、再び彼のスマートフォンが震えはじめる。

 こんな時間に今度は一体誰だろうかと確認してみると、液晶画面を見て玲治はすぐに納得したようにため息を吐いた。


「……こんな時間になんだよ、親父」

『なんじゃいまだ起きておったのか。夜更かしは健康に良くないぞぉ』


 電話の相手は玄正だった。

 開口一番のその台詞をそのまま返してやりたい気分だ。


「用がないなら切るぞ。丁度いま寝ようとしてたんだから」

『まあ待て待て。ちょいとお前の様子が気になっただけじゃ』

「様子?」

『どうじゃ。家族とは仲良くやれておるか?』

「……ああ。なぎさとも姉さんとも、母さんとも父さんとも、うまくやってるよ」

『そうかァ……くくくっ、北勢のこともちゃんと父さんと呼ぶようになったんじゃなぁ』

「そりゃ、そうだろ。一応、そうなんだから」

『ようやく家族らしさを取り戻したわけか。……儂も、ようやくお前の父親代わりからお役御免というわけじゃな』

「そんなこと言うなよ。俺にとってはあんただって親父だ」

『……嬉しいこと言ってくれるのォ。また今度、こっちにも顔を出せよ』

「ああ。冬休みにはそっちに行くよ。じゃあ、もう寝るから」

『うむ。それじゃあの』

「おやすみ、親父」


 電話を切って、玲治は部屋の電気を消してベッドに寝転んだ。

 電話口で玄正は、家族らしさを取り戻したようだ、と言っていた。ああ、まさしくその通り。玲治が今まで感じたことの無かった、家族との時間を今は身に染みるほど感じられている。

 いろいろと、まだ解決しきってない問題……きょうだいとの関係とかもある。

 それでも、今はこれだけでいい。今はこのままがいい。たぶん自分は、これから先に決断しなきゃいけない時がやってきても、選ぶことなんて出来ないだろう。

 きょうだいで一緒に、二人とずっと一緒に暮らしていたい。その気持ちは、目を閉じた北勢に視てもらわなくても、自分でちゃんと理解できている。

 問題は、どうやって二人を納得させるかという事。それもきっと、いつか何とかなるだろう。

 今はただ、この家族らしさを痛感していたい。

 どうにも家族というものは、愛らしい。のだから。

~終~

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