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71.あゆみ

 ピー。ピー。ピー。ピー。

 電池の残りが少ないのか、ひどくか細げな電子音。

 ピー。ピー。ピー。ピー。

 ベッド上部に取り付けられた小物置の棚で、目覚まし時計が朝を告げている。

 それは玲治が小学生の頃から愛用している、黒色のシンプルなデジタル時計。実際よりも十五分ほど遅れてしまっている寝坊助な時計だ。

 と言ってもその時間のずれに玲治はすっかり慣れており、目覚ましのセットも十五分早めに行っている。


「……そんなに騒がなくても、起きてるって」


 物言わぬ時計に向かって話しかける玲治。

 アラームが鳴り始める前に彼は目を覚ましており、上体を起こして腕を時計へと伸ばす。

 うるさい、とまではいかない音を止めて、玲治は身体を伸ばした。肘の関節がみしりと軋んだ気がするが、いつものことだ。


 シーツを足で引っぺがしてそのままベッドから立ち上がる。

 窓のカーテンは昨日の夜から開けっ放しで、眩しい太陽の光が部屋の中いっぱいに溢れていた。

 不思議と眩しさは感じない。太陽の位置が既に高い所為だろうか。そんなことを思いながら玲治は寝起きにしてはしっかりした足取りで洗面所へ向かう。


 洗面台の蛇口を捻って、水を出す。勢いが強すぎたので調整していく。

 水が白くならない程度になってから、玲治は両手を深い皿にして――。


「つめてっ」


 思わず手を引き、手を握ったり離したりする。

 この時期になると水がとんでもなく冷たく感じるものだ。夏場はシャワーの湯がやけに熱く感じたりと、不思議なものである。

 この冷たい水を顔にかけるとなると覚悟がいる。玲治は歯を食いしばりながらなんとか水を両手に溜めて、一気に顔を洗った。

 つらいのは最初の数回だ。それを過ぎれば少々べたついていた肌がさっぱりしていき、冷たい水も心地よい物へと変わっていった。


 鼻先から雫を垂らしながら、傍に掛けてあったタオルを手に取る。

 起床したあといつも行うルーティンの一つ目が終わって、玲治はキッチンに移動して冷蔵庫を開けた。


「なんか、食欲ねぇなぁ……」


 そんなことを言いつつも、冷蔵庫の中に入っているものと言えば牛乳と味噌、卵にマーガリン。食べられるものがそもそも少ない。

 炊飯器の中は空っぽだし、作り置きも皆無。彼に残された選択肢は朝食抜きか、あまり気分じゃない食パンかの二つ。

 何も食べずに出かけるのは流石にまずいと思い、玲治は食パンを一枚オーブンに入れた。


 三分でパンが焼き上がるとそれにマーガリンを塗り、牛乳をコップに入れてテーブルへと運ぶ。普段の朝食と比べるとやや寂しげな眺めだと思いながら、玲治は行儀よく手を合わせて食べ始めた。

 目玉焼きの一つでもあれば彩が足されるのだが、パン一枚で十分だと思えるほど彼の胃袋は大人しかった。


 食欲がわかないのは緊張しているからだ。

 結婚前に相手の両親へ挨拶しにいく時のような緊張とプレッシャー、玲治は昨日の夜からそれらを抱えている。

 さっきから無言で食べ進めているパンの味がわからないところからして、その緊張具合がどれほどのもかはうかがい知れるだろう。


「……っと、電話?」


 ベッドの上で充電器に繋いだまま置きっぱなしだったスマホが振動している。

 それに気が付いた玲治は残り一かけらとなったパンを口に押し込み、牛乳で流し込んでからスマホを手に取った。

 画面に表示されていたのは、なぎさの三文字。彼の弟からの着信だった。

 玲治が通話ボタンをタップしてスマホを耳にあてがうと、すぐさまはつらつとした声が向こう側から届く。


『おはようお兄ちゃんっ!』

「っ……ああ、おはよう」


 なぎさの声があまりにも大きいものだから、玲治はスマホを耳にあてがったまま音量ボタンを指で連打した。

 耳鳴りに顔を顰めていると、多少はマシな音量になったなぎさの声が続ける。


『今日うちに来るんだよね? 何時くらいに来るのっ?』

「今から準備するから……三十分後くらいにはそっちに着く」

『ん、わかった! お父さんもお母さんも、ボクもお姉ちゃんも待ってるからねっ』

「おう」


 そうして電話を終え、いよいよもって出発のときが来た。

 クローゼットから適当に取り出した服に袖を通し、もう一度洗面所へ行って寝癖がついていないか、服がよれてしまっていないか確認する。

 緊張のせいでいつもより二割増しに悪くなっている目つき以外、何も問題は見当たらなかった。


 財布とスマートフォンだけをズボンのポケットに入れて、玲治は家のドアを開ける。

 家族と共に、決着をつけるため外へ。

 玄関の鍵を閉めて空を見上げてみると、見事なほどの晴天だった。

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