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64.暗雲

「どうした。黙っていては解らんぞ」


 北勢が急かすように言うが、あきらもなぎさも口を噤んだままに、額から冷や汗を流していた。

 緊迫した雰囲気のなか、苦笑いを浮かべたすずかが震えた声を出す。


「あ、あなた……子供たちにそんな追いつめるような……」

「すずか。お前は口を挟まんでいい」

「そんなぁ……」


 すずかは泣きそうな表情を浮かべながら引き下がった。

 北勢は見たままの亭主関白であり、強く言われてしまうとすずかは何も言えなくなってしまう。

 再びあきらに向けられた北勢の鋭い視線。

 意を決して、あきらは恐々と口を開いた。


「父上……どうして、そう思われるのですか」

「どうしてもこうしても無い。今日、道端であの馬鹿者に会ったのだ」

「玲治に……?」

「うそっ……!」


 たしかに今日、玲治は部活を休んで先に帰って行っていた。

 それがまさか、偶然にも北勢たちに出くわしているとは。


「奴が着ておった制服は、お前たちと同じ鶴山高校の制服だった。どうやってこっちに来たかは知らんが、同じ高校に通っておるのなら既に会っていることだろう」

「……はい。たしかに、その通りです」


 目を泳がせながらあきらが答える。

 なぎさはさっきから膝の上に握った手を置いて、伏し目がちに俯いたままだ。どうしようもない重たい雰囲気に、今すぐ部屋を出ていきたい気分だった。


 北勢はあきらの返事を聞いて、深くため息を吐く。

 椅子の背もたれに背中を預け、骨の浮き出た細身の腕を組み目を伏せる。

 彼の声色は怒気を孕んでいるようで、哀れんでいるようにも聞こえ、どういう感情を持っているのか掴みにくいものだった。


「十六年間……いや、これから何年先もずっと、お前たちには幸せに暮らしていてほしかったのだが……」

「あなた……」


 その言い草はまるで、玲治と出会ってしまってあきらたちが不幸になったと決めつけるようだ。

 あきらは思った。決してそんなことは無いと。

 それどころか、玲治と再会してからというものの毎日が幸せでたまらない。

 北勢が何を考えているのか不明瞭だが、その言い方は間違っている、とあきらが反論しようとすると、北勢は目を開いて先んじた。

 まるで、あきらが何を言おうとしていたかわかっていたかのように。


「お前たちの考える幸せと、私の考えるお前たちの幸せは違う。お前たちはまだ子供で、幸福と不幸の俯瞰的、長期的な区別がついておらん」

「っ……そ、それは」

「いいか。これだけは言っておく……玲治と共にいれば、必ずお前たちは苦しむことになる。いいや、もう苦しみの渦中におるかもしれんな」


 北勢の言う苦しみ。

 それは恐らく、血統異常のことではないだろうかと、あきらは直感で思った。

 つい最近になってにわかに世間を騒がしているあのニュースは、もちろん自分たちにも大きく関係している事実だ。


 なぎさはもちろんのこと、あきらも自分の変化に気付き始めていた。

 玲治と一緒にいるときに感じる、温かい気持ち、浮遊感に似た心の揺らぎ。

 なぎさを愛でるように、玲治のことも弟として可愛がっているつもりだったのが、いつの間にかそうではなくなり始めていた。


 産まれてから一度も会ったことが無かった玲治に、きょうだいという感覚が持てずにいるためか、こうして心惹かれてしまっている。

 たとえ血のつながりがあろうとも、心に芽生えた感情を否定することが出来なかった。

 しかし、あの血統異常のニュースを見てからというものの、自分の心がわからなくなって、疑いを持つようになってしまった。


 玲治に寄せるこの好意は、血統異常というノイズが生んだものなのだろうか。

 だとしたら、心のどこまでが偽りで、どこまでが本当なのだろうか。

 最初に会ったあの日からなのか、それとも、後になってからなのか。


 考えれば考えるほど、あきらは苦悩を募らせていた。

 なぎさも同じだ。初めて抱くことの出来た恋心が、偽りかもしれないと知り、ひどく動揺してしまっている。


「……お父さん」

「なんだ、なぎさ」

「お父さんはっ、もしかしてこうなることがわかってて……お兄ちゃんを、捨てたの?」


 北勢と目を合わせることなく、なぎさは拳を握って訊ねた。

 今まで知り得なかった真実の可能性、今ようやく、その糸の先が見えた気がした。


「……見えるが故の苦しみ(・・・・・・・・・)がある。私は苦しみなんてものを、お前たちに受け継がせるわけにはいかなかった」

「そんなのっ!!」


 テーブルの上に両手をついて、なぎさは勢いよく立ち上がった。

 彼の座っていた椅子がバランスを崩し、後ろへと倒れる。


 突然の彼の大声に、あきらとすずかが驚いた反応を見せる。

 なぎさは目尻に涙をためて、頬を赤く染めながら声を荒げた。


「そんなのボクたちのことでしょっ!! 今はお父さんの言う通り、変なことになっちゃってるよ……! でも、でもっ!! それでお兄ちゃんだけが今まで一人ぼっちだったなんて、ひどいじゃないかぁっ!!」

「な、なぎさ……」

「ボクも恐いよっ、自分の気持ちが本当か嘘かわかんなくて……!! でも楽しいもん! お兄ちゃんと一緒に居て、嬉しいんだもん! お兄ちゃんだってきっと同じだよっ! ボクたちのことを考えてくれてたなら、どうして離れ離れにしたりしたのさぁっ!!」


 言葉を詰まらせながら、なぎさは感情のままに怒鳴り声を上げていく。

 あきらはそんな弟の姿を見るのは初めてだった。

 なぎさはまとまりきらない心の中を、昂った感情で吐き出しているだけに過ぎない。

 だから、一つにまとまらない言葉が切れ切れになってしまっていて、何が言いたいのかはっきりとしない。

 なぎさが言いたいことは恐らく、「知った風な口を利くな」という、反抗なのだろう。

 北勢によって玲治は捨てられ、北勢から受け継いだ血統の所為で異常が生まれ、北勢が帰ってきたことによって幸せが軋んだ。

 純粋ななぎさの心には、降りかかった紛れがあまりにも多すぎて。


「おかしいよっ……お兄ちゃんに会えたのに、おかしくなっちゃって……なんなの、なんなのさっ……最初から一緒にいられたら、こんな、こんなっ……!」


 ついに涙を流しながら、なぎさは自分の部屋へと走り去ってしまった。

 心配になったすずかがすぐに後を追いかけてリビングを出ていく。

 親子二人が取り残された部屋の中は、寒気がするほど静まり返ってしまう。


「……父上」

「……なんだ」

「父上が私たちのことを思って下さっていたとしても、やはり私も、玲治が一人寂しい思いをしたことには納得していません」

「だが産まれて一度も会っていなかった弟だ。何の感情も感傷も、会いさえしなければ生まれなかっただろう」

「忘れて過ごしていればよかった……そう仰るのですか」

「そうだ。玲治も結果的に、忌々しいが玄正げんじょうの元に引き取られた。奴もきょうだいのことなど知らずに、幸せに生きていられただろうに」

「……そうかも、しれませんがっ」


 あきらの言葉を切るように、北勢は立ち上がった。

 北勢の目つきは悪いままだったが、それでもあきらの瞳には、その眼差しがどうしてか慈しむようなものに見えた。


「もうよい。お前たちがいま苦しんでいるのなら、私が父親としてそれを取り除いてやる」

「それはどういう、意味ですか」

「三ヵ月……いや、もっと早くだ。できるだけ早く、な」


 そう言い残して立ち去った父の背中を見送り、あきらはテーブルの上の食べかけのシチューに視線を落とした。

 もうすっかり、シチューは冷めてしまっていた。

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