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50.夏の思い出、なぎさの想いで。

 時間にして僅か一秒足らずの、ごく短いものである。

 しかしなぎさがしてきたキスは、まるで後頭部から殴り掛かられたような衝撃を玲治にもたらし、一秒を何十秒にも感じさせた。


「――ぷぁっ」


 玲治の首に両腕を回したままなぎさが唇を離す。互いの顔は猫の額ほど近い距離に向かい合い、なぎさは目を細め、玲治は目を丸くしていた。

 思わず玲治は構えていたビデオカメラを落としそうになる。唖然として、声にならない声を切れ切れにさせながら空回りしていた口から、ようやくちゃんとした言葉が出た。


「お前っ……なにして……!」

「えへへ……♪ これで、ボクからのはじめてもお兄ちゃんのモノだよっ」

「は、はぁっ……!?」


 頬を染めながらにっこりと笑うなぎさの表情も、その言葉の意味も、玲治にはさっぱりわからなかった。

 今のキスは人工呼吸だとか、悪戯だとか、そういう類のものではない。明確な好意のもとでされるキスだ。その行為の意味は理解できていたからこそ、余計に玲治は困惑を覚えた。


「ふ、ふざけてるのかっ! なぎさ!」

「ふざけてなんかないよ……ボク、ちゃんとお兄ちゃんが好きだからしたんだよ?」

「好きってなぁ……いくら兄弟だからって、口にするのは駄目だろ!」


 なぎさにブラコンの気があるのは薄々気づいていた。

 学校でもべたべたくっ付いてくるし、全身からお兄ちゃん好き好きオーラが溢れ出ていたのだ。周りから見ても、仲が良いの度を越すスキンシップも多い。

 とはいえ、なぎさは可愛いし、兄として好いてくれることは玲治も歓迎だった。今まで一人きりで過ごしてきていたから、弟に懐かれるのが嬉しかったのだ。


 しかしまさかキスをしてくるとは。

 これはいくらなんでも、あまりにもあんまりだ。


「むぅ……違うよっ、ボクはお兄ちゃんのことが本当に好きなんだよ?」

「う……」


 見つめてくるなぎさの瞳は潤み、かと言って泣きそうになっているわけではない。

 好意を懸命に伝えようとするようなその視線に怯み、玲治はふいと顔を背けた。

 信じられないが、信じるしかない。

 なぎさの言葉に嘘が一切混じっていないと、玲治にはわかってしまうのだから。


(……わざわざ言い直すってことは、そういう意味だって強調してるってことだよな)


 兄弟としての好きではなく、恋愛としての好き。

 キスまでされたのだからほとんどそれは決定的だ。

 玲治の中でぐるぐると考えが巡る。


「……なぎさは、男だろ」

「うん。そうだよ」

「俺も。男だぞ」

「うん」

「それに、俺たちは、血の繋がった兄弟だぞ」

「うん、わかってる」

「……いろいろ、ヘンだろ」

「ヘンだけど、いけないことじゃないでしょ?」


 なぎさの表情は悲しそうとも、辛そうとも、どうとでも取れそうな曖昧なものだった。

 その細めた目だけは、今もずっと玲治の顔を真っ直ぐに見上げたままに。


「ボクね。お兄ちゃんのことが好き。すごく、すんごく。すっごく大好き」


 玲治はちらりとなぎさの顔を見た。

 不純なものなんて一切感じられない、ただひたすらに純粋な笑顔がそこにはあった。

 その純粋さが、玲治を惑わせる。


 兄として、真っ当ではない恋心を抱いている弟を正してやるべきなのか。それとも受け入れてやるべきなのか、受け入れると言ってもどうやって受け入れればいいのか。

 なぎさは可愛くて、弟としても愛らしい。だけどそれだけだ。玲治からなぎさに恋愛感情は向いていない。


 玲治がどう答えようか迷っていると、なぎさは起き上がり、とてとてっと玲治から離れた。


「えへへっ。ボクわかってるよ、お兄ちゃんもびっくりしてるよね」

「……あ、ああ」

「ボクはお兄ちゃんのことが好き。これからもずーっと。でも、お兄ちゃんはボクのお兄ちゃんだから、きっと色々考えてるんだよね」

「まぁ……そりゃ、な」

「だから、何も言わなくていいよっ。その代わりにボク、これからもお兄ちゃんにアタックするからねっ!」


 いつものような天真爛漫たる笑顔を浮かべて言い残し、なぎさは背中を向けて走ってビーチバレーに合流していった。もう動いて平気かと、あきら達に心配されながらもぴょんぴょんと跳ねて大丈夫な事をアピールしている。

 残された玲治はぼんやりとそれを眺めながら、もやもやした感情と一人向き合うことになった。楽しそうにビーチバレーに興じる五人を撮影するカメラも、ほとんど動かさずにただ映しているだけだ。


 しかし自然と、玲治の視線はあきらではなくなぎさにばかり向けられる。

 ようやく慣れたはずの、なぎさの身体つきや顔立ち。またしても、出会ったばかりのあの頃のように見ていると鼓動が速くなる。


 人に好きだと言われたことも、ましてや好意を寄せられたことも無かった玲治は、そういう耐性が全く無かった。

 彼の心はひどく揺らいでいる。

 彼が想いを寄せているのはあきらであるはずだが、そこになぎさも入ってきた。

 十六歳の少年である玲治には、ぐるぐると回るばかりの頭を整理することが出来ず、そのもやもやを抱えたまま一日を過ごすことになった。


 海での思い出づくり。

 玲治に残ったのは、弟とのキス。

 果たしてそれはのちに、どんな意味を持つ思い出となるのだろうか。

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