49.なぎさとのキス
「一歩間違えればどうなっていたかっ! ちゃんと理解しているのか!?」
海の家から戻ってきた途端あきらはまくしたてた。多気から話を聞いて飛んできたせいか口元には焼きそばのソースが付いており、それが何とも格好付かずで、説教を受けているなぎさはどうしても頬をほころばせてしまう。
真面目に話をしているのに笑うんじゃない、とあきらは目尻をつり上げたが、その心配からくる怒りもすぐに鳴りを潜め、目元に涙をにじませ始めた。そして今度は安堵からくる微笑みを浮かべながらなぎさの頭を小突き、ゆっくりと撫でる。
「元気なのはいいが、ほどほどにしないと駄目だぞ、もう」
「えへへ……ごめんなさい、お姉ちゃん」
思う存分なぎさの頭を撫で繰り回し、続いてその手はもちろん玲治の頭にも添えられる。
「玲治がいてくれたおかげだ。ありがとう」
「か、感謝するのか褒めるのかどっちかにしてくれよ……」
「それじゃあ褒めよう。流石だぞ、お兄ちゃん」
姉のあきらからお兄ちゃん呼ばわりされるのは何ともくすぐったかった。
目つきを悪くしながら照れ隠しに視線を逸らし、面映ゆい気持ちに頬を指で掻く。
「まったくもうっ。無駄に心配かけさせるんじゃないわよ」
「無事だったからいいじゃない、嫌な思い出は忘れるのが吉よ」
「先生の言う通りだよ小物くん。終わったことは言いっこなしさ」
多気はパンパンと手を打ち鳴らし、荷物の中から灰色のケースを取り出した。
特徴的な形をしたそのケースはまるで中に銃火器でも入っていそうなゴツいデザインだ。
そういうのが好きなのか、笠良城が目を光らせる。
「何それっ。もしかしてめっちゃくちゃ強力な水鉄砲でも持ってきたの!?」
「残念ながら違うよ、これはビーチバレーのネットさ」
砂浜の上にケースを置いて蓋を開ける。手際よく中身を広げていくと、黄色いポールが伸び、扇状にネットが広がった。
どこでも持ち運べる簡易的なビーチバレー用のネットである。ポールの長さを調節すればテニスやバドミントンにも対応する便利グッズだ。多気は今日のために、諭吉を二人犠牲にして通販で買っておいたのだ。
想像していたものと違うとはいえ、中々スタイリッシュな見た目に笠良城はまんざらでもなさそうにしていた。
あとは流木か何かを使って砂浜に線を描けば、立派なコートの完成である。
「なぎさくんと玲治は審判プラス荷物係プラス撮影係をしてもらおうか」
「おう。……って、しまった。海の家にカメラ置きっぱなしだったぞ俺」
「ああそうだね。あきらさんが平らげた食器の陰でさぞ寂しかっただろうこの子は」
なぎさに連れていかれる前に置きっぱなしにしてしまったビデオカメラは、ちゃんと多気が回収してくれていたようだ。
少し砂を被っていたカメラが、改めて多気から玲治に渡される。
「ちゃんとみんなの姿を撮ってくれていたんだろうね玲治」
「それは大丈夫だ。置き忘れっちまったのは不味かったけどな」
「そうかい。じゃあ試合の模様もしっかり収めてくれよ?」
「了解」
それから玲治はカメラを片手に撮影しながら、もう片方の手で流木を使ってのスコアラーを任された。砂の上に四角い枠を二つ彫るように描き、その準備も済んだ。
砂浜はこうしてキャンパス代わりになるのが魅力だ。あえて波打ち際に絵を描いて満潮時に流される様を楽しむというやり方もある。
多気たちはボールを手に取り、コートへと足を踏み入れる。
どうやらチーム分けは多気と笠良城、あきらと香良洲となったようだ。
いよいよ持ってゲームが開始される。玲治はビデオカメラ越しにその様子をのんびりと眺めるのだった。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
声に反応した玲治が視線を下に向けると、膝枕されているなぎさがこちらを見上げていた。
返事を返しながら玲治はまたカメラへと視線を戻す。丁度、笠良城がサーブしたボールが多気の後頭部に直撃する場面が映っていた。
「ん、どうした?」
「ボクが溺れたあと、お兄ちゃんどうやって助けてくれたの?」
「そりゃ、浅瀬まで引っ張って……息してなかったから、人工呼吸したぞ。それがどうかしたのか?」
「……じんこう、こきゅう」
今にも音が聴こえてきそうなくらいに頬を紅く染めるなぎさ。
しかし玲治はカメラに集中していてそれに気づいていない。今はアタックされたボールを笠良城がブロックしようと、ネット脇でぴょんぴょんと飛び跳ねているところだ。悲しいことに彼女の指先しかネット上に届いていなかった。
「そ、それじゃあ……お兄ちゃんとボク、キスしちゃった……んだよね」
「キス……って馬鹿、ありゃ人命救助だ」
「でもボクのはじめて、お兄ちゃんに取られちゃった」
「は、初めてって……ヘンな言い方するなよっ。男同士で、しかも人工呼吸だぞ。ダブルでノーカン、略してダブカンだ」
まさか唇を重ねたことをそこまでなぎさが気にするとは。
玲治にしてみれば言葉通りにノーカンもノーカン。お互いに気にすることでもないと思っていた。
「……それでも、お兄ちゃんにキスしてもらったのに変わりはないもん。ボクいま、すごく嬉しい」
「う、嬉しいってなぁ……」
ここまでキス、キスと言われ続けると玲治も気になり始めてしまう。救助の際は必死だったから何も思わなかったが、確かに事実として唇は重ねた。
それになぎさは男と言えど、その辺の女子よりも可愛らしい顔立ちをしている。そう言えばやけに唇が潤っていて柔らかかったような気がしてくると、今になってもやもやとした気持ちが芽生えてきた。
俺は男に欲情するような趣味は持ちわせていないよな。と平静を取り戻すために自分に問いかける玲治。
考えてみれば、溺れたのがなぎさではなく多気だったとしたら? いや、そりゃ人工呼吸するのも憚る。間違ってもいい気分なんて無い。
だけど今はむしろ、少し得した気分すらあった。
男に、さらに言えば自分の弟にそんな気持ちを抱くだなんてどうかしてしまったのかと罪悪感や苦悩が一気に押し寄せてくる。
それもこれも、なぎさが妙に可愛いせいだ。
多分、無意識に錯覚しているだけだと、自分に言い聞かせる。
「ねぇ。お兄ちゃんは誰かとキスしたことある?」
「……結構心にクる質問だな。したことねぇけど、言っただろ。ノーカンだノーカン」
そう、玲治は今まで十六年間生きてきて誰かと接吻をしたことがない。年齢から言えば経験している方が少数派だろうからと、それを気に病みはしないが。
なぎさに言われて玲治も気づく。そうか、きっと人の唇の感触なんて今まで知らなかったからこそ、ちょっと変な気分になっているだけなんだ、と。
なぎさの唇は薄い方だが、それでも確かに柔らかかった。
もしこれが本当の女性のものだとしたら、もっと柔らかいのだろうか。
玲治は無意識にカメラをあきらの方へと向けていた。
丁度、香良洲がトスしたボール目掛けて、あきらが地面を蹴って飛ぶ。鋭いアタックを決めていたが玲治の目はそれよりも、大迫力に揺れるあきらの胸に注目してしまう。
高校生にしては規格外に発育の良いあきらの胸。
少し変な気分になっていた玲治に、カメラの中で揺れるそれはあまりにも毒だった。
「お兄ちゃん……ボクとのキス、どうだった……?」
「へっ? そ、そんなこと言われても、別になんとも……」
ゆさゆさと揺れる胸に釘付けになってしまった玲治は、なぎさへの返事もどこか心ここにあらずといったものだ。
血が、意識が、どうも頭ではなくもっと下に、心臓よりも胃よりも下へ下へと集まっていく。
玲治も健全な男子なのだ。魅力的なモノを見てしまって、男の子の部分が反応するのは致し方あるまい。
しかし不味いのは、なぎさに膝枕をしているままだということ。
サーフパンツが不自然に膨らんでいるのは、少し視線を横に向ければ気が付くものであり、案の定それになぎさは気付いてしまった。
泣けるほどに悲しい勘違いが、ここで起きる。
(……!? お、お兄ちゃん、おっきくなってる)
なぎさも外見は女の子だが、中身はちゃんとした男の子だ。
それがナニを意味しているのか、理解できている。
(もしかして……ボクとキスしたこと、何でもないって言ってるのがウソで……ほんとは、おっきくするくらい嬉しかったのかな……)
なぎさはもじもじと太ももを擦り合わせながら、玲治の股間から目が離せないでいた。
彼の中でどんどんと膨らんでいく。いや、玲治のようにアレが膨らむのではなく、心の中で温かい気持ちが、である。
(そっか……お兄ちゃんも、ボクのこと……そういう目で見てくれるんだ……)
いや違う。玲治がいまそういう目を向けているのはあきらなのだ。
しかしそれをなぎさが知ることは難しい。泣けてくるほど悲しい勘違いなのだ。
そしてその勘違いが、なぎさの心に劇的に作用して、ストッパーを外してしまった。
「……お兄ちゃんっ、こっち向いて」
「え? どうしたんだ――」
玲治の首に回される、柔らかく白い腕。
カメラの液晶にまたも笠良城が放ったボールが多気に直撃するのを映し出したとき。
なぎさの柔らかい唇が、玲治の唇に押し付けられていた。




