47.青い底へ
時刻は午前十時、四十分。
海の家ではあきらがまだ食事を続けていた。
「ね、姉さん。まだ食べるのか?」
「ああ。ここの食事は本当に美味しいぞ、いくらでも食べていられるな」
「一体あんたの細い身体の、どこに入っていってるのよ……」
積み重ねられた皿はついに十段を越え、それが三つも四つもあった。
この鯨飲馬食ぶりを初めて見た笠良城は引きつった顔で鳩尾の辺りを撫でる。見ているだけで胸やけがしてきそうなのだ。
その光景を肴にして香良洲が新しい缶ビールを開けたとき、なぎさがテーブルに身を乗り出して玲治に顔を寄せた。
「ねぇお兄ちゃんっ、泳ぎに行こうよ!」
「おお、俺まだ海入ってないしな……んじゃ行くか」
「泳ぎに行くのか? 二人とも気を付けるんだぞ」
「はーいっ! コモちゃんも行く?」
なぎさはぐるりとテーブルを周り玲治の腕を取る。
笠良城はなぎさが寄せる好意を知っているため、ひらひらと手を振った。
「あたしはパスするわ。もう少し休みたいし」
「そっか……じゃあ行こっかお兄ちゃんっ!」
「だから、あんまり引っ張るなって!」
せっかく二人きりで泳ぎに行けるチャンス、それを邪魔しては悪いだろう。笠良城は海の家を出ていくなぎさの後ろ姿に温かい視線を送った。
(にしても、嬉野の奴はなぎさの気持ちに気付いてるのかしら……ううん、多分気付いてないわね)
頬杖を突いた彼女の予想通り、玲治は気付いていない。
なぎさのスキンシップや態度が、少々度を過ぎているとは感じているが、それがまさか性別を超えた恋愛感情の表れとは夢にも思わないのだ。
「はやくはやくーっ!」
「おまっ、あぶなっ! こける、こけるって!」
悲しきかなはなぎさが玲治の弟ということだろう。
たとえなぎさがどれほど玲治に甘えても、じゃれついても、それは結局のところ兄弟のスキンシップだと思われてしまう。もしも二人が兄弟でなかったら、数々の兆しに簡単に気付けるものなのだが。
二人は浜辺から波打ち際へ。ぱちゃぱちゃと水を跳ねさせながら、浅瀬へ向かってなぎさが玲治を引っ張っていく。
そして膝下あたりまで浸かるようになると、なぎさはくるりと振り返り、玲治の右腕と左肩に手を添えた。
「とりゃぁーっ!」
「う、おぅ!?」
ふくらはぎに脚を引っ掛けられてバランスを崩したところに、肩を捻られてしまえばそのまま倒れこむのは当たり前だ。
これはなぎさの得意技の一つ、大外刈り。
ただ通常の技の流れと違うのは、倒れこんだ玲治の上にそのままなぎさも倒れこんだこと。結果だけ見ればなぎさが玲治を押し倒したような形だ。
「……ぷはっ! こらなぎさぁ!」
「あははははっ!」
上体を起こして頭を振る玲治。なぎさはのしかかりながらこれ以上ないくらいに破顔させていた。
「お返しだぁ!」
「んやぁっ! やめてよーっ!」
立ち上がった玲治は大きな手のひら一杯に海水を掬い、なぎさの顔目掛けて飛ばしていく。玲治は相変わらず目つきが悪く、なぎさも口では嫌がっているが、二人とも楽しそうに笑っていた。
やがてなぎさが逃げるようにして海に飛び込み、玲治もそれを追いかけようとする。
「こっちだよぉー!」
「お兄ちゃんを揶揄いやがって! 逃がさねぇぞぉ!」
玲治は飛び込んだ勢いそのままに潜り、水中に見えるなぎさの身体を目指して泳ぎ始めた。距離は離れていないから、すぐに追いつくだろう。そう思っていたのだが。
いざなぎさも逃げようと泳ぎ始めると、そのスピードや目を疑うほどに速かった。まるで水泳選手、魚も驚くほどの綺麗なフォームで見る見るうちに距離を離されていく。
玲治も泳げるとはいえ、あそこまで洗練されていない。このままじゃ一生かかっても追いつけないと、一旦水面に顔を出した。
「どうなってんだちくしょう、どうやら俺の弟はオリンピック強化選手並みに運動神経いいらしいな……」
「えへへーっ、もう降参?」
「ああ無理だ。泳ぎも得意だなんてびっくりだぞ」
「中学生の頃、先生にも褒められたんだよ~、ほらほらっ」
それからなぎさはクロール、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎと様々な泳ぎを披露する。
才能がずば抜けているのか、どれも完璧な泳ぎ方だ。その才能を生かして将来立派なアスリートになってほしいものだと、兄として思う玲治であった。
「水泳選手とか目指さないのか? ぶっちぎりで一位になれるぞきっと」
「うーん、泳ぐのも好きだけど……んゃっ」
「……?」
そのとき、なぎさは苦しそうな表情を浮かべて小さく呻いた。
先ほどまでゆったりと海に浮かんでいたのに、ばしゃばしゃと腕を水面に当てて明らかに様子がおかしい。
「っ、おに、いちゃ……!」
「――なぎさっ!!」
助けを求める声も切れ切れに、なぎさの姿が海の中へ消えていく。
二人は海に入る前、やるべきことをやっていなかった。
準備体操をかかしたため、なぎさの右足が攣ってしまったのだ。
玲治は血相を変え、沈んだなぎさの元へと急いだ。




