04.「姉」嬉野あきら
玲治は目の前の状況に戸惑いを隠せていないが、今一度ここで状況を整理してみよう。
食堂の中は結構な数の生徒が集まってきており、みな思い思いのメニューに舌鼓を打っている。まだ昼休みは始まって間もない。
しかし玲治の兄、いや姉。嬉野あきらは既に大量の学食をたいらげており、紙ナプキンで口を拭いながら食休みをしていた。
多気と玲治は食堂の入り口付近で突っ立っている。
眉の先を指先で撫でる多気の隣で、玲治は目つきをすこぶる悪くしながら必死で頭の中を整理しているところだ。
「なんだよ……聞いてた話とまるで逆だぞ……?」
「玲治。何をどう間違えたら自分のきょうだいの性別を逆に覚えるんだい?」
「そう聞いてたんだよ! 俺には妹と兄さんがいるって……」
ふと玲治の脳裏に、憎たらしい笑みを浮かべる老人の顔が浮かぶ。
きょうだいの話をしてきたのは他の誰でも無い。玲治の育ての親、嬉野玄正だ。
はっきりと玄正は、妹と兄がいると言っていた。そしてそれを聞いていた玲治は何の疑いも持っていなかった。
何故ならそのとき玄正は嘘を言っている様子では無かったからだ。玲治は確信を持ってそう感じていた。のだが、目の前の現実はまるで違ったのである。
「親父が間違えて覚えてたのか……? くそっ、あの耄碌ジジイめ」
「まぁ何にせよ、君のきょうだいであることは間違いないのだろう? 話しかけにいったらどうだい?」
「ああ……まぁ、そうだよな」
口の中は乾ききっていたが、それでも玲治は喉を鳴らす。
小さな黒目で綺麗な白銀色の髪をじっと見つめたまま、ゆっくりと一歩ずつ歩み寄っていく。
緊張している所為か玲治の動きはかなり不審だ。ネクタイの結び目に右手を当てながら、左腕と左足が一緒に前に出てしまっている。
そんな後ろ姿を眺めながら、多気は呆れたようにため息を吐いた。
玲治だけを行かせて自分は食堂の入り口で壁に背を預けながら見物だ。玲治とあきらが出会いどんな反応をするのか、どんな会話をするのか。
多気は玲治の背中に生温かい視線を送る。
そんな視線を受けているとも知らず、玲治はようやくあきらの目の前までたどり着いたのだった。
「ぁ……っと……」
「……ん?」
あきらの前に、何やら口ごもりながらそわそわする目つきの悪い玲治。その光景は傍から見れば不穏以外の何物でもなかった。
しかしお互いの視線が一直線に繋がると、その間に何かふわふわとした空気感が生まれる。
目つきは悪いままだが、その小さな瞳に再会の喜びを映し出す玲治と、切れ長の目でぼんやりと玲治を見つめるあきら。
事情を知っている者から見れば、二人の間に生まれた空気感にこそばゆい気持ちになるだろう。実際、離れた場所で眺めていた多気がそうだった。
しばらくのあいだ見つめ合っていた二人だったが、先にあきらの方に動きがあった。
はっ、と何かに気が付いたように顔色を変えたあきらは、がたんと音を立てて立ち上がる。
「……玲治?」
名前を呼ばれたとき、玲治の胸の奥で大きな音が一つ鳴った。
どうして自分の名前を知っているのかと疑問に思う。物心つく前に離れ離れになったきょうだいだから、自分の名前どころか存在自体知っているかどうかも怪しいと思っていたのに。
そんなふうに戸惑っていると、あきらがテーブルを周って玲治の方へと近づいていく。
頬を少し赤くしたあきらは、口元をほころばせて両腕を広げた。
そうして広げられた両腕はしっかりと玲治の背中に回される。
玲治はあきらにぎゅっと、痛いくらいに抱きしめられたのだ。
「ちょ、ちょっと!?」
「ああ! 玲治! 玲治……!」
男子として平均よりも少し背の高い玲治だが、あきらもそれと同じくらいの背丈だ。
抱きつくあきらの頭は玲治の肩の上に乗り、お互いの髪がこすれあう。
突然抱きしめられた混乱のなか玲治が感じていたのは、少し癖のあるあきらの髪から香ってくる甘い匂いと、自分の胸板に押し当てられている確かな柔らかさ。それと耳元で何度も囁くように呟かれる自分の名前だ。
嗅覚、触覚、聴覚、その三つ全てがあきらを感じている。
恥じらいに身をよじらせれば余計に柔らかい二つのものを意識してしまい、呼吸を整えようと息を吸えば甘い匂いに頭がくらりとする。
そして何よりも玲治の顔を熱くさせるのは、耳元で囁かれる声だ。
感慨深そうに、吐息交じりに、何度も何度も、熱っぽく名前を繰り返される。
きょうだいだとかそういうのはもう関係なく、玲治は女性としてのあきらを強く意識してしまう。
このままでは何かと色々まずい。
玲治は必死に手の震えを抑えながら、そっとあきらの両肩に手を乗せてぐっと押しのけようとする。しかし玲治の身体を抱きしめる腕の力は強く、なかなか思ったように離れてはくれなかった。
「ねっ、姉さん……ちょっと落ち着いてくれ……!」
「……あっ」
いくらきょうだいとは言え、もうお互いに二次性徴を終えた身。
自分が何をしでかしているのか気づいたあきらは、抱きしめていた両腕を離してぱっと玲治から身を引いた。
「す、すまない玲治……感極まってつい、はしたない事を……」
今さらあきらは恥ずかしがって顔を一層赤らめる。
見る見るうちに赤みがかっていく彼女の頬は、かぁぁ、と音が聴こえてくるようだった。
同じように玲治も顔に熱を帯び、二人のあいだに名状しがたい気まずい空気が流れる。
そして、気まずい空気が流れているのは二人のあいだだけではない。
食堂全体の時間は今まさに、止まっていた。
箸やフォークやスプーンを掴む手は凍り付き、とんかつやスパゲッティやカレーを食べようとしていた口は開きっぱなし。
誰もが全員、先ほどの光景を目にして固まっていた。
ただのカップルがいちゃついて抱きつきあっていたならこうはならなかっただろう。疎ましがったり微笑ましいと思うくらいで済んだはずだ。
しかし先ほど玲治に抱きついたのは、他の何者でもなくあきらだ。
容姿端麗、才色兼備。鯨飲馬食がたまにきず。そんな男女問わずに絶大人気を誇る、あの嬉野あきらなのだ。
狼狽する男子のかすれ声と、卒倒する女子の小さな悲鳴がところどころで上がりだす。
「いきなり抱きついたりして、その……変に、思わないでほしい。ただ私は、玲治に会えて嬉しかっただけなんだ……」
「い、いいよ。確かに驚いたけどさ」
うつむき気味になりながら胸の前で指をからませるあきら。
その恥じらう仕種が、またしても玲治の胸の奥を騒がせた。
「えっと……とにかくあなたが俺の兄、じゃなくて、姉さんでいいんだよな?」
「ああ。間違いなく私はお前の姉だよ」
すぐに落ち着きを取り戻したようで、あきらは玲治の顔を真っ直ぐに見つめながら言った。
彼女が浮かべる優し気な微笑みは、何もかもを受け入れてくれるような雰囲気がある。
その表情は姉としての弟に対する優しさの表れだろうか。
学校中の誰しもが、あきらにそんな愛情深い顔を見せてもらったことが無かった。
嫉妬と憎悪が混在した多くの視線に晒されつつも、玲治は目つきを悪くしながらあきらの透き通った瞳を見つめ返すのだった。