33.玲治が、ここにいる
「……あった! 多気が言ってたのはこれだな」
桜声館の三階――。
廊下の真ん中にわかりやすく、ぽつんと置かれた割り箸を発見した玲治はすぐに駆け寄っていった。木製の床はくすんではいるものの状態はよく、玲治が靴のまま走ったとて、みしりとも軋まない。
割り箸は一膳だけ残されており、それはすなわちこの場になぎさ達が訪れてもう一膳をしっかりと手に入れていたということに間違いなかった。
「少なくとも、三階では何も起こっていなかったということだろうか」
「どうだろう……とにかく二階に降りて、そこに割り箸があるかどうかを調べないとな。もし二膳とも残ったままなら、三階と二階のあいだで何かあったってことだろうから」
桜声館は元々旅館であり、ただの民家と違って広く部屋数も多い。三階は主に客間がずらりと並んでいて、ふと目をやると扉には『三一七』と数字の彫られた札が掛けてある。部屋を一つ一つ探すには時間がかかりすぎるため、玲治はとにかく割り箸の確認を優先しようと考えていた。
それにしても、本当に廃墟とは思えないほど内装が綺麗だと、ここに来るまでに玲治は感じていた。正面玄関を入ればすぐに吹き抜けのロビーに迎えられ、照明類などは割れていたもののその絢爛さたるや目を奪われるほどだったのだ。
床や壁、窓や扉。どれも長らく手入れされていないが決して脆くもなっていない。年季の入った内装というのがしっくりくる。
「……ホント、廃墟って感じが全然しないな」
廊下を過ぎて階段へと差し掛かり、玲治は手摺に手のひらを滑らせながら改めてそう口にした。
その後ろをできるだけくっ付くようにするあきらは右手に数珠を握りしめたままで、階段を一段下る度にじゃらり、じゃらりと音を立てる。かえってそれが不気味に聞こえて仕方なかった。
「ね、姉さん。数珠はもう仕舞っても大丈夫じゃないか?」
「駄目だっ……! ここは思っていたより不気味ではないが……さっきからやけに、両肩が重いのだ」
と、あきらは青ざめた顔でひどく憔悴している。
「……やっぱり、怖いなら無理しなくても。外で待っててくれてよかったんだぞ?」
「そうもいかない。なぎさと一身が、心配、だから……」
「でも……」
踊り場を過ぎたあたりで玲治は立ち止まって振り返った。そこで改めて、あきらが無理をしているのだと表情から察する。
あきらがここまで霊的なものに怯えてしまうのも、元を辿ると体質に関係があった。
――こんな体験をしたことはないだろうか。風呂場でシャワーを浴びているとき背後に気配を感じたり、墓参りに行ったとき身体がふわふわと浮くような感覚に見舞われたり、暗い夜道を歩いていると曲がり角の先に何かがいるような気配を感じたり、一人きりなはずの家の中から誰かが歩くような物音を聞いたり。
それらを体験したことがある人はよく、霊感がある人と呼ばれる。ただ怖がりなだけだ想像力が豊かなだけだとも、わかったふうに言われることもあるだろう、しかし実際そういう感覚が鋭い人間というのもいるのである。
あきらもその一人。彼女は霊感が人より優れてしまっている。
玲治は幸いそのような感覚を持ち合わせておらず、桜声館に入ってからも特に身体に異変が起こったり寒気を感じたりしていない。
両肩に重みを感じ、息苦しさを覚え、肌寒い思いをしているのはあきらだけだ。
「本当に大丈夫なのか姉さん。そんなに汗かいて……」
「何を言っている、こんなに寒いのに汗なんて」
自分の手を額に当ててみると、まるで冷や水を頭からかぶったようにひどく濡れていた。
あきらはそこで初めて、自分が大量の汗をかいていることに気付く。
「む……き、きっと緊張しているだけだ、そうに違いない」
恐怖心を無理矢理に言いくるめて、あきらは平静を装おうとしていた。
しかしその時。踊り場の下、一階の方から人の呻き声のようなものが聞こえてきて、あきらの強がりを崩しにかかる。
「――ゥ、ゥゥ、ァゥウぅンン」
「ひッ……!?」
「な、なんだよ今の……!」
玲治の耳にもはっきりと聞こえていたその声は、まるで口を塞ぎながら喉を鳴らすような不気味なもので、ぞわぞわとうなじの辺りに鳥肌が立っていく。
「まま、ま、まさか、なぎさの言っていた、この旅館に出るゆゆ幽霊……」
「そっそんなワケないって。風で窓が軋む音とかと聞き間違えたんだよきっと」
ガタガタガタンッ! と、二階の廊下の方から扉を叩き付けるような大きな音。
決してそれは風の音などでは無かった。
「や、やめてくれ……こ、この音を止めてくれぇ……!」
絞り出すような声でお経を唱えて数珠を拝むあきらの目尻には涙がにじんでいる。
彼女は先ほどの呻き声も、今も連続して鳴っている大きな音も全て幽霊の仕業だと思い込んでしまっていた。
「そんな、幽霊なんてまさか……っそうだ! きっとなぎさだよ! 俺が行って確かめてくる!」
ガタンッ! ドンドンドンッ!! 音は徐々に激しくなっている。もはやその音は一人で出せるようなものではないのだが、玲治も恐怖心に思考が回りきっていなかった。
あの音を立てているのはなぎさだ、きっと自分たちに居場所を知らせようとしているのだと、そう思い込まないとどうにかなってしまいそうなのだ。
「待ってくれ玲治っ! 私を一人にしないでくれ!」
二階へ降りようとした玲治の肩にあきらがしがみつく。二人の距離はかなり密着して、それこそあきらの身体が柔らかく玲治に押し付けられているのだが、悲しきことに状況が状況だ、それを楽しめる余裕はなかった。
息を荒くしながら玲治は、肩にそえられたあきらの手を握る。
「い、一緒に行こう……離れないでくれよ、姉さん」
静かにあきらは頷き、そして階段をゆっくり降りていく。
玲治は背中に、あきらは胸に、お互いの破裂寸前まで高鳴った鼓動を感じていた。それぞれのテンポの違う鼓動が混じり合う、不規則な変拍子。それが余計に緊張感を高める。
恐怖を極限まで感じた状況で寄り添える人の温もりというものは、想像を超える。経験しないとわからない、名状しがたい感覚。あえて言葉にするのならば安らぎだろうか。
安心など出来ない状況ではあるが、あきらが感じていたのは確かな安らぎだ。彼女のぐちゃぐちゃにこんがらがった心の内をこれ以上正確に表現するには、言葉はあまりにも青臭い。
「……玲治ぃ」
とこん、とこん、とこん。
と、密着した二人の身体に通い合う鼓動。
すぅ、すぅ、すぅ。
と、玲治の耳元に当たるあきらの呼吸。
ぎゅう、とあきらの手を握る骨ばった大きな手のひら。
涙ぐんで震えるあきらと、どこでもなしにじっと宙を睨む玲治。
二人はいま、一つとなっていた。
「……姉さん、大丈夫か」
「大丈夫、と言えば嘘になりそうだ」
「嘘でもいいよ。大丈夫って自分に言い聞かせた方がいい」
「……しかし、先ほどから、そう思ってはいるが」
「さっきから聞こえてるあの音も、何も、気にしないでいい。俺のことだけ見て、俺のことだけ考えてれば、きっと怖くなんてなくなるさ」
「……玲治」
あきらの顔をしっかりと見つめながら笑いかけた玲治は、相変わらず目つきの悪いままだった。しかし、不器用なその笑顔を見たあきらの胸は、とこん、と強く跳ねる。
あきらのこんがらがっていた頭の中が、絡まった糸を解くように素直になっていく。
「なっ。大丈夫だろ?」
「……ああ、ああ。もう大丈夫だ。玲治が、ここにいる」
儚げなその微笑みは、強がりでも、嘘でも無い。
玲治の眼には、あきらの本当が映っていた。
そして二人は、不気味な音の正体を確認するために二階へと降りる。
恐怖に染まっていたあきらの胸の高鳴りは、別の高鳴りに変わりつつあった。




