24.弟にぶっかけられて
リビングのソファに腰かけながら玲治は思っていた。
(……落ち着かねぇ)
部屋のどこを見ていても落ち着かず、視線をあっちこっちへ慌ただしく動かす。
(……落ち着かねぇ)
そわそわと脚を揺らしたいところだがそれは出来ない。
何故なら、彼の膝の上には弟の頭が乗っかっているのだから。
「……ってぇ! 何で俺の膝に乗ってんだなぎさ!!」
「んへへぇ……」
緩み切った顔で、今にも涎を垂らしてしまいそうな恍惚の声を漏らすなぎさ。
ソファの上で膝を折りたたんで小さく丸まっている姿はまるで猫のようだ。
どうしてこんなことになってしまったのか、まずはリビングに入ってきてからどういった流れが発生したのかを説明しよう。
一、玲治がリビングに通されあきらにくつろいでくれと言われる。
二、とりあえず目についたソファに腰かける。
三、なぎさが獲物を捉える。
四、玲治の膝の上へタッチダウン。
二から四までが行われるその間、わずか二秒。
あまりにも自然かつ流れるようななぎさの動きに、思わず玲治もしばらく突っ込むことを忘れてしまっていた。
「お兄ちゃんの膝枕ぁ~♪」
「くっ……! なんて幸せそうな顔で見上げてきやがる……!」
「んへへぇ……」
寝返りを打つように仰向けになるなぎさ。
猫が膝の上で眠っているときもこんな感覚なのだろうかと玲治は思った。
なにせ、脚が痺れようが身じろいでしまえば起こしてしまい、幸せそうだった猫を悲しませてしまうことになる。
いま無理矢理に動けば、間違いなくなぎさはしょんぼりするだろう。
「な、なぁなぎさ。どいてくれないか……?」
「嫌!」
「や、ってお前なぁ……」
出来れば弟を無闇に悲しませたくはない、という謎のお兄ちゃん心が芽生えてしまい玲治は強く言えなかった。
それに正直言って、こんなに可愛い弟に甘えられるのは嫌じゃない。別にこのままでもいいかとは思っていたのだが。
「なぎさ……脚が痺れてきたんだけど」
「えーっ、もうちょっとだけぇ~」
「……なぎさ。法事に行ったことあるか?」
「ほーじ? なにそれ」
「亡くなってる親戚の人とかのために、お寺でお坊さんにお経読んでもらうあれだ」
「あぁー。何回か行ったことあるケド……急にどうしたの?」
玲治は両足のつま先を握ったり開いたりしながら、徐々に神妙な顔つきになっていく。
「あれって、読経してもらってるときずーっと正座してるだろ」
「うん……」
「もう無理、って思っても正座を続けるだろ」
「そ、そうだね……」
「ようやく終わったーってとき、窮屈だった脚を崩すと……脚がバネになるだろ?」
脚がバネになる、とは随分と比喩が過ぎるように思えるが、なぎさには十分すぎるほどにその感覚が伝わっていた。
玲治の膝に頭を乗せながら、なぎさは緩んでいた表情から段々と強張った表情に変わっていく。
「な、なるなるっ! 足がゴムみたいにもなるよっ!」
「その状態ならまだ、不思議な感覚で楽しいだろ? 足をぶよぶよ叩いたりして」
「そうそう! びぃ~んってなって楽しいよねっ!」
「だけど時間が経つと……指の先からピリピリし始める」
「あ、あぁあ……!」
なぎさの顔色が青ざめ始める。
そう、長時間の正座によって引き起こされるあの脚の痺れ。あれは地獄とまではいかないが相当な苦痛である。
経験した者ならば誰もが、二度と味わいたくないと思うだろう。
「そうなったらおしまいだ……ちょっとでも触ると、何千本もの小さい棘が這うような、何とも言えない痺れが襲ってくる……!!」
「や、やだぁ……! 聞いてるだけで痺れてきそうっ……!」
「なぎさ。お前は俺に、お兄ちゃんにあの地獄を味合わせたいと言うのかっ……!?」
「……!! や、やだよっ!」
バッと上体を起こして、なぎさは膝枕を中断させる。
まだ感覚がはっきり残っている太ももをさすりながら、玲治は上手く引き剥がすことが出来たとため息まじりに微笑んだ。
『知っている痛みを呼び起こす作戦』、見事成功である。
「ごっ、ごめんねお兄ちゃん……あし、大丈夫?」
「ああ……もうすぐ取り返しがつかなくなるところだったぜ」
心配そうに見つめてくるなぎさの頭に、玲治はぽんと手を乗せる。
「聞き分けのいい子だなぁ、なぎさは」
「んやぁっ……えへへ。ボクっていい子?」
「ちょっとわがままな気もするけど……まぁ、根はいい子だな」
そうやって弟の頭を撫でることも、玲治にとっては一つの憧れであった。
自分を心から慕ってくれるのが嬉しいし、こうやって褒めてあげたり何かをしてあげるというのも心が温かくなる。
(多分あきら姉さんも……俺のことをこんなふうに思ってるんだろうな)
きょうだい愛、という言葉が玲治の頭に浮かび上がる。
友達以上恋人未満という言葉があるが、その中間に位置するのは家族やきょうだいなのではないだろうか。まさしくぴったり当てはまるのだから。
(……きょうだいっていいな。こっちに引っ越してきて、ホントよかった)
今までモノクロだった人生が、一気に色づいたような気分だった。
そうして玲治がなぎさの頭を撫でくりまわしていると、キッチンの方からエプロン姿のあきらがくすくすと笑いながら近づいてきた。
「楽しそうだな、二人とも」
「あぁ姉さん……ってうわぁ」
あきらの恰好を見るなり、玲治は引き気味に眉を顰める。
なんとなく予想はしていたことだが、あきらの着ていたエプロンのデザインはひどいものだった。
柴犬の顔が大量に、埋め尽くすようにプリントされている。へんてこなブラシツールを選択してマウスを暴れさせたみたいなデザインだ。
一つ一つの顔が小さいのと、柴犬の顔が何故か瞳孔の開ききった真顔なのが余計に狂気を感じさせる。
「玲治、夕飯は何が食べたい? 食材はたくさんあるから、何でも作れるぞ」
「うーん……そうだなぁ」
「ボク、カレーが食べたい!」
玲治の言葉を遮りながら、なぎさが勢いよく挙手する。
「なぎさ。いまは玲治に訊いているのだぞ?」
「むぅ……」
「いや、俺もカレーでいいよ。最近食べてなかったし」
「わーい! カレーだカレーだぁ!」
カレーという言葉を聞いて、すっかり胃がその気になってしまい玲治は同意した。
何だかんだで玲治もなぎさも男の子。カレーライスは好物である。
あきらはゆっくり頷くと、またキッチンの方へと向かって行く。
「あっ、そうだお兄ちゃん。喉乾いてない?」
「ん? なにかくれるのか?」
「うんっ。ちょっと待ってね」
なぎさは立ち上がると、ぱたぱたと足音を立てて冷蔵庫の前まで行き、中身を眺めながら玲治に尋ねる。
「オレンジジュースに、麦茶に、お水に牛乳……それとしゅわしゅわコーラ! どれがいいー?」
「牛乳の銘柄って何だ?」
「『美味なる牛乳』だよ」
「よし。それを頼む」
玲治は小さい頃から牛乳が好きで、毎日一リットルを平気で飲む。特に好きな銘柄が美味なる牛乳だったので即答した。
なぎさは棚からコップを取り出し牛乳を注いでいく。注ぎ終わるともう一つコップを取り出し、自分が飲むためのコーラを注いでいった。
二つのコップを持って、ぱたぱたと玲治の方へ小走りするなぎさ。
「はーいお待たせ~……って、んやぁっ!?」
「ぶるぁっ!?」
なぎさは何もない所で盛大に躓き、持っていた二つのコップは宙に舞った。
宙で混じり合った白と黒の液体はしゅわしゅわと音を立てながら、ソファに腰かけていた玲治にぶちまけられ、色んな所に染みを作った。
コップはカーペットに落ちたことで割れはせず、なぎさは一瞬ほっとした表情を浮かべたが、すぐさま飛び起きる。
服がびしょびしょになった玲治は目を瞑りながらひくひくと眉を動かしていた。
「あわ、あわわ、あわわわわ……!」
「……なぎさぁ」
「ごごご、ごめんなさいお兄ちゃんっ!! な、なんか拭くもの!」
その場でぐるぐる回りながら騒ぐなぎさに、何事かとキッチンの方からあきらがやってくる。
あまりの惨状に言葉を失いかけたあきらだったが、すぐにふきんを持ってきてなぎさと玲治にそれぞれ手渡した。
「なぎさ! 家の中で走ったら駄目だと言っているだろう!」
「うぅ……ごめんなさぁい」
「まったく……怪我が無くてよかったものの、玲治にまで被害があったのだぞ」
「い、いいって姉さん。それより、洗面所貸してもらえないか?」
なぎさが盛大にぶちまけたのは単なる水ではなく、牛乳とコーラが混ざったものだ。臭いはひどいし、べたべたする。
「いや、それよりも服は早く洗わないと臭いと染みが取れないだろう。お風呂は沸かしてあるから、入ってくるといい」
「でも俺、着替えも何も持ってきてないぞ? ズボンと下着は何とか濡れずに済んだけど……」
「だったらボクの服っ……はサイズが合わないよね」
「父上の服が余っているかもしれない。探しておくから、洗濯機の中に上着だけ入れて、身体を洗い流してこい」
「うぅ……ホントにごめんね、お兄ちゃん」
「いいって。んじゃ悪いけど、入らせてもらうよ」
そう言ってあきらに言われた通りに脱衣所へ向かう玲治。
なぎさの不注意とは言えもったいないことをしてしまったと、濡れた服を洗濯機に入れながら玲治は思うのだった。




