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13.桜咲く日常の始まり

 まもなく朝のホームルームが始まろうかという頃に、玲治は自らの教室へと入っていく。

 クラスメイト達がそれに気づくと、例の目つきがすこぶる悪い転校生が来たぞと身体を強張らせ、妙な緊迫感が生まれた。

 玲治も昨日の時点で気づいていたことだが、クラスメイト達は玲治のことをひどく怖がっていた。少しでも触れれば棘が出るとでも思っているのか誰も話しかけたり近づいていこうとしない。

 おかげで玲治の席の周りはいつもクレーターのようにぽかんと穴が開いていた。窓際近くの席の生徒は、こぞって友達の方へと行っているのだ。

 そんな寂しいクレーターの中で席に座る、憂いを帯びたナルシストが一人。


「やぁ玲治。今日も青空に雲の白さがよく映えるね」

「おはようタキツバ」

「ぐっ……!」

「どうしたタキツバ? 胸なんか押さえて、胸を焦がしてるのか?」

「ぐぐぅっ……!」

「ほら、ビィーナス、ビィーナス、タキツバビィーナス」

「ぐぐぁっ……!!」


 昨日散々辱められた仕返しに、多気を詰る玲治。

 多気は見る見るうちに顔を青ざめさせていき、精神攻撃に耐えられずに腰をくの字に折って苦しんでいた。

 タキツバという呼び方でどうしてそこまで苦しむのか。いや人の弱みなど色々あるものだ。

 玲治は悪人のような形相で微笑みながら、自分の席に座る。


「昨日のお返しだ」

「君が受けた屈辱と苦痛はこれほどだったと言うのかい……? くっ。わかったよ、昨日のことは謝るとしよう」

「よし。その言葉に偽りは無いな」

「僕に誓ってね。僕は僕自身を裏切ることはしない主義なのさ」


 どういう主義だ。と呆れながら失笑する玲治。

 するとキンコンカンコンと誰もが耳なじみのチャイムが校舎中に鳴り響き、間もなく教室に担任の香良洲からすが入ってきた。

 生徒たちは揃って席について、朝のホームルームが始まる。


「きりーつ。れーい」


 クラス委員長の女子生徒に続いて、朝の挨拶が行われた。

 高校生になってもこれは恒例だ。小学生に比べればどこか気だるげな声が多いが。


「ちゃくせーき」

「はい。みんなおはよう」


 教壇に立つ香良洲の声はどこか間延びしている印象があり、半分下りた瞼は眠たげに見えた。目つきについては普段から眠たげなのだが、クラスの男子生徒たちはひそひそと小声で話し始める。


「香良洲先生、やっぱエロいよなぁ……!」

「低血圧だから、朝は余計に色っぽくみえるんだなこれが……!」


 香良洲は独り身だがかなりの美人だ。学校内の教師の中でもイチ、ニを争うと男子生徒の間でもっぱらの評判である。

 そんなよこしまな会話を不可抗力で聞いてしまった玲治は少し安堵する。なんだ、香良洲先生に見とれてしまうのは自分だけではなかったのか、と。

 それなら昨日、からかわれたくらいで取り乱さなきゃよかったと遅い後悔を感じていた。


「えーと、朝の連絡事項だけど……最近、近くの高校の生徒とのトラブルが多いみたいだから、みんなも気を付けるのよ」

「うぃーす」

「はぁーい」





 午前中の授業が終わり、玲治は多気と一緒に食堂へ向かっていた。

 二人とも学食を楽しみにしているため足取りは軽い。

 本格派を謳うこの学校の学食は生徒たちから大評判で、ほとんどの生徒が弁当を持参せずに食堂で昼食を取っている。学校案内のパンフレットにも、安い・美味い・めちゃくちゃ美味い、なんて謳い文句が最後のページにでかでかと記されているほどだ。


「昨日はじめて食べたけど本当にここの学食は美味いよな」

「料理長がアメリカと日本のハーフなんだが、その人の『味付け』のおかげさ。料理長が全ての料理に最後のひと手間を加えるから、あの素晴らしい味になるんだ」

「それだけであんな美味くなるなんて……もしかして血統か?」

「察しが良いね玲治。料理長の江戸橋えどばしさんは血統持ちさ」


 他の生徒たちと同じように食堂へ入った二人は、券売機で食券を買ってカウンターへと並ぶ。

 やはり本日も大盛況の様子で、カウンターには長蛇の列、テーブルもほとんど埋まってしまっている。昼休みが始まってすぐだと言うのにこの混み具合だ。改めて学食の人気を玲治は思い知っていた。


「すごく混んでるな……座れないかもしれないぞこれじゃ」

「心配せずともこの席数だ。全部埋まっていたとしても、必ずどこかに空きが出るさ」

「座る人数も多けりゃ、食べ終わる人数も多いってか」

「そういうこと。それにしても玲治、また麻婆豆腐かい? 昨日も食べていたじゃあないか」


 カウンターの上で滑らせていた食券を見て、多気が言う。

 麻婆豆腐定食の辛口。辛い物が好きな玲治は今日も迷うことなくそのボタンを押していた。一方多気が買ったのは日替わり定食。日によってメインが変わる定食だが、多気は毎回必ずついてくる小鉢が好きでいつもそれを頼んでいる。


「ここの麻婆豆腐は今まで食べた中で一番美味い。毎日これでいいくらいだ」

「偏食だねぇ……そんな辛い物ばかり食べているから、目つきが悪くなったんじゃないのかい」

「生まれつきだ。それとこれとは関係ないっての」


 五分ほど並び続けてようやく二人はそれぞれのトレーを受け取った。

 しかし食堂はやはり満席に近く、うろうろと歩いていても一向に席が空く様子が無い。

 はやく食べないと折角の出来たてが冷めてしまう。そんなふうに玲治が麻婆豆腐に視線を落としていると、はつらつな声に呼びかけられた。


「お兄ちゃあん! タッキぃー! こっちこっちー!」

「なぎさ?」


 声の方向を見ると、なぎさが満面の笑みを浮かべながらぶんぶんと手を振っていた。

 そしてその隣には微笑みを浮かべるあきらの姿が。

 四人掛けのテーブルの上には既に食べ終えられた大量の食器が重ねられており、玲治は顔を引きつらせながら呼びかけに応じる。

 美人姉弟と相席しようなどという勇気のある生徒はいないようで、丁度テーブルには二人の分の空席があった。


「助かったよ。飯が冷めたらどうしようかと思ってたとこだ」

「この窓際の席はお姉ちゃんの特等席なんだよ! いつも絶対に空いてるから、明日からも一緒に食べよっ!」

「そうだな。……にしてもあきら姉さん、もうこんだけ食べ終わったのか?」

「ん? ああ、いつも通り美味しくいただいたぞ」


 昼休みが始まってからまだ十五分と経っていない。

 明らかにあきらの前には十人前くらいの食器が重ねられているのだが、一体どういう食べ方をすればこの短時間に平らげることができるのかと玲治は眉を引きつらせた。


「流石、学食泥棒の名にふさわしいねぇ」

「君は……玲治の友達だろうか?」

「おや失敬、僕としたことが挨拶を忘れていました。二年の多気です、玲治とはいつも仲良くさせていただいていますよ」

「そうか。知っているとは思うが、玲治の姉の嬉野あきらだ。よろしく」

「ええ。よろしくお願いします」


 敬語を使っている多気に謎の違和感を覚えながらも、玲治は行儀よく手を合わせてから麻婆豆腐を食べ始めた。

 多気もそれに続き、なぎさも来たばかりらしく手を合わせて目の前のしょうゆラーメンを啜り始めた。あきらはそれを微笑んで眺めながら、紙ナプキンで口を拭っている。


「ずずずぅー……ぷはっ。やっぱり江戸橋さんの作る料理って美味しいねぇ~」

「注文のあった料理全てに手を加えているらしいからな。私も甚だ、あの方には感心する」

「まさに当たり血統だな。天職がそうやって決められるのは羨ましいよ」

「果たしてそうかな玲治? 以前聞いたことがあるが、江戸橋さんはコメディアン、つまりお笑い芸人になりたかったらしい」

「お、お笑い芸人? また変わった夢を持ってんだなぁ……」


 何気ない、他愛ない会話を交えながら食事は進んでいく。

 玲治は表情に出さなかったが、今の状況が嬉しくてたまらない心持ちだった。

 隣には友人がいて、目の前には弟と姉がいる。そんな中で食事できることが、些細な事だが嬉しかった。

 ただでさえ美味しい麻婆豆腐が、より美味しく感じる。


「そう言えば玲治、朝言っていた部活のことだが……気になる部活とはどこの事なんだ?」

「あー……それなぁ」

「きっとタッキーの部活でしょ! 楽しかったもんね、お兄ちゃん!」

「ん? 多気君が所属している部活なのか?」


 あきらに問われた多気は瞳をきらんと輝かせた。

 左手で握っていた箸を置き、前髪を指ではらってフンと鼻を鳴らす。それを隣で見ていた玲治は、いちいちわざとらしい仕種をする奴だと思った。


「僕が部長を務めている部活なんですよあきらさん。昨日、玲治たちに見学させましてね」

「ってか多気、そもそもあれは部活じゃなくて同好会だろ。思いっきり部室の扉に書いてあったし」

「何を言う玲治。部活か同好会かなんて決めるのは部員の自由さ、決して予算だの生徒会の承認だのは必要ないのだよ」


 同好会、という単語を聞いてあきらは頬杖を突くように顎に手を添えた。

 瞳を左上に寄せながらしばらく考え込んで、あきらはハッと気づく。


「この学校には同好会が一つしか無い……多気君の言っているのは、思い出づくり同好会のことか」

「あきら姉さん、知ってたのか?」

「知っているも何も、私は一応生徒会所属だからな。この学校にどんな部活があって、どれだけ予算を割けるかという話は自然と耳に入ってくる」

「そういうことか……まぁそんなわけで、気になってるってのはその思い出づくり同好会なんだよ」

「フリーティングメモリーだ」

「なんかそれ、気取ってて嫌なんだよ」


 僕の美的センスがわからないとは……と多気は呆れ顔で眉を弄りはじめる。

 そんな歪なセンスわかってたまるか、と玲治は目つきを鋭くした。

 二人を眺めながらラーメンを啜るなぎさに、あきらが問いかける。


「なぎさも思い出づくり同好会に入るつもりなのか?」

「うん。そのつもりだよ」

「中学ではずっと柔道部だったじゃないか。そっちはもういいのか?」

「柔道も好きだけど……それでもね。ボク、お兄ちゃんと一緒がいいんだぁ」


 目を閉じてこれ以上ないくらいに純粋な笑顔を浮かべたなぎさ。

 少し赤く染まった頬は、なぎさの笑顔に意味を与えている。なぎさは本当に、お兄ちゃんのことが、玲治のことが大好きなのだという意味を。

 その可愛らしい笑顔を見たあきらはそっと温かく微笑んだ。なぎさの気持ちを聞いて、あきらの中でも一つの決心がついたのだ。


「……そうか」

「うん!」

「多気君、思い出づくり同好会の顧問は誰だ?」

「僕たちの担任の、香良洲からす冴子さえこ先生ですよ」

「香良洲先生だな。わかった」


 納得したように頷いたあきらは、なぎさと顔を見合わせて笑いあう。

 言葉も交わさずに一体なにが面白いのかと、玲治は首を傾げた。


「姉さん?」

「ふふ、玲治。私もなぎさも、思い出づくり同好会に入部することに決めたよ」

「……え、ええぇぇぇぇぇっ!?」


 食堂中に響き渡る玲治の声。

 開いた口が塞がらないまま、玲治は手に持っていたレンゲをトレーの上に落とす。


 こうして思い出づくり同好会は賑やかになっていく。

 きょうだい二人と友達一人。玲治はそんな中で、学園生活の思い出をいくつ作ることができるだろうか。

 そして作った思い出は、心に残り続けるものとなるだろうか。

 桜の花が散り始める頃。玲治の新たな学園生活が本格的に始まろうとしていた。

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