11.空繰の少女
「忘れ物はないか玲治? 時間割通りの教科書とノートは持ったか? 体育があるならジャージも忘れてはだめだぞ?」
「そんなに心配しなくてもちゃんと持ったって……あと、今日は体育ないし」
部屋の鍵をしっかりと閉め、ドアノブを回して引いてみる。
ガチガチ、と開かないことを確認して玲治は鍵をポケットにしまい込んだ。
玲治の部屋はマンションの二階、その角部屋である。学生鞄を片手に提げた二人は階段を下り、マンションを出た。
「そういや、なぎさは何で来なかったんだ?」
ふと玲治はそう思った。
昨日の放課後も、玲治の家に行くのを楽しみにしている口ぶりであったし、あきらが来るのであればそれに喜んで着いてきそうなものだが、何かわけでもあったのだろうか。
「なぎさはいつも、友達が迎えに来てくれるのだ。私が家を出るときに、ずるいとか抜け駆けとか言われたが、友達との約束を破らせるわけにはいかなかったからな」
「へぇー。っても、なぎさは入学したばっかりだろ? もうそんなに仲いい友達がいるのか」
「なぎさはどんな人とでもすぐに友達になってしまうからな。小学校でも、中学校でも、クラスの人気者だった」
あきらと肩を並べて歩きながら玲治は道端の小石をつま先で蹴飛ばす。
自分は小学校でも中学校でも、決してクラスの人気者とはいかなかったことを思い出していた。
生まれついての目つきの悪さでとっつかれにくく、むしろ怖がられてばかり。友達だって上澄みというか、心から仲良くしてくれた者などいなかった。
なぎさはあの可愛らしい顔立ちに無邪気で不敵な性格だ。そりゃあ人当たりもいいし友達だって向こう側から勝手にやってくるのだろう。
「いいよなぁ。なぎさは男の癖に可愛いし、生まれ持ってのアドバンテージってやつか」
「玲治は……いじめられたりしていなかったか? 今まで、辛い思いをしてきていないか?」
玲治の顔を横から覗き込みながらあきらが問いかける。
その表情は心から玲治を心配しているもので、眉は八の字に垂れさがり瞳は哀れむように濡れていた。
「いーや。因縁つけられたりもあったけど……どっちかって言うと逆だよ。いじめられる所かだーれも近づいてきやしねぇ。みんなこの目つきに怯えるみたいにさ」
「……そうなのか。私は玲治の目つき、カッコいいと思うけどな」
「か、カッコいいってっ……」
ふわりと微笑むあきらに、思わず玲治は顔を背けてしまう。
誰かにカッコいいなんて言われたことは初めてだった。それに、目つきの悪さを褒められたことも。
玲治がそうやって恥ずかしがる様子を見て、あきらはより一層口角を上げるのだった。
「力強い目というのは、それだけで真っ直ぐな印象がある」
「俺なんかより、むしろ姉さんの方がかっこいいじゃないか」
「私がか? むぅ、確かに女子生徒から言い寄られることは多いが……」
「そういう点で、姉さんも羨ましいよホント」
ため息を一つ吐きながら空を仰ぐ玲治。
広い青空を見ながら、恐らく雲の向こうにいるであろう神様的な何かを睨みつける。
神様よ、どうして俺はこんな目つきで生まれてこなきゃならんかったのだ。そんなふうに心の中で悪態をつく。
するとそのとき、玲治の頭上が突然暗く染まった。
「ん!?」
先ほどまで晴れやかな青色が広がっていたのに、一瞬にしてそれが消えた。
代わりに玲治の目に飛び込んできたのは、すらりと長く伸びる二本の『何か』と、その何かの付け根を覆う、水色と白色の縞模様の布。
一体それが何なのか玲治にはわからなかったが、ここで少し客観的に状況を説明しよう。
空を仰いでいた玲治の頭上を、飛び越えた少女がいたのだ。
大きく脚を開いた少女のスカートの中身を玲治は真下から目撃していたことになる。
少女は玲治を飛び越えてアスファルトに着地すると、ひるがえったスカートの裾を両手で押さえつつ玲治たちの方を振り返った。
玲治はさっき見たモノが何なのかをようやく理解した。目の前の少女が自分の頭上を飛び越えたのなら、さっき見たのは間違いなく、パンツだったのだと。
とはいえ見えたのは一瞬。もっとちゃんと見ておけばよかった、なんてちょっとだけ思って、そしてすぐにその邪念を振り払った。
「――あれェ、あきらやんか?」
玲治の頭上を飛び越えた亜麻色の髪の少女は、玲治には目もくれずにあきらの名を呼ぶ。
その少女を真正面から見たとき、玲治は圧倒されるように驚いていた。
玲治が一体何に驚いたのか。
その少女は身長もあきらと同じくらい。すらりと伸びた手足に慎ましい胸、制服の隙間からのぞく細いウエストと、スタイルは良い方だ。しかし顔立ちは絶世の美女というほどでもない。並よりは間違いなく高いが、あきらやなぎさを見た時のような衝撃は無い。
玲治はそれらに驚いたわけではない。
少女が与えるインパクトとは、目にあった。
「一身。おはよう」
「なんでこっちから来とん? あきらン家、逆方向やろ?」
亜麻色の髪の少女。彼女の名は寺内一身という。
彼女の目はとても大きく、わざとらしいくらいにくっきりとした二重だ。そして髪と同じ色をした黒目は大きいが四方を白目に覆われ、少しばかり異常さを感じさせる。
どこを見ているのか、何を考えているのか瞳から感じられない。
まさか目つきのことで自分が驚く日が来るとは。と、玲治は寺内の目つきが自分よりも独特なことに驚いていたのだ。
「弟の家に寄っていたものでな」
「あぁっ。じゃあその子が昨日言うてた、もう一人の弟さんか!」
寺内は大きな目をさらに広げて玲治の方を見た。
玲治自身も言えたことではないが、正直その目に見つめられると後退りたくなる。
「玲治。彼女は私の十年来の知己、寺内一身だ」
「あ、ああ……初めまして、嬉野玲治、っす……」
「なにィ、えらい目つきしとんなぁキミ! ほんまにあきらの弟か?」
「目はたしかに似ていないが……鼻の辺りとか、似ているだろ?」
あきらは自らの形の良い鼻を指差してそう言った。
なぎさも同じようなことを言っていたが、やはり玲治はよくわからない。
寺内は玲治に近づいていき、鼻息がかかるくらいの距離まで顔を寄せた。
「ちょっ……!」
「う~ん。そう言われると、なんとなァく似とるような気もするけど」
大きくそして謎の威圧感がある瞳にじっと見つめられ、玲治の身体は石のように固まってしまう。
口元を一直線に結び息を止める玲治。何かを口にしたくとも寺内の顔が近すぎて息を抜くことも出来ない。
すると寺内は、パッと身を引き、破顔してけらけらと笑った。
「えははははっ! わるいわるい、なんか緊張させてしもたみたいやな」
「い、いや……別に。寺内先輩は何ていうか、変わってるっすね」
「よう言われるわァそれ。あたしってそんなに変わっとるんかな、あきら?」
「人との距離感の詰め方が、普通よりかは変わっていると思うぞ。私と初めて会った時もそうだったしな」
「おっかしいなァ、変なつもりは無いんやけどな」
そう言って耳の後ろを指でなぞる寺内。
元来人づきあいが好きな彼女は、初対面の人であっても親しい友人のように接する癖がついていた。笑い上戸で冗談を好み、そんな彼女の性格からか、そうやって距離を詰められても嫌な気分を抱くものは少なかった。
もちろん、面食らっていた玲治もそうだ。
「ところで一身。さっき跳んでいたが……何か急いでいたのか?」
「急ぎ……あ」
「……?」
「あああァーーーーーーッ!? 忘れとった!!」
その大声は周囲に響き、あきらも玲治も思わず目を見開いた。
手をわなわなと震えさせながら寺内は顔色を青ざめさせていく。
「はよぉ学校行かな、センセにどやされてまう……! い、嫌や。もう試験管であんな事されるんは嫌やァ……!」
「か、一身? 大丈夫か?」
「すまん! あたし急がなあかんねん! ほんじゃ!」
くるりと背を向けて寺内は地面を大きく蹴った。
身体を宙に浮かせるとそのまま両足で交互に『空』を踏みながら、見る見るうちに高く遠く去っていく。
「……寺内先輩も、血統持ちなんだなぁ」
「ああ。一身の家は『空繰』と言ってな、一身はああやって空を蹴ることが出来る」
玲治もあきらも、寺内が空を『跳んで』いることに何も驚かない。
何故なら、彼らの日常ではああいったモノが珍しくないからだ。
驚いただろうか? 人が空を跳ぶことがそんなに信じられないだろうか?
それならば誰にでもわかるように説明をしよう。丁度、玲治たちも自らの血統について話そうとしているようだ。
訝しがることは無い。あくまで彼らの日常において、何でもない普通の話なのだから。




