10.姉の手料理と両親の話
玲治はあぐらをかきながらひっきりなしに膝を揺らしていた。
目の前の年季が入ったテーブルの脚がかたかたと音を立てるほどに、ただひたすらにそわそわと。
玲治が何故ここまで落ち着きが無いのか、その答えは扉の先から聞こえてくる鼻歌まじりの料理音にあった。
まな板に包丁を下ろす音や、コンロの火を点ける音、フライパンの上で何かが熱される音。
それらの音を発しているのは他でもない、姉のあきらだ。
でたらめに音程を取っているにも関わらず聞き心地の良い鼻歌を歌いながら、あきらは玲治のために手料理を作ってくれている。玲治はそれが嬉しくて、しかしどぎまぎしてしまっていた。
今まで朝食なんてものは自分で作って食べるのが当たり前だった。誰かに手料理を振る舞われたことなんて一度も無い。小学生の頃からずっとそうだった。
「ん~、ふ~……♪」
そんな玲治の中の常識が覆されようとしている。機嫌よく鼻歌を歌うとても美人な姉の手によって。
いままさに玲治は、姉というものを実感し始めていた。弟である自分に優しく接してくれて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて。安心感というものがぼんやりと身体を包んでいるような感覚すら覚える。
お姉ちゃんという存在はこういうものなのだろうか。何でも受け入れてくれるような、そして自分を守ってくれるような。温もりを与えてくれるのではなく、むしろ温もりそのもののような。
玲治は料理が出来上がるまでずっとそんなことを考えていた。
あきらが姉として振る舞ってくれるのが嬉しい反面、今までそんな経験が無いのが災いして落ち着かなかったのだ。
そうして朝にしては長く感じる時間を過ごしていると、扉の先から聞こえてきていた料理の音や鼻歌が止む。
「待たせたな玲治、食材もあまり無かったから簡単なものだが……」
「いや、作ってくれるだけで嬉しいって」
あきらが持ってきた食器にはどれも見事に美味しそうな料理が乗っていた。
半熟の目玉焼きに、カリカリに焼かれたベーコン。タマネギとわかめの味噌汁に、今朝炊けたばかりの白米。
玲治が毎朝食べている献立とそう変わりないというのに、何故だかいつもより美味しそうに見えて仕方が無かった。
「玲治、朝ごはんはいつも自分で作っているのか?」
「ああ。ほとんどメニューは一緒。味噌汁の具がたまに変わったりだよ」
「もう少し野菜も食べないとだめだぞ、栄養も考えてな」
そう言うあきらだが、その表情は優し気だった。叱っている雰囲気ではなく、なんだか甘やかすような。そんなちょっとした一言でも温かい気持ちになれた。
真正面に座ったあきらの方へ手を合わせ、玲治は味噌汁を一口すする。
「……ん!」
美味い。いやいや、ただひたすらに美味い。舌に染みこむような絶妙な味噌の味。
思わず玲治は二口、三口と続けて飲んだ。飲めば飲むほど深みが出てくる味に、口元をほころばせ思わず目を丸くしてしまう。
続けて具材のタマネギを箸で掴み口に運ぶ。
シャッキシャキだ。なのにちゃんと味が染みている。どうやったら作りたての味噌汁の具にこれほど味が染みるのかと疑問に思うほどに。
「どうだ玲治。……口に合うだろうか?」
「め、めちゃくちゃ美味いよ! 俺のと全然違う」
「そうか……よかった。美味しいと言ってくれて私も嬉しいよ」
あきらは目を細め、頬を染めながら指先を合わせる。どうやら弟に料理の腕を褒められたのが嬉しくてたまらないらしい。
玲治はがっつくように他の料理にも手を付けていく。目玉焼きは胡椒がたっぷりかけられていて好みの味だったし、黄身を割ればとろりと溢れる半熟具合も最高だ。ベーコンは焦げている部分がまた美味い。
味わう時間も惜しいくらいの美味しさに、玲治の小さな黒目は輝いていた。
そんな様子を温かい目で見つめながら、あきらが小さく呟くように言う。
「……今まで、何も姉らしいことをしてやれなかったな」
「んぐ……。そりゃ、仕方ないって。離れ離れでずっと暮らしてたんだから」
「ああ……玲治は、私やなぎさのことを全く知らなかったのだったな?」
「きょうだいが居るなんて考えたことも無かったよ」
箸を休めることなく玲治は話を続ける。
「姉さんたちは知ってたのか? 俺が離れたところで暮らしてるって」
「小さい頃に、父上から聞いたことがあった。……だが、もう家族ではないから気にするなとも言われた」
「……そうか」
どうやら思っていたよりも自分は煙たがられているらしいと玲治は自覚した。
自分を捨てた理由が何なのかは、恐らくあきら達も知らない事だろう。本人に訊くまではわからないが、そんなふうに言う父親とまともに話せるとも思えなかった。
目つきが険しくなる玲治を見て、あきらは取り繕うように続ける。
「それでも私やなぎさは、ずっとお前のことを想っていたよ。きょうだいは親子と違って、もっと近く心を通わせられる存在だ。今までずっと会いたいと思っていた」
あきらの言葉に嘘は一つも紛れていないようだった。
言葉通りに、ずっと玲治のことを考えてくれていたのだ。
それを認めて玲治の目つきが少しだけ和らぐ。
「でもきっと、父さんがそれを許さなかったんだろ?」
「ああ……それに、手がかりが何一つ無かったからな。探したくても、どうしようもなかった」
「親父のこと……玄正のことも知らなかったのか? 姉さんたちにとっても叔父にあたる人なんだけど」
「全くだ。そもそも父上にきょうだいが居るなんて聞いたことが無かったからな」
「相当変わり者みたいだな、俺の本当の父さんは……。その調子じゃ、そっちの家に顔出すのも難しそうだ」
「あぁ、それなら大丈夫だよ」
正座で座っていたあきらは脚を崩して座りなおした。
やはりフローリングに直で正座は少し堪えたらしい。
「大丈夫って、どうしてだよ?」
「父上と母上は仕事で東京の方にいるんだ。家はいま、私となぎさの二人暮らしだよ」
「あーそういうこと……母さんは、俺の事なにか言ってたか?」
「あまり玲治については話したがらなくてな。いつも話を逸らされていた」
「まぁ話したがらないのも当然か……ごちそうさま」
玲治は話しているあいだにも箸を進めており、短時間で綺麗に平らげた。
あきらは食器を重ねてキッチンの方へと持っていこうとする。
「お粗末様でした。……洗い物をしておくから、その間に着替えておけ玲治」
「ん、あぁ。ありがと、姉さん」
そうして玲治は、またキッチンから聞こえてくる鼻歌に耳を傾けながら、いそいそと登校のために制服に着替え始めるのだった。




