The origin
何てことのない夜だった。
畑仕事を終えた家族が団欒の時をすごし、いつも通りの日没が月を迎えたそんな夜。
だが、静寂に包まれた淡い光で霞む暗闇は生命の気配すらもどこかへと連れ去ってしまう、そんな夜だった。
そんな世界にただ一人、膝をつく男だけが自分というものを認識できていた。
「……ああ」
なんて暗い夜なのだろうと。暗月にはまだ遠い筈なのに男の眼に映る景色は嫌に暗く感じられた。
月明かりに照らし出された一帯は淡く輝き、しかしその先は一分の隙も無い漆黒の闇が只々永遠と広がっているだけだった。
「……ああ」
照らし出されるそれらは大いなる力の前に這わざるを得ない不条理そのものだった。
笑顔で草原を駆けていた癖っ毛の少年。
腰が痛いと愚痴を吐きつつ耕作に精を出す老人。
それらを見守り竃に火を入れる女性。
誰一人残りはしなかった。
収穫前の麦穂は散り散りになり、人の営みの結晶はその全てが無に帰した。
微かに残った残滓だけがそこに生きていた人の存在を証明していた。
唐突に降り出す雨と風に洗い流されるようにゆっくりと、だが確実にきえていく。まるでそれらの出来事がなかったかのように、『神』の意志であるかのようにただ圧倒的に消滅していく。
「……ああ」
男は三度嘆く。
最早今の男には嘆き悲しむことしかできなかった。
これ程の理不尽に、これ程の災害に対し矮小な一人の人間ごときにいったい何ができるのかと。
魔術師でありながら神秘に触れたことのない人間と同じような、優しすぎるこの男には後悔するにはあまりにも遅く、希望を見出だすにはあまりにも早すぎた。
辺り一帯は不自然に造られた、それでいて精緻な魔素の流れに満たされていた。
「私の、所為なのか」
何てことない、世界に蔓延る謂れなき悲しみをなくしたい。男の願いはただそれだけだった。
事実計画は、研究は順調に進んでいた。そう、全てが上手くいくはずだった。しかしあと一歩が足りなかった。
そんな細やかな願いさえ叶えることが許されないと言うのか。もし何人にも想像し得ない本物の『神』が存在すると言うならば、なんて心の狭い神だろうか。なんて残忍な神だろうか。
目の前の光景を生み出したくなくて、それに終始した男の中には既に救いをもたらす神など存在してはいなかった。
神という名の災厄に囚われた男の思考は次第に憎しみへと移ろっていった。
男は見つけることの叶わない怒りの根源を悲愴の果てに生み出した。
呆然と座り続けた男の身体を雨が打ち付け始めて一体どれ程の時が経っただろうか。
目の前に自らの影が映し出される。
あれほど暗黒の靄でおおわれた世界は男の心象など御構い無しに果ての境界から昇る陽光に掻き消され始めていた。
「いいだろう、神が拒むと云うのならば―――」
血にまみれた手をきつく握り不可視の災厄に宣言する。
―――心に不倒不沈の命火を灯そう。
―――たとえ肉体が朽ち果てようとも。
―――全ての無根の災いを打ち払おう。
―――遥かな概念を地へ堕とそう。
―――悠久の安寧を築こう。
既に願いの成就はすぐそこまで来ていた。
涙は枯れ果て涙痕だけが伝っている。
僅かでも立ち止まっている暇など最早なかった。
失うものは全て失い、だがもう全て、何もかもを失うことは出来ないと。
男の、いや男達の全てをもってこの『神』を貶めようと、その名を地の底へと沈み込ませて見せようと視線は神が座すと言われる遥か上空へ。
私達には不可能はないと言わんばかりに。
お前は神足り得る資格を持たないと。
私達こそが真なる意味での神なのだと。
「―――待っていろ、傲岸不遜な神よ。己が永劫の彼方へと消え行くその日を楽しみにしているといい」
その目に映っていた土砂降りの情景は燃えるような陽光へと変わり、揺らめきの一つすら許されはしなかった。




