水蓮宮
翌日、夕明は朝食の毒見を終えた後、成蓮を水蓮宮へと誘った。彼は何か言いたげな様子だったが、蒼信が無理に茶菓子の入った袋を持たせると、渋々頷いて同行してくれた。
「……水蓮宮、か」
「初めてですよね? ……まぁ、そう頻繁に人が来る場所ではありませんが」
夕明は小舟に成蓮を乗せて、自ら櫂を操り、小舟を動かしていく。
「夕明殿は一人でそこで生活していると聞いたが、不便などはないのか?」
まだ花を付けていない蓮の葉を流すように見ながら、成蓮は静かに呟く。
「特にはないです。あ、でも雨の日とかはちょっと大変ですね。この池の水量が増えて、水面が上がるので、池から溢れた水が畑へと流れる時があるんですよ。その時は、池の水を少し、抜く作業をすればいいんですけど」
「……それを一人で?」
「はい。私以外に水蓮宮に住んでいる人はいないですから」
「……なぜ、そこまでして」
だが、成蓮はそこで黙り込んだ。
「……私の家はここだけなんです」
静かに、櫂で水面を漕ぐ音を立てないまま、滑らかに小舟は進む。
「他に行く当てなんてないですし、ここはずっと私の家族が守ってきた場所ですから」
ふわりと爽やかな風が二人の間を抜けていき、涼しさを感じる。まだ、暑くはないが日中になると、日陰にいたくなる時期だ。
「それに悪いことばかりではないですよ。毒見役ではない時は、普通の薬師のようなことをしていますから、蒼信さんや友達とか、宮殿で働いている人達が訪ねてきてくれますし」
夕明が笑って答えると、成蓮はどこか安堵したように強張っていた肩をおろした。
「……そうか」
「まぁ、小さい家なので、殿下には狭く感じるかもしれませんが、そこはお許しくださいませ」
「そんな事は……。わっ……」
水蓮宮が建っている陸の岸に設置されている桟橋へと小舟が軽く直撃したため、目の前に座っている成蓮の上半身が少し前かがみに揺れ動いた。
「殿下っ!」
素早く反応した夕明がその身体を咄嗟に受け止めるも、成蓮の身体が思っていたよりも華奢だったことに驚いてしまう。恐らく、最近はまともに食事をしていなかったことで、痩せてしまったのかもしれない。
だが、それよりも驚いているのは成蓮の方だった。ぴたり、と密着してしまったお互いの身体に対して、どう反応すればいいのか分からず、固まっているようだ。
「……あっ、すみません! つい……」
前かがみに倒れそうだった成蓮の身体から、夕明は急いで離れる。
「申し訳ありませんっ。私のような者が勝手に触れてしまって……。小舟が揺れることを先にお伝えしておくのを忘れていました」
「い、いや……。こちらこそ、煩わせてしまって申し訳ない」
夕明は先に桟橋へと飛び移るように上がり、成蓮へと手を伸ばす。
「二度の無礼をお許し下さい。……小舟が揺れて危険なので宜しければ、お手をどうぞ」
「……こういう事は普通、男がやるものではないだろうか」
そう言いつつも成蓮は手を取り、桟橋へと足を掛ける。そして、無事に着地すると安心したのか、気が抜けたような溜息を吐いた。
生まれてずっと、宮殿の中で過ごしているならば、舟に乗る機会は無いのだろう。
「……この池は蓮池だったんだな」
「ご存じありませんでしたか。……まぁ、ここってかなり宮殿から離れた場所にありますからね。どちらかと言えば、馬場や弓場の方に近いですから」
「だがその分、人気がなくて静かで良いな」
成蓮は目を細めて、宮殿の方へと身体を向けていた。彼も喧騒を嫌うのだろうか。細められている瞳は何を思っているのか分からない。
「では、こちらへどうぞ」
左右が垣根によって壁になっている小道を進み、水蓮宮へと案内する。
池の中にある邸宅は自分一人が暮らす分には大きく、土地もそれなりに広かったため、邸宅の隣には色々な種類のものが同時に育てられるようにと薬草と野菜の畑を広く作っていた。
「これが……水蓮宮」
「はい。二階建ての邸宅になっています。……といっても、貴重なものはないんです。生活に必要なものばかりで……」
自分は宮殿の外に行ったことはないので、普通の邸宅がどのようなものかは分からないが、質素を好んだ曾祖父によって作られたため、世間の邸宅とはそう変わりはないはずだ。
それでも、成蓮にとっては珍しいのか、邸宅と畑の方を交互に見やってはどこかそわそわした様子で首を伸ばしている。
「……家の中を覗いても?」
「え? あ、はい。どうぞ」
成蓮は自らの手でそっと戸を開き、中へと足を踏み入れる。
最初に鼻先を掠めていったのは薬草の匂いだ。入って左には竈があり、目の前には作業台。
そして、勝手口以外の壁沿いには棚が並んでおり、そこには採集した薬草を入れておく木箱や作り置きの薬などが入った壺が置かれている。
「ここは調理場みたいなものです。採集した薬草で薬を作ったりしています。だから、私的な部屋は二階だけと言った方がいいかもしれないですね」
席へどうぞと勧めて、夕明はお茶の支度を始める。先程、蒼信から貰ったお茶菓子に合いそうなお茶を淹れようとしていると、後ろから声をかけられた。
「あの、良ければ家の中のものを見せてもらってもいいだろうか。触れないようにはするから」
「はい、大丈夫ですよ。薬草などでなければ、お好きに手にとって下さって構いませんから」
そう答えると成蓮は早速、立ち上がり、家の中を歩き始める。
自分はたまに教坊の友人の部屋へと遊びにいくことがあるが、彼は親王という立場柄、あまり人の部屋や家に訪ねることは少ないのかもしれない。
「凄い……。この書物、書庫でも見たことがない……」
「書物を読むのがお好きだと聞きました。宜しければ読んでくださいませ」
「ありがとう。……あ、これも読んだことないな……」
書物を手にとっては目を輝かせながら表紙を捲っていく。余程、書物が好きらしい。
茶葉を煮出す時間を頭の中で数えながら、碗へと淹れて、茶菓子を皿へと用意する。
「お茶の準備が整いました」
「……あ、そうだった。すまない、つい夢中になっていて……」
成蓮はふっと気付いたように書物から顔を上げて、椅子へと座る。
「読みたいものがあれば、お貸し致しますよ」
「良いのか?」
「はい」
にこりと笑って、お茶を出す。
「あ、もちろん、毒なんて入っていないですから。昨日知り合ったばかりの人間が言うことではありませんが……」
「いや、夕明殿のことはいつも蒼信から仕事熱心で誠実な人だと聞いているよ。私はその言葉を信用している。君がそのようなことをする人ではないと」
彼も冗談交じりに苦笑で返してきた。昨日から成蓮の毒見役を任されているが、彼が自分の前で笑ったのは初めてだ。年相応の柔らかい表情に思わず夕明も笑みがつられてしまう。
「……美味しい」
「茉莉花茶です。といっても、公主様達が飲まれているような高級なものじゃなくて、手作りなんですけど」
「作っているのか」
「はい。お茶も薬の一つですから」
水蓮宮では薬と一緒に何十種類の茶葉を作って保存している。
だが、暑くなる時期は茶葉や薬の質が悪くならないように、床下に大きく穴を掘った場所に木箱を置いてそこに袋詰めしたものを保存するようにしていた。
そろそろ暑い時期になるため、保存の準備をした方がいいだろう。
「……夕明殿は凄いな。何でも出来てしまう」
お茶が淹れられた碗を少し傾けながら、成蓮はどこか遠くの方へと目をやる。
「……そんなことないです。私にも出来ないことはたくさんありますから」
鳥のさえずりと、木々が風で揺れる音だけがその場を満たす。自分以外の人間が同じ場所にいるのに、この静けさを心地よく感じてしまうのは何とも不思議な気分だ。