賭けるもの
……どれくらい、時間が経ったのかな。
この広間には窓がないため、外からの光が見えない。時間は分からないが酒の匂いと、女の化粧の匂い、様々な料理の匂いが混じって、奇妙な空気を作っていた。あまり、呼吸をしたくはない。
出されている料理には自分も成蓮も一切手を付けなかった。毒見をすればいいなどと、そういうことではない。お互いに言わなくても、食べたくないと分かっていた。
後ろでずっと立ちっぱなしの蒼信達は疲れていないだろうか。確認したいが、振り返られずにいた。
隣に座っている成蓮の気配は最初からずっと変わらない。彼も気を張って疲れているはずだ。
「……」
溜息さえも漏らすことが出来ない緊張感がいまだに続いている。いつになれば、この宴は終わるのか。そして、理桂の謀とは何だろうか。どれほどの時間、自分達はこの場所にいればいいのか。
そんな事を再び考えている時だった。
「ねぇ、お兄様。あたくし、あの毒見役が毒の入っているものを食べて、本当に平気なのかどうか、見てみたいですわ」
甘ったるい声が、わざとらしくその場に響く。誰かは見なくても分かっていた。周りに座っている者達は声を抑えて、柳邦の妹姫の声がよく通るように一瞬で沈黙していた。
「何だ、香蘭。そんなに斉夕明のことを楽しみにしていたのか」
「だって、気になるでしょう? 毒を食べても死なないなんて、化け物みたいですもの」
「わたくしも気になりますわ、お兄様」
もう一人の妹も賛同の声を上げる。人を化け物呼ばわりしているというのに、彼女達の母親は眉一つ動かさずにいた。むしろ、愉快そうな表情で口の端を上げている。
「そういうわけだ。斉夕明、舞台に上がってくれ」
こちらの承諾を聞く前に、もはや、決定事項を伝える如く柳邦は毒見をするようにと促してくる。
「……私の毒見は見せ物のためにあるのではありませんが」
夕明は視線だけ動かし、冷めた声で答える。
その反論に柳邦の後ろの方で控えている貴族達から引き攣った声が聞こえた。視界の端に映った張妃の白粉で固められた顔が小さく歪んだのが見えた。
誰がご機嫌取りなんてするものかと大きい声で叫んでやりたかった。
「……では、こうしよう。ただ、毒見をするだけではこちらも、お前もつまらないだろう。どうせなら、賭けをしないか」
「……賭け?」
奇妙な程に柳邦の表情が歪に笑っているように見える。何か、良くないことを考えているような気さえしてきた。
「ここに三つ料理の皿がある。その中で、毒が入っているものを当てればいい」
柳邦が手を叩くと舞台上に長い机と椅子、そして、三種類の料理が盛られた皿が並べられる。
「お前が見事に当てられたら――。そうだな、俺が貰った帝位をそこにいる愚弟か愚兄にやってもいいぞ」
その言葉に驚いていたのは本人以外の周りの者達だった。
「まぁ、何を言っているの、柳邦……!」
「そうですぞ、殿下。せっかく、帝位が決まったというのにそのような……」
「お兄様、戯れごとを言うのはよして下さいな」
周りからの言葉を治めるように柳邦は手をあげる。
「なに、それくらい当たり前だ。毒を食べることは死に値する。つまりは、命を懸けるということだ。それならば、俺もそれ相応の覚悟で挑まなければならないだろう?」
そう言ってはいるものの、顔はいやらしい笑みを浮かべているため、全く中身がない言葉に聞こえた。
「それで……私は何を賭けるんです?」
溜息交じりに返事を返す。何となく嫌な予感はしていた。
「お前だ、斉夕明」
はっきりとした声が背筋を冷たくさせた。隣の成蓮が息を呑み込んだ音が微かに聞こえる。
「どうだ、命の賭け合いに相応しいだろう」
「まぁ、お兄様ったら、あんな子が好みなの?」
「正直言って、みすぼらしい……。趣味が悪くないかしら?」
「何を言う。お前達の義姉になるのかもしれないのだぞ」
大声で汚らしく笑う柳邦を思いっきり殴り倒したい気持ちでいっぱいだった。彼の言葉は自分を傷付けるために言ったのではない。隣に座っている成蓮を傷付けるためにわざと言ったのだ。
自分を妃にする気なのか、その口ぶりからして成蓮への嫌がらせには間違いないだろう。
いつの間にか、右手が掴まれていた。熱く、痛いと思えるほど強く握られた手の持ち主は、今まで以上に見ていて悲しくなってしまうような顔をしていた。
瞳が、表情が、空気が、成蓮の全てを以てして、自分に伝えようとしているのは分かっていた。
──行くな。
訴えかけてくる成蓮の瞳が、大きく揺れている。
……殿下。私はあなたを守るために、ここにいるのです。
例え、不利な状況に陥っていたとしても、逃げるわけにはいかない。柳邦の賭け事に、拒否権はないのだろう。
拒否した場合、どうなるのか。今の自分には一つしか想像出来ない。そう、成蓮の命が危うくなると、それだけは分かっていた。
夕明は成蓮だけに聞こえるように声量を抑えて、小さく笑って見せた。
「殿下、私の心はあなたに預けておきます。……心までは賭けませんから」
目を見開く成蓮の手を夕明はそっと押しのけるように、外した。熱がそこに残る。
大丈夫だ。自分の心までは成蓮以外に捧げたりしない。
ゆっくりと挑むように柳邦を見据えながら立ち上がり、舞台上へと上がった。
「……では、もう一度確認します。私がこの中から毒が入っている料理を当てることが出来れば、柳邦殿下が頂いたと言っている帝位を成蓮殿下、もしくは理桂殿下へとお譲り頂けるということで、宜しいですね」
「あぁ。お前が当てられなければ、お前は俺の妃だ。死ぬまで可愛がってやるさ」
吐き気がする言葉も、自分に向けられる視線も全てを無視して、夕明は息を深く吐いた。思っているよりも落ち着いているのはきっと、右手に残る熱のおかげだろう。
懐から長い包みを出して、そこから銀色の箸を取り、右手に持つ。
「では、始めさせていただきます」
先程まで、賑わっていた広間は驚くほどに静まり返っていた。誰もが自分の方を見ている。顔を上げれば、成蓮と目が合うかもしれないが、今は目の前の料理に集中したかった。
右側の料理から手を付け始める。見た目は野菜と豚肉を炒めているものだ。小皿に取り分けて一口食べてみる。辛く味付けされており、野菜の甘味が微かに舌から感じ取れる。
「……」
色んな野菜を満遍なく口へと運ぶ。今まで成蓮に送られてきた毒は野菜と似ている毒草ばかりだったため、この中のどこかに毒草が入っている可能性があると思ったからだ。
だが、毒特有の苦みを感じることは出来ない。使われている調味料にも混じっている気配はしない。これには入っていないのだろう。
夕明は懐紙で口元と箸を拭き、次の料理に手を伸ばす。夕明が食べている間、その場にいる者達は誰一人として声を上げなかった。
見守っているわけではない。ただ、好奇心の瞳を向けているだけだ。
そんなことも気にせずに夕明は小皿に二皿目の料理を盛る。団子のように丸められて、油で揚げられているものを箸で半分に割る。
中身は細かく刻まれた肉と、野菜を混ぜて練ったもののようだ。匂いも特にはしない。味は普通に食べられる美味しさだ。このような場でなければ、好みの味だとさえ思える。
だが、これにも毒は入っていない。
最後の料理は点心だった。しかも三種類あり、それぞれ紅色、黄色、緑色の色が付けられている。これは全部食べて確認するしかないだろう。
三つの点心を半分ずつに手で千切り、口へと放り込んだ。
「……」
その時点で、気付いてしまった。これは毒が入っていると。にんにくで匂いと味を隠しているように作られているが、この中には以前食べた毒と同じものが入っている。おそらく、水仙の葉だ。
夕明は口に含めたまま、前方に座る柳邦を見る。
「どうした。続けろ」
彼も分かっているのだ。これに毒が入っていると。夕明は口に含めたままのものを飲み込んだ。毒を身体へと含めた瞬間、視界の端の成蓮の身体が震えたように見えた気がした。