不動の瞳
宴当日、夕明は光明節の時と同じように、小雪殿の侍女から服を着付けてもらい、髪も結ってもらった。
今日は、いつもよりも腰に締めている帯がきつい気がするのは気のせいのはずだ。そう思えるほど、緊張していた。
いつもは穏やかで静かな雰囲気で包まれている小雪殿も、どこか張り詰めた糸のような緊張感が漂っていた。
柳邦によって開かれる宴は昼間から夜にかけて行うとのことだ。出来るなら長い時間、そのような場所にいたくはないが、理桂の謀が上手く行くまで辛抱しなければならないとの事だった。
「……準備、出来ました」
着替えをしていた部屋の外に待っている成蓮へと声をかける。成蓮はぎこちなく振り返ったが、その表情は暗いままだ。
「行きましょう、殿下」
成蓮の後ろに控えている蒼信も桃仙も難しいことを考えているような顔で立っている。
「大丈夫です。きっと、上手く行きますから」
「……何かあれば、絶対に君を守る」
絞り出すように呟かれた言葉は強い意志が宿っていた。
「……そのお言葉だけで十分ですよ」
視線で行こうと促すと成蓮は渋々、頷いてくれた。歩き出す四人に沈黙が流れる。
誰も自ら口を開こうなどとしなかった。それほど重い空気がこの場には満ちていた。
自分がただ、毒見をするだけで終わるなら、それでいい。だが、宴の席とはいえ、柳邦の手の者が成蓮に刃を向けてくる可能性も考慮しておかなければならない。
恐らく、蒼信達は武器を隠し持っているのではないだろうか。丸腰で周りが敵ばかりの真ん中へと行くことは絶対にないはずだ。
柳邦が住まう白露殿へと続く、庭へと吹き放しにされた廊下は自分達以外には誰もおらず、不審に思えるほど静かだった。
だが、次第に人のざわめきが聞こえ始め、大きな戸の前へと辿り着く。白露殿の中で一番の広さを持つ、宴が開かれる広間の戸には衛兵姿の男が二人、剣を腰に差して立っていた。
「待たれよ。……成蓮殿下と、斉夕明と申す者であられるか」
武骨な手をした強面の男が自分達を見下すような視線を向けてくる。
「いかにも。こちらは柳邦殿下からの誘いを受けている。……戸を開かれよ」
先頭を歩いていた蒼信がその長身を活かして、男を見下ろしつつ、静かに答える。
「宜しい。……ならば、こちらへ」
戸がゆっくりと開かれていく。外に面した廊下側の方が日の光で眩しいはずなのに、その広間には多くの蝋燭が壁一面に飾られているせいで、目を一瞬閉じなければならない程、眩しく感じた。
人のざわめきも、最初から準備していたかのように、そこでぴたりと止んだ。
広間にいる者達の視線が一斉に夕明達へと向けられる。好奇、不審、侮蔑といった様々な感情が含められたものが、一度に向けられるのは良い気分ではない。
「──おぉ、よく来たな、斉夕明。それに成蓮も」
わざとのように大きな声で、両手を広げているのは広間の中央の席に陣取っている柳邦だった。
その傍らには仕えている侍女と彼の妹姫達、そして一番化粧が濃く、煌びやかな衣を纏い、金と銀の簪を挿した女人が座っていた。彼女が柳邦達の生母である張妃だろう。
妹姫達は先日の事が気に入らなかったのか、嫌悪するものを見るような目付きでこちらを睨んできていたが、張妃の方は柳邦と同じように面白いものを見つけたかのような笑みを浮かべていた。
他にも彼らの親族、または繋がりがある貴族達が興味深そうに、そして遠慮なく見てくる。正直に言って、こんな所に長居はしたくない。
「……私のような卑しき身の者を招待して下さり、ありがとうございます。身に余る光栄でございます」
もちろん、本心ではない。この口上も何度も練習したものだ。
「さぁ、来い。お前達の席はこっちに用意してある。──おい、宴を始めるぞ」
よりにもよって、入口から一番遠い端の方に作られた席へと案内される。これでは、いざという時に逃げるのが難しくなってしまう。
「皆の者、これは決して前祝などではない。陛下は俺を次の帝にすると指名なされた」
その場にいる者達がざわつく。思わず成蓮達に向けて、振り返りそうになる頭を必死に動かさないように努めた。動揺する素振りを見せてはいけないと分かっている。
「陛下が身罷られていない以上、まだ次の帝位に就くには時間があるが、すぐにその時が来るだろう。その際にはここにいる者達の繁栄を俺は約束してやる」
その言葉に従うように、彼の臣下達が雄叫びのような声を上げる。女達は黄色い声で、はしゃいでいるように見えた。
何を言っているのか、一瞬理解できずにいた。柳邦は自分の父親である帝に対して、早く身罷れと言っているようなものではないのか。
それなのに、どうしてここにいる誰もがそれを咎めずに、まるで賛同するように喜びの声を上げているのか。
……理解、出来ない。
息が詰まりそうになり、思わず胸の辺りに手を置く。心の中で何度も大丈夫だと唱える。
あの日、あの夜、成蓮に抱きしめられて感じた温かさを思い出せば、この気分の悪さもどうにか越えられそうな気がした。
柳邦達に気付かれないように深呼吸して何とか自らの気持ちを持ち直す。ここでは、迂闊に成蓮達に話しかける事が出来ない。
意識だけはしっかり保とうと、指に爪を食いこませつつ、真っすぐと前を向いた。
前方には先日の光明節の際と同じような舞台が作られており、舞台上には進行役と思われる男が演目の紹介をする。
舞台上に登場したのが、宮妓の舞手なのか、それともどこかの家妓なのかは分からない。華やかな衣装で、笑顔を絶やさずに手の先まで洗練された動きで領巾を自分の一部のように扱っていた。
普段の自分なら、感嘆してしまう技術だ。だが、今は無表情のまま、拍手を送ることしか出来ない。心の底から楽しめるような場所ではないからだ。
怒りさえも消し去り、ただそこにいる人形のように夕明は唇を真っすぐと一文字にして閉じる。表情は動かさず、感情も抱かず、動くことさえも忘れたかのように振舞っていた。