兄弟の密約
登家での話し合いを終えた成蓮は、自室に戻るなり、深い溜息を吐く。
「……はぁー……」
何とか、家の者達からは自分が帝位に興味がないということと、これから自分が行おうと思う事について承諾が得られた。
登家の人達はもともと性格が穏やかなので、話し合いが詰まることなく、進んだのは良かったが、すっかり宮殿へと帰って来るのが遅くなってしまったのだ。
今、蒼信は兄である理桂にこれから話し合いの場が作れるか内密に相談に行っている。そこで上手く了承を得られれば、この帝位争いに決着が付くことは明らかだ。
「殿下」
少し青ざめた表情の蒼信が手に何か文のようなものを抱えて、戸の前に立っていた。
「どうしたんだ。……理桂兄上との会談の場は設けられなかったか」
「いえ、そうではありません。そちらの方は上手く行きました。この後、清明殿に訪ねてきて欲しいとのことです」
「そうか。それなら良かったが……。その文は?」
「……先程、届いたものだそうです」
「何?」
思わず顔を顰めると蒼信も肩を竦めて頷いた。
「柳邦殿下からです」
どうぞ、と言って渡してきた文を成蓮はゆっくりと開いていく。読んで、思わず吐き気がした。
「……何と書かれているのですか」
「……夕明殿を明後日、柳邦兄上が開く内輪の宴に招待したいらしい」
「はぁ……?」
珍しく、間抜けな声が蒼信から上がる。
「何を考えているんですかね、あの殿下は」
「……何となく分かる」
懐に文を無理矢理に入れ込んで、成蓮は立ち上がる。
「柳邦兄上に返事をするかどうかは理桂兄上に会ってからにしよう」
「分かりました」
成蓮は出来るだけ人が通らない、清明殿への廊下を選びつつ、理桂から指定された部屋へと向かった。
自分は理桂を敵だと見てはいないが、向こうはどのように自分を見ているかは分からない。下手に出て、言い含められたら終わりだ。
自分の優先するべきことは、帝位に興味がないことを示すこと、登家及び、関わりのある家の存続と安全を守る事、そして──。
自信を持ってもいいのだと教えてくれた。その言葉のおかげで、今まで他人からの目や言葉に恐れていた自分がどこかへ行ってしまったかのように、心は清々しい気分で満ちていた。
……昨日は眠れなかったな。
昨夜、夕明に会いに行った。彼女は泣いていた。それでもなお、この自分を守ろうとしてくれていた。傷付いているのに、夕明は自分を守るためにそうでありたいと願っていた。
その覚悟と心を無駄にするわけにはいかない。彼女が自分を守ってくれているなら、自分もあの小さな身体で必死に耐えようとしている夕明を守りたいと思った。
だが、帝位争いに負けてしまっては、彼女を守り切れないかもしれないということはよく分かっていた。
……自分ながらに、中々ずるい案だと思うが。
登家の者にはこの案を説明しておいた。いや、案と呼ぶのは夕明に失礼だろう。これは自分の意志で夕明を守ろうとする決意の証拠なのだから。
だが、あれほどまでに夕明が自分を慕ってくれているとは思っていなかった。少し、自惚れてもいいのだろうかと思えるほど、彼女は自分に好意を向けてくれていることは分かる。
……これまで、手放したくないと強く願うものなどなかったな。
それならどういう方法が一番いいのだろうと考えた結果、一つしか思いつかなかった。
夕明を妻にもらう。それしか考えられなかった。いや、そう言い切ってしまうのは、夕明に対する後ろめたさかもしれない。
まだ、この話は彼女に伝えていない。そもそも、この求婚を受けてもらえるとは限らないのだ。
……また、自信がなくなってきた……。
だが、我ながら弱い心だと自嘲する日々は終わらせなければならない。
「殿下、こちらです」
戸の前には屈強そうな衛兵が立っていた。
「成蓮殿下であられますな」
衛兵の言葉に成蓮は頷く。
「こちらで理桂殿下がお待ちです。どうぞお入りください」
静かに戸が開けられると、長い机に蝋燭が三本だけ置かれた部屋の中が見えた。その一番端の席に理桂が座っている。他には誰もいない。
「この前の宴ぶりだな。今日は床で臥せっていると聞いたが息災か?」
嫌味ではなく、ただ確認するような理桂の口ぶりに成蓮は苦笑して頷く。
「お久しぶりでございます。……少々、実家に帰る用がありましたので、それを他に悟られぬように偽りの情報を流していました」
「そうか。まぁ、向こうは毒が効いたと喜んでいるかもしれないがな」
理桂は手と目線で成蓮に座るように促した。蒼信は一歩後ろへと下がり、壁際で静かに立った。
「私のところにもよく毒が送られてくるのだよ。まぁ、食べないようにしているのだが、どうせならば刺客を送って欲しいな。あれでは料理が勿体ない」
誰に向けての言葉なのか聞かなくても分かる。
「それで、今日はどのような要件なんだ? お前から使いが来るなんて珍しくて、明日は雪でも降るんじゃないかと思ったぞ」
理桂は真顔でそう言ってくるので、冗談なのか本気なのかは分からないが成蓮は至極、真面目な表情で頭を下げた。
「私も含め、登家の者達にも話を付けてきました」
「何をだ」
「我々は……理桂兄上の傘下に入りたいということでございます」
「ほう」
さして驚くような顔はしていない。予想通りと言う事か。
「私はもとから兄上が次の帝位を継ぐことに承知していましたが、周りの者達の中には、納得していない者もおりましたので今日、話を付けてきました」
「……それで、何が目的だ?」
「私を含めた登家、また関わる家々、小雪殿の者、そして──毒見役の斉夕明も含めた者達のその身の安全と地位が守られることを、協定として受けて頂きたいのです」
正直、この兄は自分が小さい頃から何となく苦手だった。柳邦ほどまでではないが、兄弟と言えど近付きにくい雰囲気を常にまとっており、親しく話し、遊んだ覚えがないからかもしれない。
もしかすると嫌われているかもしれないとさえ思っていた。
「お前にして大きく出たな。あとで懇願するものかと思っていたが」
「……昔の自分ならば、そうだったかもしれません」
「……なるほど、斉夕明に惚れたな」
「なっ……」
まさか訊ねられるとは思っていなかったため、顔を赤くしつつ石のように固まってしまう。
「あぁ、ほら。お前はすぐに顔に出る。悪い癖だ」
「……からかわないで下さい」
「からかってなどいるものか。別に惚れた者がいるのはおかしい事ではない。最近、お前がしっかりしてきたように見えたのは、その者のおかげだったんだな」
自分ではどれほど変われたのかは分からない。だが、何かを守りたいと思う気持ちが以前よりもはっきりと分かるようになった。
「……だが、そうか。小心者だったお前を変えたのはあの斉家の者だったのか」
「……兄上はご存知なんですか」
現在、斉家の存在はあまり多くに知られていないと聞いた。今は、噂のせいで悪く広まってしまっているが、それもどうにか払拭させたい。
「私の家もずっと昔に斉家の者に助けられた事があるらしい。私は一度も会ったことがなかったが」
「……斉家は今、彼女一人しかいないそうです」
「そうか。……で、どういうところに惚れたんだ」
「……聞いてどうするのですか」
「興味があるだけだ。何でも、柳邦にも見初められたと聞いたぞ。余程の美人か、もしくはただ単に面白がられているのかは知らぬが」
「柳邦兄上は私に嫌がらせをしようとしておいでなので」
「なるほどな」
そこで成蓮は一度黙る。改めて、夕明のどこに惚れたかと聞かれれば、考えたことなどなかったと思い出す。
「兄上は水蓮宮をご存知ですか」
「ああ、宮殿から少し離れた場所に建てられている邸宅だろう。あまり近くで見たことはないが、確か蓮池の真ん中にあるのを覚えている」
「そうです。あの場所は宮殿での喧騒が聞こえないほどに静かで、落ち着く場所なんです」
「お気に入りか」
「ええ。……そんな静かな場所で、彼女は一人で過ごしているんです」
「普段は何をしているんだ、斉夕明は」
「畑仕事もですが、薬草を育てています。そして自分で薬を作って、必要な人に届けているんですよ」
凄く、献身的なことだと思う。見返りを求めるでもなく、必要とする人間に薬を作り、そして自身は毒見役として人を守ろうと必死だ。
「毒見役ということに、ある種の誇りを持っているように見えました。真面目で、親切で、いつも誰かを気遣っているんです。誰かのために、と考えてばかりいるんです。自分のことは、構いもせずに」
自分の後ろに立っている蒼信が微かに動いた気配が感じられた。彼もまた、夕明の身を案じている者の一人だ。
「……自分を犠牲にしてまで、私を守ろうとしてくれる。とても優しく……そして、消えてしまいそうなほど、儚い人なのです」
辛いと思うことがあっても、自分の前では笑顔でいようとしてくれていた。
「斉夕明をこの帝位争いに関わらせてしまったのは自分です。だからこそ、最後まで責任を取って、彼女が穏やかに再び暮らせるように守りたい。二度、泣かせるようなことをさせたくはない。私は……斉夕明を妻に迎えたいのです」
いつもは視線を交えることさえ出来なかった真面目な兄の瞳を真っすぐと見据える。
「お前が性格上、自分以外の人間のために頭を下げることは想定していたが……」
そこで深い溜息を吐く理桂は、灯されている蝋燭の火の向こう側から自分へと視線を向けていた。
「実は私が柳邦のところへ送っている密偵からの連絡が来てな。明後日、斉夕明を宴に呼ぶそうだな」
「……ご存知でしたか」
「ああ。そこで聞いた話だが……。彼女に毒を食べさせて、本当に効かないかどうかを試すつもりのようだ」
「っ……」
思わず立ち上がりそうになった身体を必死に留める。
「しかも、親しくしている貴族や親族、義妹達を呼ぶらしい。まぁ、宴の見せ物にする気なのだろう。……何でも陛下からの口約束で、お前を次の帝に指名するなんて言われたらしいからな。どうも柳邦自身と周りが舞い上がっているようだ。恐らく、陛下は無理矢理に言わされたみたいだが」
言葉が出なかった。蒼信も絶句しているのか呼吸する音さえ聞こえない。
「だが、もう一つ気になる情報を貰った。……張妃もその宴に出る可能性が高いんだ」
「張妃……」
柳邦の生母だ。話したことなどないため、あまり深い印象はない。強いて言うなら、自分の母である登后を恨んでいたと聞いたことがある程度だ。
「お前の恋人のことを義妹達から聞いたらしく、興味を持っているらしい」
「……」
「そこでだ。お前に一つ、提案がある」
理桂は身体を乗り出してきて、声量を抑えつつ言葉を繋げる。
「その宴の件、斉夕明に受けて欲しいんだ」
「なっ……」
「お前は気に食わないかもしれないが、中々ない好機だ。張妃がいない間に、私は陛下に会いに行き、帝位継承に必要な勅書を作成したいと思っている」
「つまり……囮、ということですか」
「まぁ、簡単に言うとそうだな。恐らく、張妃が陛下の傍から離れても柳邦達の息がかかった部下が見張っているだろうからな。まずは怪しまれないように臣下の格好でもして、忍び込もうかと思っている」
すぐに返答は出来なかった。夕明の返事も聞かないまま、決定する権利など、自分にはない。
「成蓮、この機会は二度とない。お前が守りたいと思っているその覚悟を私は信じたい。功績というわけではないが、ここでの約束は必ず守ると約束しよう。太子、そして新帝の名のもとに安全な生活を送れるように取り計らうつもりだ。それと、我が母の実家である定家にも登家が味方になると話しておこう」
きっと、この提案をすれば夕明はすぐに受けると分かっていた。彼女はそうやって、自分の身をすぐに盾にしてしまう人だ。
そして自分は俯いて、止めることも出来ずにただ、耐えるしかない人間だ。夕明が立ち向かう強さを持っているにも関わらず、自分はそうやって何度逃げてきたことか。
だが、そんなことはもう終わりにしたかった。彼女が盾になるというならば、自分は夕明の剣になりたい。彼女に降りかかるものを切り捨てられるような、強固な剣に。
「斉夕明にその話を通しておきます」
「頼めるか」
「……本音を言えば、行かせたくはありません。ですが、言えば彼女はすぐに決意してしまう人なんです」
「お前が付いていけばいい。そして、守るんだ」
「……もちろん、そのつもりです。ただ、私が同伴する許可が下りずに、彼女一人で来るように言われた場合は侍女として、うちの桃仙を付けます」
「分かった。……無理に毒を食べろとは言わない。だが、私が陛下から勅書を頂くまでの時間を稼いで欲しい」
「心得ておきます」
しっかりと頷き返す成蓮を理桂はどこか安堵したような表情で見てくる。
「これから、お前には色々と仕事を任せることになるかもしれないが、これが最初の頼みだ。……どうか、無事でやり通せ」
「……承知しました」
信用されていると思ってもいいような物言いに、思わず気が引き締まる。立ち上がり、深く頭を下げて部屋を出ていこうとした時だった。
「……私は昔から、弟が欲しかったんだ」
静かに後ろから声がかけられる。
「お前とは言葉を交わしていなくても、お互いに信用していたような気がしていたが、周りがそうはさせてくれなかった。……だが、それがやっと叶う気がするよ」
それは本心なのか、顔を見ていないので分からない。だが、自分も同じように思っていることは事実だ。
成蓮はその言葉に背中を向けながら軽く頷き、蒼信を従えて部屋の外へと出る。暫く歩いて、廊下が小雪殿に近くなってから、やっと息をした感覚が戻って来る。
「……はぁ……」
「緊張なされましたか」
「まぁな。だが、思っていたよりもちゃんと聞き入れて下さったから、良かったよ」
「……夕明様の件、どうなされるおつもりで」
「夜に話をしてくる。あとで付いて来てくれないか。桟橋辺りで立っているだけでいいから」
「分かりました」
本当はすぐにでも夕明のもとへと走っていきたいくらいの気持ちだった。だがそんな感情を表に出さないように努めつつ、成蓮は深く息を吐く。
今夜は月が明るいと良いと思いながら、成蓮はすっかり暗くなった空を見上げていた。




