譲れないもの
「昨日は随分と夜遅くに寝られたようですが」
そう訊ねてくるのは、幼い頃から自分に仕えてくれている蒼信だ。人の目が増える早朝よりも早い時間に成蓮は起きていた。身支度を整えつつ、蒼信の方を振り返る。
「何だ。私が抜け出していたことを気付いていたのか」
「当り前です。大方、どこに行っているのかは予想が付きますので、詮索するような無粋な真似はしませんよ」
自分と血がつながった兄達よりも、蒼信の方がよほど兄らしいと思える時がたまにある。いや、どちらかと言えば、母親に近い心配の仕方だが。
「……夕明様、最近あまりお元気がないようですが」
「……お前が私に知らせてくれた事を気にしていた」
「あの噂ですか。……大体の出どころは分かっていますよ。柳邦殿下に近しい方からでしょうね。もしくは、親しくしている家々……。教坊などでは噂の回りが早いですからね。どういうことだと、雨鈴殿に強く問い詰められましたよ」
あの人、怒ると怖いですからと蒼信は気まずそうな表情をする。
「雨鈴殿は押しが強いからな。……だが、友人が馬鹿にされたんだ。それは怒るだろうよ」
「……殿下もお怒りで?」
「当たり前だ」
帯をしっかりと締めて、襟元を自ら整える。あまり、侍女に世話をされるのは好きではないため、身支度などは普段から自分の手でやっていた。
「だが、雨鈴殿とは違う感覚だろうな、私の場合は」
「……それは殿下が夕明様を特別大切に思っているからでしょう」
「……」
思わず目をむき出しにして、表情を固めた。
「……何で、知っているんだ」
やっと出た言葉を吐きつつ、蒼信から顔を背ける。彼の表情が珍しく和んだものになっていたからだ。
「見ていれば分かりますよ。何年、殿下に仕えていると思っているんですか」
「……出来るだけ、覚られないようにしていたんだが」
「殿下は昔から、感情を隠すのが下手でございますからねぇ」
忍び笑いをしている蒼信に恨みがましい視線を送り、成蓮は溜息を吐く。
「なら、話は早い。今のうちにお前にも話しておこう」
「何でしょうか」
「私が夕明殿を妻に迎え入れたいと思う事に異論はあるか」
ぴたりと忍び笑いは止み、彼にしては珍しく目を剝いた驚きの表情のままで石のように動かない。
「登家の者にも同じ話をしようと思う。……どうだ」
「……実のことを言うと、もの凄く驚いております」
「だろうな」
「まさか、それほどまでに夕明様を想われていたとは……。ですが、夕明様が殿下の傍に居て下さるなら、この先はあまり心配ごともありますまい」
「……何故だ」
「夕明様は殿下よりも強情なところがありますからね。しかも、常に殿下の身を案じておられます。我々が言っても耳を貸さないことも、夕明様が言えばすんなりと殿下は従われそうですからねぇ……」
つまり、彼に言わせれば、自分はすでに尻に敷かれていると言いたいのか。
「私は良いことだと思いますよ。夕明様はお優しく、とても聡明な方ですから……。あとで、桃仙にも伝えておきましょう」
「それはお前からは特に意見はないということか」
「むしろ、何故に意見があるとお思いで? あの方程に気遣いが出来て、殿下を慕っておられる方は他にいませんよ」
呆れたように蒼信はわざとらしく溜息を吐く。
「ですが、柳邦殿下の件がある以上、この事は内密に、そして早急に進めた方がいいと思います。……もう、今日にでも求婚してきたらどうですか」
からかう口調ではなく、至極真面目に意見してくる蒼信から再び顔を背ける。
「いや、駄目だろう。突然しても、驚かれるだけだ」
「では、いつするんですか。時間は待ってはくれませんよ」
「……それは分かっている。だからこそ、今から登家に話をしに行くんだろう」
準備が整った成蓮は戸の前で待っている蒼信のもとへと歩いていく。
「……まぁ、万が一に殿下がふられてしまった時はお慰め致しますよ」
「……縁起の悪いことを言うな。――桃仙、いるか」
部屋の外へと声をかけるとすぐに侍女姿の桃仙が中へ入って来る。
「今から登家へ向かう。その間、夕明殿の警護をしてくれないか。……あちらが何か仕向けてくる可能性がある」
「かしこまりました。……殿下もお気をつけて」
「あぁ。行くぞ、蒼信」
「……では、桃仙。留守を任せたよ」
深く頷く桃仙を置いて、成蓮は馬車が置いてある車宿りを目指して歩く。
「……桃仙、口元が笑っていましたよ」
「は……」
「恐らく、先程の話を盗み聞きしていたかと」
「……」
どうやら、この兄妹は似ている部分が多いらしい。それならそれで良いのだが、からかうのは止めて欲しいものだ。こちらは顔から火が出る程、恥ずかしい時があるのだから。
成蓮は短く息を吐き、気持ちを整える。
今まで何かを強く願ったことはなかった。だが、どうしても譲れないものが出来たのだ。帝位でも、この身の安全でもない。
たった一人、強くあろうする少女のために。
そのために自分は今、自力で立っているのだから。