意識する背中
「早く戻りましょうよ、殿下ぁ」
「次の演目が始まってしまいますわ」
女達に急かされ、柳邦は軽く返事をしつつ夕明を引っ張ろうとする。行きたくはないと分かっているのに、足が一歩動かされてしまう。
……もう、力が……。
その時だった。ぱしり、と軽い音がその場に響き渡った。
「……あ」
思わず情けない声が出そうになるのを押し留めつつ、夕明は顔を上げる。いつの間にか、すぐ隣に成蓮が立っており、自分の手首を掴んでいる柳邦の腕を掴んでいたのだ。
「……何の真似だ、成蓮」
「それはこちらの言葉です、兄上」
成蓮は掴んだ腕を少し捻り、夕明の手を解放させる。自由になった手をさすりながら成蓮の方へ顔を上げるとその表情はいつもとは違う無に近いものになっていた。
目はすっと細められており、柳邦を睨んでいるようにも見える。
成蓮は柳邦から手を離し、庇うように夕明の前へと出た。
「先日もお話したはずです。この者には一生、自分に仕えるように言い含めてあると」
「ふん。そんな口約束……。たかが少しの時間、借りるだけじゃないか」
不満そうに吐き捨てる柳邦の顔は次第に、先日に見たものと同じく不機嫌なものへと変わっていく。
「それは出来ません。この者は……斉夕明は、彼女が持つ全てを以て、私のものです。お譲りするわけにはいきません」
「……!」
この自分よりも少しだけ大きく見える背中は今、何と言ったか。
そう、この身の全てが成蓮のものであると、間違いなくそう言った。思わず、聞き間違いかと訊ねたい程、夕明は驚きの表情で成蓮の背中を眺めていた。
「彼女に用があるのであれば、どうぞ私もご一緒致しましょう。斉夕明は私の一部のようなもの、離すわけにはいきません」
「……そのような屁理屈……通じると思っているのか」
鋭い牙のような低い声に夕明は一瞬、肩を震わせる。
「通じるも何も……。人のものを奪おうなど、野蛮なことをなさるのですね」
「貴様……っ!」
柳邦の腕が成蓮の胸元へと掴みかかろうとした瞬間、その声が降ってきた。
「何をやっている、お前達」
低くも重みのある声に、成蓮達ははっとしたようにその声の主を振り返る。
「今は宴の席だ。臣下も見ている。はしたない真似はよせ」
「理桂兄上……」
成蓮が少しだけ安堵したように呟いた。その名前に夕明ははっとする。目の前にいる若竹色の衣を着た背の高い男こそが、第一位帝位継承者である理桂太子だと瞬時に理解した。
「私の席までお前の声が聞こえていたぞ、柳邦。皆がいる前での粗野な振る舞い、恥ずかしいとは思わないのか」
理桂は細目で鼻も高く顔立ちも整っているが、表情が全く動いておらず、心が読みにくそうな顔をしている。
「ちっ……。お前には関係ないだろう」
あからさまに嫌悪感を表し、わざと舌打ちする柳邦に対して、理桂は薄っすらと目を伏せて深く溜息を吐く。
「いや、関係あるな。あまりにも品位がない振る舞いは私を含めた皇族どころか、陛下の気品にまで関わる。あと、見境なく女人に手を出すのは止めろとあれほど──」
「あぁ、煩い! 黙れ、黙れ! お前のような奴に指図されてたまるかっ!」
話をそれ以上、聞かないという意思表示なのだろう。柳邦は理桂に背を向けて、地団駄するように歩いていく。
「あぁ、殿下……」
「お待ちを……」
付き添っていた着飾った女人二人は戸惑う表情を見せつつも、宴の席から出ていく柳邦を追いかけていった。
「……全く、あやつは相変わらずだな」
冷めた表情のまま、柳邦が歩いて行った方を見つつ、理桂は深く溜息を吐く。
「……理桂兄上、お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
夕明の前で成蓮が深く頭を下げるが、こちらからではその表情を読み取ることは出来なかった。
「柳邦の我儘は昔からだ。だが、見くびられているお前も悪いと思うぞ、成蓮」
「……はい」
「あやつがお前に嫌味を言って、嫌がらせをしてくるのは、お前に隙が多いからだ。お前も気高い高家の一員であることを忘れぬように」
「……分かっております」
「だが……」
そこで理桂の言葉が途切れ、視線が夕明の方に移った。
「少しはお前も変わったようだな」
「え?」
瞬きをして、開いた時には視線は再び成蓮の方へと戻っていた。
「私は席に戻る。陛下がお戻りになった以上、まだ最後の挨拶の役割が残っているからな。お前はゆっくり見ているといい」
そう言い残して、理桂はこちらに背を向けて、舞台上の端で固まったようにこちらの様子を窺っていた進行役に宴を続けるようにと声をかけていた。
「……はぁ……」
深く溜息を吐いたのは誰だったのだろうか。夕明は成蓮と視線を重ねて、確認するように同時に椅子へと座った。
それまでお喋りを止めていた臣下達の囁くような声は、再び騒がしいものへと変わっていく。
「はぁー……。全く、柳邦殿下には呆れたものですね」
後ろで控えている桃仙を振り返ると額に青筋が立っていた。
「随分と、夕明様を気に入っているように見えましたね」
困り顔で蒼信も深い溜息を吐く。顔色が悪いので、もしかすると胃の調子が悪くなってしまっているのかもしれない。
「まぁ、あのまま柳邦殿下が殿下達を侮辱するようであれば、剣を抜いていましたけどね」
そう言って、桃仙は袖の中に隠されていた短剣をすっと、見せてみる。
「桃仙……」
たしなめるような成蓮の表情に、桃仙はわざとのように肩を竦めて見せる。
後方からわっ、という声が聞こえて舞台上を見ると軽業が始まっていた。細い糸を舞台の端から端まで真っすぐと張ったものに、若い男が目立つ赤い傘を持って、器用に乗って歩いていた。
「……言いたいことは分かるが、手を出していけない。……分かっているだろう」
「……ええ」
納得出来ないのか、桃仙は返事をしつつも、成蓮の方は向かずに余所見をしている。
「全く、心根が優しい主を持つとお互いに大変だね、桃仙」
同調するように蒼信も苦笑いしつつ、桃仙の肩を軽く叩いた。
「ですが、あちらが夕明様のことを調べてきていたのには少し驚きました。ただ単に、夕明様を気に入っているのか、それとも警戒しているのか──」
「何にせよ、こちらが警戒していれば良いだけの話だ。だが、あの兄上の執着は……少し、怖いな」
「ええ……。暫くは様子を見ますが、夕明様の護衛は桃仙に任せましょう」
「分かりました」
自分に関してのことを耳に入れているはずなのに、夕明はどこか他人事のように呆けていた。
「夕明殿」
名前を呼ばれ、夕明は安堵して休めていた身体を少し、浮き上がらせる。
「あ、はい。何でしょうか」
「……先程は私の兄が失礼なことを言って、申し訳ない」
別に彼に非があるわけではないのに、成蓮は申し訳なさそうな顔をする。
「私は大丈夫ですよ。……先日のこともありましたし、ああいう方だと思えば、何とも」
柳邦の言葉に動かされたものは一つもない。それよりも、自分は成蓮の言葉の方が気になっていた。
「あと……君をもの扱いしてしまったことを謝らせて欲しい」
「え?」
「夕明殿を……その、自分のもの、などと発言したことだ」
その際に微妙に成蓮の表情に変化が見られたのは、間違いではなかった。ほんの少しだ。本当に少しだけだが、成蓮の顔が赤らんでいるように見えたのだ。
「柳邦兄上の手前、どうにか場を収める言葉を探していたのだが……君に対して失礼なことを言ってしまった。本当に申し訳ない」
「……ふっ」
真剣な表情で謝る成蓮に対して、思わず夕明は笑みが漏れてしまう。
「謝らないで下さい、殿下」
「え?」
頭を下げようとする成蓮を止めて、夕明はにっこりと笑う。
「私は嬉しかったです。私のことをちゃんと毒見役として認めて下さっていると知ることが出来たので」
「だが……」
「守って下さって、ありがとうございます。……でも、私が柳邦殿下のことを拒否してしまったので、また……殿下に迷惑をかけてしまうかもしれませんが」
「そのようなことは絶対にない!」
すぐに反論した成蓮は自分自身で、驚いているようだった。
「……兄上の我儘はいつものことだ。だが、君をこちら側に巻き込んでしまったせいで、更に危険が及んでしまうかもしれない……。それだけが……」
「殿下、私は自ら殿下の毒見役になることを選んだのですよ?」
夕明は成蓮の手にそっと自分の手を添える。
「私が自分で、殿下のためにやりたい、殿下の一部になりたいって、思っているんです。だから、巻き込んだなんて思わないで下さい。ね?」
確認するように夕明は成蓮の顔をはっきりと見る。
今までは政も帝位争いも程遠く、自分には縁のない世界のことだと思っていた。だが、それは違うのだと本当は最初から気付いていた。
自分の今の身があるのは、曾祖父が争いを避けたから。だから、生きていられたのだ。最初に逃げだしたのは自分達の方だ。
それでも繰り返し、繰り返し、帝位争いは起きる。どこに終わりがあるのかも分からずに、延々と続く争いの中に成蓮は身を投じているのだ。その争いが、彼が望んでいるものではなくても。
優しく、穏やかな成蓮がこれ以上、気負わなくても済むように。例え危険がこの身に及んでも、自分の意志で彼の傍に居たいと思う。
「どうか、お傍に居させて下さい。……それとも、私が気に入らないようでしたら、外していただいても構いません。ただし、私よりも優秀な毒見役を付けて下さらないとお許しできませんよ?」
冗談交じりにそう言うと、成蓮は観念したように目を伏せて溜息を吐いた。
「思っていたよりも、君は中々強情で、物怖じしないんだな」
「あら、殿下の義妹君様に比べたら、おしとやかではないかもしれませんけれど」
「そういう意味で言ったのではない。……だが、関わった以上、君を守らせてもらう。それはいいだろうか」
先程とは違う、年相応の表情で成蓮は真っすぐと見てくる。黒い瞳に囚われて、夕明は拒否することなど出来ずに、首を縦に振った。
応えると成蓮は少し安心したのか、いつもの柔らかい表情へと戻った。
その視線は再び舞台上へと移されたが、夕明は見られてもいないのに、まだ身体が熱く感じていた。
……守る、と言っていた。
初めて、人からそう言われたのだ。そこに他意はないはずなのに、どうしてこれほどまでに意識してしまうのか。
舞台上では、見たいと思っていた剣舞が行われていた。成蓮も驚いた様子をしつつも、感心したように眺めている。
その表情にさえ、反応してしまうのはどうしてなのか。それさえも分からないまま、夕明は何かを抑え込むように手を自分の胸へと持ってきて、息を吐く。
自分のもとへと戻された手は幾分か熱く感じられ、再び成蓮の顔を見ることは出来なくなってしまっていた。




