温かな手
だが、蒼信の言葉通りに、帝が乗った輿の到着を告げる銅鑼を鳴らす音がその場に響き渡る。その一瞬で、場は無へと静まった。皆が椅子から下りて、地に片足を付けてひれ伏した。
「……」
夕明はこの国の帝に会ったことはない。国で一番偉い人ということは分かっていても、その感覚は程遠かった。
初めての有無も言えないような緊張に唾を飲み込んだ。少しずつ衣擦れの音が大きくなり始める。ここは一番前の席の一番端に位置する席だ。もちろん帝も自分達が通ってきた道を通るはずだ。つまり、この目の前を通ると言う事。
ひたり、と汗が流れるのを感じた。座っているだけなのに、この押しつぶされそうな緊張感は一体何だろうか。
その時、膝の上に置いていた手に、自分のものではない手がすっと添えられる。それは同じように隣で帝に向かって跪いている成蓮の手だった。
緊張していることを汲み取ってくれたのか、その手は強く握りしめられる。
大丈夫だ、と言うように。
夕明は今、目の前を通り過ぎようとしている帝の輿の一団に気付かれないように音を立てずに深く息を吐く。
それを確認した成蓮は手をそっと離した。万が一にも、帝に見られれば、成蓮が何か言われかねないだろう。
だが、それだけで自分は大丈夫だった。人の体温に少し触れただけで安心してしまうなんて、赤子のようだと思う。
帝を乗せた輿の行列が目の前を通り過ぎていく。そして、ちりんと鈴のような音が響き、暫くしてから、衣擦れの音が大きくなる。今、輿から降りてきている最中なのだろう。
杯のようなものに何か注がれているのか水音だけが響く。
「……杯を」
低くしわがれて、呼吸しにくそうな声が響き、その場にいる一同がそれぞれの手に杯を持ち、掲げた。
「水に恵まれ、緑豊かなこの楓国の富と繁栄が永遠に続く事を願って──」
しわがれた声の後に、人々が帝への賛辞を述べる声が響き渡る。雄叫びという程までではないが、多くの人が帝の言葉に対する祝いの言葉を叫んでいるようにも聞こえた。
どうやらこれで、最初の挨拶は終わり、宴が始まるようだ。夕明はちらりと垂れ幕の隙間から外を覗き込む。自分達よりも後方に座っている貴族や官吏達はすでに酒を飲み始めているようだ。
蒼信に目配せすると頷き返してくれる。もう、食事を摂っても良いということだ。
「殿下、何をお食べになりたいですか? あ、こっちの鶏肉の炒めものも美味しそうですよね」
夕明は早速、本領発揮と言わんばかりに小皿に料理を取り分ける。
「せっかく、殿下が頑張って作った宴でもありますから、今日は楽しんでしまいましょう!」
「……そうだな」
成蓮はどこか観念したように口元を緩めて頷いた。とりあえず、先に毒見して、食べられるものを成蓮の前に出した方がいいだろうと、箸を掴んでいると、前方の舞台上に立っている青年が何かを読み上げる声がした。
その声の後に舞台上には数人の年頃の女人が出てきてお辞儀をする。どうやら今から、宴の席を盛り上げるべく芸を鍛えて来た者達の出番が始まるようだ。
女人達は一斉に国の繁栄を願う祝い歌を歌い始める。華やかで透き通るような歌声を聞きながら、夕明は次々と毒見して、食べられると判断したものを成蓮の前へと出す。
「それにしても、本当に凄い賑わいですねぇ」
「夕明様は確か、宴にお出でになったことは……」
後ろで背中を守る様に立っていた桃仙が少し控えめな声で話しかけてくる。
「ええ。だから、今日が初めてなんです」
人が楽しそうに笑ったり、話をしたりする声をここまで一斉に聞いたことがなかったため、その声量に驚いてしまっているが、嫌な感じはしなかった。
だが、この声の中にも色々と策をめぐらせている者達がいるのは確かだ。
「殿下、お味はどうですか?」
箸を進めていた成蓮の顔を窺うと彼は笑って頷いてくれた。その表情に安堵しつつも、この卓に並べられている全品を毒見しているうちに自分もお腹いっぱいになってしまいそうだと思わず笑みが零れる。
舞台上を見ると、今度は舞の宮妓達が領巾を自分の一部のように扱いながら、優雅に美しく踊っていた。息の合った美しい舞に舞台下の者達からは感嘆を漏らした声が聞こえる。
夕明も舞い終えた宮妓達に拍手を送った。
「……楽しいか、夕明殿」
「はいっ、凄く楽しいです。舞を見るの、初めてでした。皆さん、天女みたいでとってもお綺麗ですね」
「中には領巾ではなく、剣を持って舞う宮妓もいるらしいぞ」
「えぇっ? それは見てみたいですね」
「それなら、確か後の方の演目に剣舞があるらしいですよ」
蒼信が何か、巻物のようなものを取り出して、指で文字を追っている。演目の順番が書かれたものだろうか。
「本当ですか? 楽しみです」
「おや、もうすぐ雨鈴殿の番のようですね」
蒼信が水蓮宮に訪ねてくる時間がたまに雨鈴と被るため、二人は顔なじみである。
雨鈴はただの知り合いだと思っているようだが、蒼信は彼の方が年上だというのに、気の強い雨鈴に対して強く出られないと以前言っていた。
「あぁ、そういえば、宴に出ると言っていたな。……約束が守れて良かったよ」
酒を飲もうとした成蓮の手には杯が握られている。夕明は手でそれを制し、自分の杯に酒を注ぎ、口を付けるように毒見をした。
「……はい、大丈夫です。お酒、私がお注ぎしますね」
成蓮が片手に持っていた杯に毒見をした酒を注いでいく。
「あの、殿下。今日は連れてきて下さって、ありがとうございました」
酒を注ぎ終わり、夕明はにこりと笑う。
「おかげで雨鈴ちゃんが宴に出る姿を見る事ができます」
「いや、私は何も……。でも、夕明殿が一緒に宴に出てくれて良かったよ。君が一緒に居てくれる方が何倍も楽しく感じられるようだ」
酒の入った杯に口を付けつつ、成蓮が薄っすらと笑う。
「ふふっ。ありがとうございます」
そう言われると何だがくすぐったい気もするが、自分も成蓮と一緒に宴に出られて良かったと思う。やはり、誰かと一緒にいるのは楽しい気分になるものだ。
「ほら、お二人とも。雨鈴殿の出番ですよ」
蒼信の声に二人は同時に舞台上へと目線を向ける。舞台上には淡い水のような色の衣を纏った雨鈴が、桃色の衣を着た舞手とともに上がって来る。
いつもは化粧っ気がない雨鈴だが、今日は化粧をしているため、雰囲気が別人のようにも見えた。
「雨鈴ちゃん、綺麗……」
思わず呟くと、視界の端に映っていた成蓮が穏やかな表情で頷いた。舞手が舞台上の真ん中に立ち、雨鈴は少し離れた端まで歩く。
その時、視線がこちらを向いたのだ。雨鈴はぱちり、と片目を瞑り、すぐに深呼吸してから歌を歌い始める。
それに合わせて舞手も領巾を水に浮かぶ葉のように流れる仕草で舞い始めた。
雨鈴の歌声は初夏の朝のように爽やかで、伸び伸びとした声だった。
確か、「夏朝水月」という歌で、夏の朝と夜の水辺での月見は夏の中で最も涼やかで、美しいものだと昔の人が詠んだものを歌の題材にしていると雨鈴に聞いた。
「……」
友人が大舞台で活躍している姿を見たせいだろうか。感動してしまい、胸の奥が少し熱い気がする。普段の雨鈴を見ている分、歌を歌っている雨鈴は尚更、特別な姿に見えた。
歌い終えた雨鈴は舞手とともに並んで頭を深く下げて、舞台裏へと下がっていく。彼女達に送られる拍手に混ざるように、夕明も精一杯、手を叩いた。




