水蓮宮の少女
草木が風に揺れる音と鳥のさえずりだけで、それ以外は何も聞こえない。その音達はいつもの日常であるため、今はもう何かを感じることはなかった。
水に恵まれ、緑豊かと言われる楓国の中心とも言える宮殿の端に位置しているにも関わらず、この場所は人の喧騒がほとんど聞こえないため、いつも静かだった。
水蓮宮と呼ばれる小さな邸宅の主である少女、斉夕明は一人で暮らしていた。
水蓮宮の名の由来は、蓮が咲く池の真ん中に土地があり、人が数人住めるほどの邸宅が建っているからである。
邸宅の周りは垣根と様々な種類の木々で囲われているため、外から見られないように塀の役割をしていた。しかも、地が続く場所がないため、この邸宅を訪れるには、舟を漕がなければならないのだ。
宮殿の敷地内だと忘れてしまいそうなほど、奇妙な場所にあると思うが夕明にとってはお気に入りの場所でもあり、唯一の居場所でもあった。
「──ふぅ」
溜息を一つ吐いて、空を見上げる。今日は良く晴れているので、採取した薬草を干すにはちょうどいいだろう。
畑の草むしりをしていたが、途中で腰を上げて、ふっと後ろを振り向くとそこには、黒い衣を纏った顔見知りの青年がいつの間にか立っていた。
「わっ……。居たなら声をかけて下されば良かったのに。驚いたじゃないですか」
「すみません。あまりに熱中しておられるようでしたので、一区切り付いてからお声をかけようかと」
青年は苦笑したが、恐らく驚かすためにわざと声をかけなかったのだ。
彼は官吏の非行などを検察し弾劾する役割を持っている監察御史を務めており、秘密裏に動く場合もあるので、気配を消すことは手馴れたものなのかもしれない。
「こんにちは、蒼信さん。また、胃薬ですか?」
青年の名は推蒼信と言って、よく胃が痛む性格らしく、この水蓮宮を訪れては夕明の作った胃薬を貰いにくる、少々苦労人の監察御史だ。
「ははっ……。まだ、先日頂いたものが残っております。……今日は少しばかり、夕明様に厄介なご依頼をしに来ました」
「え? 何ですか? あ、ちょっとお茶の準備をするので座って待っていて下さい。ゆっくりと話を聞かせて頂きますので」
蒼信を邸宅の入口にある長椅子に座るよう促し、夕明は服に付いた土を軽く落としてから、井戸で手を洗い、家の中の厨房へと向かう。
「蒼信さーん。お茶、冷たいのと熱いの、どちらがいいですか?」
「では、熱いものを。あ、そうそう。先程、侍女の方から焼き菓子を頂きまして」
「あら、いいですねー」
声を張りながら返事をしつつ、小さな釜である風炉を使ってお湯を沸かす間に茶器と茶葉を用意した。
二人分の蓋碗に茶葉を入れ、沸いた湯を注いでから、盆に載せて、蒼信が座る長椅子の真ん中へと置いてから夕明もその隣へと腰掛ける。
「まだ、それほど暑い時期ではありませんが、ここは水辺なのでやはり他と比べると涼しいですね」
蒼信は夕明が用意した皿の上へと袋から焼き菓子を出していく。
「最近、お仕事の方はいかがですか? ……陛下が今、重篤だって聞きましたが」
「さすが、教坊にご友人がいる方は早耳ですね。……確かに、陛下の容体ははっきりと申して良くはありません。医師達が総出で掛かっていますが時間の問題でしょう」
どうぞと言ってお茶を出すと蒼信はいつも通り遠慮することなく、飲み始める。
「おや、もしかしてこの茶葉は白牡丹ですか。嬉しいですね、このような事まで気にかけて頂いて」
蓋を少しずらして、茶葉が口に入らないように飲んでいる姿を見て、夕明は小さく笑った。
「白牡丹のお茶は胃に優しいですからね。それに熱をとる効果もありますから、今の季節にちょうどいいかなと思いまして」
「はぁ……全く、他の公主達にも見習って頂きたいくらいですよ。人を気遣う心を持っておられる方は、夕明様を入れて数人程で……」
この蒼信という人物は、根は真面目だが堅物というわけではない。監察御史と言っても皆が同じように官吏や地方の行政などをずっと監視している仕事だけではなく、彼のように皇族の身辺を警護する者もいるらしい。
「ふふっ……。でも、私、公主じゃないですから」
そう言って、お茶を吹き冷まし、蒼信と同じような飲み方で口に含めていく。
「それで、今日はどのようなお話ですか?」
胡桃を砕いたものを小麦粉と混ぜて焼いてある菓子を一つ摘まみ、口へと運んだ。すると、蒼信は碗を置いて、真顔でこちらへと振り向いたのだ。
「大変、申し訳ないのですが……。あなた様に『役目』をお願いしたく……」
表情が先程とは違って、かなり暗い。余程のことがあるのだろうとすぐに察しは付いた。
「……そんなに、畏まらないで下さい。それが私の──『役目』ですから」
ふわり、と花が咲いたように夕明は笑う。
「お役目は久しぶりですが、一体どなたなのですか?」
何事もなく平然と焼き菓子を次々と食べる夕明を横目で見ながら、蒼信は安堵したように息を吐いて頷いた。
「実は……成蓮殿下でございます」
「え……」
今の帝には三人の男子と四人の女子がいる。その中で高成蓮殿下は帝へ第一に嫁いだ后のもとに生まれた。
だが、彼が生まれるよりも前に誕生した義兄が二人いるのだ。
その腹違いの義兄達は、帝に気に入られ妃として迎えられた貴族の女人をそれぞれ母に持っており、三男である成蓮殿下は二人の異母兄達からは遠巻きにされていると聞いている。
しかも、話では長子である理桂太子が次の帝にと決まってはいるものの、次兄である柳邦親王が我こそは次の帝だと主張しているせいで、太子派と親王派で宮殿内はもめにもめているらしい。
「でも、成蓮殿下ってあまり帝位に興味がないって、この前お聞きしましたよ?」
夕明が首を傾げると、その通りだと言うように蒼信が深く頷く。
「ですが、成蓮殿下とて、后の子という肩書があります故、本人は関係ないと思っていても周りが勝手に敵だと認識してしまうのです」
「まぁ……」
全く宮殿の内情は恐ろしい話ばかりだと肩を竦めるしかない。
「実は先日、殿下の食事に毒物が混じっておりまして……。日頃から毒見役を付けずに食事を摂られていたので……」
それで、倒れたということか。
「命に別状はなく、何とか回復されたのですが、最近、付けた毒見役が殿下のお食事を毒見したところ、次々と倒れてしまい……」
「毒を入れている人は特定できているのですか?」
「恥ずかしいことに、まだなのです。料理を運ぶ侍女達を見張っていますが、誰かと接触しているような証拠も見つかっていません。一体、どこで毒を入れているのか……」
蒼信は胃が痛んできたのか、腹辺りを押え始める。これでは彼の気苦労が絶えないわけだ。
「幸いなことに死人は出ておりませんが、これ以上毒見役をやるのは嫌だと皆、辞めてしまいまして……」
「それで私に回ってきたってことですね。分かりました。いいでしょう」
「本当ですか? ……ありがとうございます。本当はこのようなお役目、お願いしたくはないのですが……」
「構いませんよ。これがお役目というものですから。生かしてもらっている分、しっかりと働かないと」
夕明がそう答えると、蒼信はどことなく悲しそうな眼差しを向けてくる。
「……今、宮殿内は次の帝位を巡る争いで大きく揺れ動いています。そのような場所にお連れするのは大変気が引けるのですが……」
さらに胃が痛むのか、蒼信の顔色が悪くなってくる。
「仕方ありませんよ。今は時流の変わり目です。……それで、お仕えは今日からで宜しいでしょうか?」
「はい。夕食前に向こう岸でお待ちしますので、私が殿下のもとへご案内致します」
蒼信の言葉に夕明は頷きつつ、覚られないように溜息を吐いた。
そう、これが役目。それは分かっている。
それでもやはり思う事は一つだ。
……やっぱり、宮殿って恐ろしい所なのね。