2.人生設計が木端微塵になりました
そもそも二年にも渡ってリーシアの婚約者探しが難航していたのにはリーシアが与り知らない理由がある。
思い出してほしい。リーシアを王太子マリオンの婚約者に選んだのはマリオンの母、つまりシグルム王妃である。リーシアは王妃のお気に入りであった。優秀であることは元より、その責任感が王妃を喜ばせた。良くも悪くも子どもらしく、きらきらした王子様――マリオンは容姿が非常に優れていた――相手にどこか浮ついてはしゃぐ少女たちの中で、リーシアは一人冷静なままであった。マリオンの取り巻きに加わろうとしないリーシアに王妃が声をかけたところ、返ってきたのは「私には背負えません」というなんとも子どもらしくない応え。王子との接点がもたらす未来を漠然とでも感じ取ったその言葉こそ、王妃がリーシアに目をかけるきっかけとなった。
ところで、マリオンとその母である王妃の仲はあまりよろしくなかった。というのも、王妃は王妃としてとても優秀であり尊敬されていたが、子どもの目からは良い母ではなかった。あくまで子どもの目からは、である。忙しい公務の合間を縫って時間を作ろうとしていたことなど、子どもには分からない。寂しさを降り積もらせたマリオンは、親から関心を寄せられていないと思い込んでしまった。そして、自分を差し置いて王妃の関心を奪ったリーシアを妬んだ。一度歪んでしまった見方を修正するのはなかなか難しい。リーシアが優秀であればあるほどマリオンは劣等感を募らせていき、婚約者でありながら空々しい空気が二人の間に流れることとなった。
そんなマリオンにとって、優しく天真爛漫なミシアは清涼剤であった。言動の裏を探る必要もなく、素直に笑い、素直に怒り、素直にマリオンを頼ってくれる、とても心地の良い存在。
マリオンも、王太子としての務めは十分に理解していたつもりでいたが、感情のすべてを制御できるほど大人になりきれていなかった。彼は夢を見てしまったのだ。
さて、マリオンがリーシアとの婚約を破棄し、新しい婚約者としてミシアを連れて来た時、王妃は頭を抱えた。年頃になった息子が「僕この子がいい」と勝手に新しい恋人を連れて来たところで「はいそうですか」と頷けるはずもなかった。十年かけて後継を育て上げた苦労が水の泡である。当然諦めきれるものではなく、王妃はさりげなくリーシアの婚約者探しを妨害した。リーシアが売れ残っている限りはまだ希望があるからだ。もっとも、王妃とて何も完全にリーシアを贔屓していたわけではなく、ミシアに対して王妃の心得を叩き込むこともした。リーシアの時ほど悠長なことを言っている場合ではなかったので、その教育はともすると嫁いびりと噂されることにもなった。これに反感を示したのが他でもないマリオンである。彼の目には、王妃が自分のお気に入りであるリーシアではなくミシアを選んだマリオンへの当てつけとしてミシアを不当に扱っているように見えた。それゆえに彼はミシアに「王妃の言うことを聞く必要はない」と言い、ミシアもまたそれを真に受けて受けるべき教育の機会をみすみす逃すことになった。
そして、結局母子の心が通うことはないまま、シグルム王妃はこの世を去った。急な病であったと言う。マリオンとリーシアの婚約破棄から二年と半年が経った頃のことである。
これまで散々王妃とリーシアの責任感、義務感を取り上げてきたが、彼女たちとて人間である。
心がある。
笑うし、泣くし、怒りもする。
たとえ相手が国王陛下であろうとも。
――さすがはあの殿下の親、でしょうか。いえ、それでは王妃様に申し訳ありませんわね。
十九歳となったリーシアは謁見の間にいた。
いきなり城に呼び出された理由を聞かされて、開いた口が塞がらなくなったところである。
「いきなりファラングへ嫁げとは、それはあまりにも……いえ、陛下のご命令に不服があるわけではないのですが……」
ともに登城したリーシアの父、カトルディ侯爵も寝耳に水であったらしい。
ファラングは近年急成長を遂げている大国である。先王の代に版図拡大を掲げ、シグルムの近隣国の多くが併呑された。もちろんシグルムも例外ではない。先王の死去によってその勢いはわずかに削がれたようにも思われたが、後を継いだ王も若いながらになかなかにやり手であるらしい。新たな場所に兵を出すことはないが、既に出兵しているところについてはきっちり呑み込む算段だと言う。中途半端な侵略ほど迷惑なものはない。ただ奪うだけでなく、併呑して支配下に置いてしまえば支援することもできる。そういう意味では単なる侵略者よりはましだ、とリーシアは思ったりもするのだが、シグルムにとっては存亡の危機であり、ファラングが敵であるという事実は変わらない。その牙は今にもシグルムに届こうとしていた。
そして今リーシアに告げられたのは、その敵国ファラングへ嫁げという王命であった。
侵略に対する懐柔策として、人質を差し出すあるいは婚姻を結ぶというのは常套手段と言っていい。ファラングと姻戚関係になるのは悪い手ではない。
問題は人選である。
国力ではファラングが圧倒的にシグルムを上回っている。そんな敵国へ送り出すとなると、生半可な立場の者では交渉にもならない。王族もしくは高位の貴族の娘から、というのが順当なところであり、リーシアに話が来るのもおかしくはなかった。侯爵家は上から数えた方が早い高貴な家柄に違いないのだから。だがしかし、リーシアの他にも条件に適う令嬢はいたはずである。にも関わらず王太子に婚約を破棄された娘に敵国へ嫁げとは。
確かに、シグルム国内においてリーシアの立場は微妙である。未だ結婚相手は見つかっておらず――王妃の妨害がなくなったとは言え、その王妃のために服喪の最中である――、穀潰しの汚名を返上する見通しは立っていない。
「シグルムのため、力を貸してほしい」
そう言ってシグルム王は頭を下げた。臣下に頭を下げるなど、通常では考えられない。
しかし、だからどうした、とリーシアは思う。
王を支え、ひいては国を支えるためにすべてを差し出した十年であった。もはやその義務からは解かれた――貴族としての務めはまた別だが――というのにまだ都合良く使おうとする王家に失望せずにはいられなかった。
リーシアが十七の時まで思い描いていた人生設計はもはや跡形もない。
王妃が生きていたら、果たして許しただろうか。王妃となるための英才教育を施されたリーシアは言わばシグルムの宝だ。その価値を最もよく知っていたのは王妃である。
そのリーシアをむざむざ敵国へ嫁がせるなど、宝の価値をよく知りもしないまま商売敵に売り払おうとするようなものであった。
しかし、そんな愚行を誰も止めなかった。愚行であると、誰も知らなかったから。
マリオンはただミシアを勇気づけたかっただけだ。リーシアというあまりにも出来すぎた元婚約者の所為で自信を喪失し、かつてのように楽しげに笑うことが少なくなった恋人のために、リーシアの存在感を打ち消したかったのである。
だから父である王に進言したのだ、リーシアが適任だと。さすがに国外ともなればリーシアの噂は耳に届きづらくなるだろうし、敵国との折衝も王妃の信頼を得ていたリーシアなら上手くやるだろうと。そういう意味ではマリオンはリーシアを評価していた。ただしリーシアに対する優しい配慮は一切なかったけれども。
誰しもに悪気や悪意はなかった。
ただ少しばかり狭い視野で物事を見、判断してしまった。
いつかその代償を払わなければならないことに気づきもせず。
こうして、リーシアは生まれ育ったシグルムを後にした。
最後までリーシアを利用することしか考えていなかった王と王太子のおかげで、リーシアの愛国心は塵と消えた。
それでもリーシアの意識には「シグルムのため」という考えが強く刷り込まれている。
彼女はただシグルムの民のためにファラングへ嫁ぐことを決めたのである。
次話から一気に会話文が増量しますが、それゆえ今までの淡々とした感じからだいぶ砕けた雰囲気になりそうな。