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パンドラ  作者: 神崎みこ
4/5

鏡像

「ここ・・・・・・」


そう呟いて思い出した。

よりにもよって登校した途端倒れてしまったことに。

ろくに摂取されていない栄養は、私の頭のまわりを悪くしていく。形だけ整えて、まるで張りぼてのようだ。


「気がついた?」


カーテン越しに養護教諭の声がかかる。


「はい」


緩められていたネクタイを締めなおし、制服のシワを伸ばす。

深呼吸をしてカーテンを開ける。


「もう大丈夫?」

「はい、大丈夫です」


笑顔を整える。

何も気がつかれないように。


「ダイエットもいいけど、ほどほどにね」

「へへ、大丈夫ですよう」


曖昧に笑う。こうしていれば、周りの大人は安心する。

結局両親もこの人もわからない。擬態はいつのまにか本物の皮膚のように動いてくれる。


「お世話になりました」


頭を軽く下げて、教室へと向かう。もうそろそろ二時間目が始まる。

一時間程眠りこけてしまった自分に驚く。

保健室に通う頻度が上がれば、自動的に保護者に通知されるシステムを恐れている私は、さらに内心頭を抱える。

私は普通でいなくてはいけない。

頻繁に保健室に通うような子供ではあってはならないのだ。

あの人たちにとって。


誰もいない廊下を歩く。もう始まってしまったのか授業をする先生の声しか聞こえない空間は、生徒たちで溢れかえっている情景とは対照的過ぎて、寂しい。そこでふと気がつく。

そんな情緒的な感情を抱いてしまった自分に。

いつからだろう、と考えて、思考が途切れた。

教室の後ろのドアを静かに開ける。

授業中なので当然、クラスメートのほとんどがこちらへ振り返る。


「すみません、遅れました」

「ああ、聞いている。もう大丈夫なのか?」

「はい、もう平気です。すみませんでした」


当たり障りのない会話を交わし、詮索されることを防ぐ。もっともただ一教科を受け持っているだけの先生が、それほど私という生徒に興味を抱くはずはない。あの、先生なら、少しだけ私も考えなくてはいけないだろうけど。

すでに興味を失ったクラスメートが黒板のほうへ向き直るのに、一人だけこちらを射るように鋭く睨みつけてくる人間がいた。



彼、だ。

わからない。

屋上での会話も、教室での視線も私を戸惑わせることばかり。

こんな人は今までにいなかった。

私じゃ対処できない。

避けるようにして行かなくなった屋上に、彼は今も一人で存在しているのだろうか。

気がつくと、彼のことを思うために自分の時間を費やしていることに気がつく。

かかわらないでいよう。

私が私でいるために。

その日の授業は、上の空で、何一つ頭の中には入っていかなかった。




授業が終わりいつもの日課である図書館へと急ぐ。

高校の図書室は下校時刻が決まっているため長居できないけれども、市の図書館ならば九時まではいられる。だからこのあとは、何時も通りそちらへ行く予定だ。

できるだけ、家へと足を踏み入れる時間は遅らせたい。

共働きの家では誰かがいるはずではないけど、それでもあの空間に存在し続けるのは少し息苦しい。


「おい」


振り返ると、あいかわらず綺麗に染められた金髪の彼がいた。

予想外の行動。

戸惑っている私をよそに、彼は素早く私との距離を縮める。

彼が右手を上げた瞬間、頭の中が真っ白になった。


イヤダ。

コワイ。


それだけが胸の中を占領していき、自分の体を抱きしめ震えてしゃがみこむ。


「おまえ」


掠れた、驚いたような彼の声が届く。

この人は、あの人たちじゃない。

そんなことはわかっている、けど。

次に彼の声が届いたときには、彼に抱きかかえられていた。


「軽いな」


当たり前のような顔をして私を運ぶ彼。


「どうして?」

「さあて」


彼の真意がつかめないまま、彼の腕の中で揺られる。

わからない、のに、こうしていることが気持ちいいだなんて、どうして思ってしまうのだろう。

ずっと貝のように押し黙ったままの私が連れて行かれたのは彼の住処だったらしい。

壊れ物でも扱うかのようにそっとソファーに下ろされた私は、なんの抵抗もしなかった自分と、あっさりと他人を自分のテリトリーに入れる彼の両方に驚いていた。慣れた手つきで、冷蔵庫をあけ、ミネラルウォーターをグラスへと注ぐ。


「ほら、飲め。おまえ紅茶もコーヒーも嫌いだろ?」


いきなり誰も知らない嫌いなものを当てられ驚く。


「見てりゃわかんだよ、それぐらい」


見られていても、ばれないことがほとんどだよ。

そんな言葉は喉を越えて声にはならない。


「どうして?」


二度目の問いかけ。

彼が私のことを知ろうとすることそのものが理解できない。

私は、彼の世界とは全く関係がない人物なのに。


「気になるから」


私の問いかけにもあっさりと答える。

わからない。

どうしてそんなに他人が気になるのか。


「それ以上でも以下でもねーよ」


十二分に育った足を無造作に投げ出す。

その仕草一つ一つが見たこともない映像として私の視界へと飛び込んでくる。

そのたびに、何か今までとは違う小さな波紋が浮かんでいく。ざわついた心はどこか浮き足立っているのかもしれない。


「おまえ大丈夫か?」


真摯な瞳がこちらを伺う。


「大丈夫」


何について問われたのかを本当は知っている。

もう限界に近づいているのかもしれない、そんなことは自分自身が一番理解している。

臆病な私は今のままの平衡を失いたくないだけ。

また嵐のような生活の中に身をおきたくない。

だから、じっとしている。

ずっとこのままで、あと少し。本当にあと少しだから。


じっと逸らすことなくこちらを見詰める彼は、何かを考えこむ。


「おまえ図書館で勉強してんだよな」

「そう、だけど」


そんことまで知っているのかと、言葉には出さないけれども改めて驚かされる。


「よし、じゃあここで勉強しろ」

「なん、で?」


混乱する。

彼の良くわからない提案がますます私の中に波紋を広げていく。


「それに、一人暮らしだから安心しろ」


私の混乱の源はそんなところに由来しているわけじゃないけれども、彼のその言葉で改めて部屋を見渡す。

一人暮らしにしては部屋数が多く、またどこか高級感を漂わせている。室内の調度はセンスがよく、必要最小限のものが吟味されて置かれているようだ。それは、彼の過度な装飾品と違う印象を私に与える。目の前の彼と、あまりにちぐはぐで、混乱する。

そして、そんなことを知りたがっている私にさらに戸惑う。彼に出会う前の私なら、こんなことは思わない。

私が私でいられない。


「某大物政治家の隠し子」


彼からはおよそ出てこなさそうな単語が出てきて、今度こそ本当に驚く。

冗談めかした言い方だけれど、それは真実のごく一部を含んでいる、そう思った。

そう思った瞬間、全てが腑に落ちる。

一人で暮らすには広い部屋と彼のまとっている雰囲気。

彼の方を凝視して、何かをすくいとろうとする。そんなことを私がするだなんて、という自嘲すら思い浮かばない。


「って言ったら納得する?」


彼は何かを隠すような笑顔を作る。

波紋が広がる。大きな石を静かな湖面に投げ込んだように。


この表情を私は知っている。

漠然とした思いはやがて確信に変わり、全てが氷解する。

目の前にいるのは鏡に映った自分。

毎朝暗示をかけるように表情を作り出している私。


彼との距離が縮まり、自分の姿が重なる。

会話を交わすように伝え合う体温は、ひどく冷たい。


泣いていたのかもしれない。

笑っていたのかもしれない。


側にいるただそれだけで心が落ち着くことをこの日初めて知った。



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