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パンドラ  作者: 神崎みこ
1/5

邂逅

「飛び降りるんなら他をあたってくれ」


錆付いた屋上のフェンスに頭をもたれていたら、突然背後から声がした。

立ち入り禁止のこの場所に、まさか人がいるだなんて思わなかったから、ものすごい勢いで振り返ってしまった。

そして、見つけるんじゃなかったって思い切り後悔した。

見知らぬ声の主は、明らかに校則違反の金髪とちぎれちゃいそうなほどたくさんぶら下げたピアスをしている少年、だった。

(初めて見る)

そう心の中で呟いて、でもすぐに否定する。

同級生すら満足に識別していない私の判断なんて、まるであてにならないから。


「そんなつもりじゃないから」


消えてしまいそうなほど小さな声で告げる。

どこかで、それができたら楽になるのかもしれない。そう思わないわけじゃないけど、生憎とそんな度胸は持ち合わせていない。


(大丈夫、今日はちゃんとごはん食べれた、から)


私が「普通」の行動をしている限りは母親は満足する。

あたりまえのように起きて、あたりまえのようにごはんを食べればいい。あとで私が何をしているかだなんて、あの人は興味はないのだから。


「あ、そう」


興味なさそうに呟いて、再びもとの体勢、昼寝へと戻る。


 私も他人に興味はないので、フェンス越しにグランドを覗く。

フェンスの向こうに、グラウンドの上を動き回る小さな人の姿が見える。体育の授業だというのに楽しそうな声が聞こえてきそうで、耳をふさぎたくなる。

まるで、別世界のようだ。


あちらからこちらは、見えていない。

その感覚が気持ちがいい。

誰にも気がつかれない場所。邪魔されない時間。監視されない空間。


今日は先客がいるけれど。


「おい、その手首どうしたんだ?」


彼から声がかかったような気がするが、気がつかないふりをする。

そして、そのままぼんやりと雲を見つめる。


「おい」


突然耳元で声がした。

いつのまにか、彼が真後ろに立っていたらしい。

これほど他人と近づいたのはいつかぶりだろうか。


「返事ぐらいしろや」


私から答えが発せられないのに、イラついたのだろうか声を荒げる。

他人のことにこんなにも感情を乱されるだなんて、感受性が豊かな人なのかもしれない。


「別に」


幾重にも切り傷がついた手首には、軽くファンデーションが塗ってある。

普通の人は気がつかない、はずだ。


「別に、じゃねーだろ。こんな傷だらけで」


私の手首を掴み、見せ付けるようにして問いただす。


わからない。


どうしてそんなことにこだわるのか。


「傷。単なる。自分でつけただけ」


手首をつかまれたまま、視線はグランドへ戻す。


「は?ってお前感情ねーの?」


感情?


「優等生でいい子ちゃんの同級生がリストカッターねぇ」


初めて心底驚いて彼のほうへと振り返る。

まさか、この人が同級生だったなんて。


「ふん、初めて顔が動いた」

「あなた、同級生なの?」


彼の発言が何を意味するのかあえて無視をする。

そんなことよりも、彼の言葉を反芻する。

これほど目立つ人が同級生だとしたら、いくら私でも記憶の片隅にでもあっておかしくないはずなのに。


「おまえ、知らなかったのか?」

「うん」


今度は彼のほうが驚いた顔をした。

この人は喜怒哀楽がはっきりしているらしい。

そんなに動かして筋肉が疲れないんだろうか。


私は周りに合わせて作っているだけで、疲れ切ってしまう。

笑うべきときに笑い、悲しむべきところできちんと悲しい顔をする。

だから周囲とは浮きもせず沈みもせずきちんとやっていけている。


それはとても、私にとっては疲れることだけど。



「割と授業でてんだけどな。俺」

「そう、ごめんなさい。知らなかった」


誰だろう、後でクラスメートに聞いてみるのもいいかもしれない。

私が、そんなことに興味を示すのはとても珍しい。


「お前って、そんなに無表情だっけ?」


先程の疑問を再び口にする。

彼の知る私と、今の私の間には齟齬があるらしい。

そんなことはこちらの知ったことではないけど。


「もう行くから」


彼の手を振り払う。

このままこの人といては息抜きができない。

とても貴重な時間だったのに。


胃が痛くなる。


(今日は、普通の私でいられるだろうか)

(お母さんは、私を怒らないだろうか)


無意識に右手をおなかにあてる。

いつのまにか痛くなってきたあたりに、じんわりと体温が伝わっていく。

ひどく息苦しい。

自分の周りに濃い霧が立ち込めているような、そんな気分。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。


逃げ出したい、逃げ出せない。


このままでいよう。


ずっとこのままで。誤魔化した心が、不安定な土台の上で落ち着いていく。

考えることを放棄した私に後から声がかかる。


「明日も来るのか?」


彼がどういう答えを望んでいるのかわからない。

けれども、私は私の生活リズムを変えるつもりはない。

だけど、そんなことを彼に知らせる必要はない。

一瞬だけ彼のほうを振り向いて、そのまま無言で立ち去った。


「明日も来るよな」


念を押したような声が聞こえる。

彼の声が耳に残る。

現実と夢の境目が曖昧なまま、久しぶりに感じた現実の人の気配に戸惑う。


彼が私の中の箱を開ける、のかもしれない。

今日はじめて認識した人なのに、漠然とそんな考えがよぎっていった。

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