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その手紙、うちのヤギが食べました

掲載日:2026/05/17

雨の日の配達は嫌いだった。


石畳は滑る。

外套は重くなる。

靴の中はじわじわ濡れる。


そして何より、紙がしける。


「しけった紙、きらい」


八木雄星――こちらの世界ではユウセーと名乗っている――の肩の上で、黒い毛玉が不満そうに言った。


黒ヤギである。


ただし、普通のヤギではない。


手のひらより少し大きいくらいの、小さな小さな黒ヤギだ。赤い目をしていて、角はまだ短い。見た目だけなら、ぬいぐるみのようにも見える。


性格は最悪だった。


「紙はサクサクがいい。あと悪口の味がすると最高」


「人の手紙をスナック感覚で語るな」


ユウセーは雨除けのフードを深く被り直した。


反対側の肩には、白い毛玉が乗っている。


こちらは白ヤギ。


黒ヤギと同じくらい小さく、丸く、ふわふわしている。金色の目をぱちぱち瞬かせながら、配達鞄をじっと見ていた。


「ユウセー。今日のお手紙は、かなしい味がします」


「まだ食うなよ」


「食べません。まだ」


「その“まだ”が怖いんだよ」


白ヤギは、きょとんとした顔をした。


「でも、かなしいままだと、かわいそうです」


「だからって勝手に食べるな。俺の信用が死ぬ」


「信用はおいしいですか?」


「食べ物じゃない」


黒ヤギが鼻で笑った。


「ユウセーの信用、もうだいぶ薄味じゃん」


「誰のせいだと思ってんだ」


ユウセーはため息をついた。


ここは異世界都市レインバルト。

一年の半分は雨が降ると言われる、灰色の街だ。


ユウセーはそこで、フリーの運び屋をしている。


ギルドに所属していない。

貴族の専属でもない。

商会にも属していない。


理由は簡単だ。


どこかに所属すると、こいつらが問題を起こした時に責任を取らされるからである。


「フリー最高。怒られても俺だけで済む」


「でもこの前、出禁になりました」


白ヤギが言った。


「どこだっけ?」


「南門の郵便詰所です」


「あれはお前が受付票食ったからだろ」


「おなかが空いていたので」


「食べるな」


「受付票、ちょっと甘かったです」


「感想もいらん」


ユウセーは配達鞄を押さえた。


今日の依頼品は一通の手紙。


封蝋付きの古い封筒。

差出人は、エドガー・フォルン。

届け先は、ミナ・フォルン。


依頼主は町外れの診療所の老婆だった。


手紙の説明は、こうだ。


――死んだ男が娘に残した、最後の遺書。


ただの手紙なら、そう珍しい依頼でもない。


ただの手紙ならば。


この世界では、強い後悔や願いが込められた手紙は、稀に妙な現象を起こす。


燃えない手紙。

開かない封筒。

宛先が勝手に変わる便箋。

夜になると泣き声がする遺書。


普通の運び屋なら、滅多に触れないような郵便物だ。


だがユウセーの手元には、なぜかそういう面倒な手紙ばかり集まってくる。


ユウセーは他人の事情に興味がない。


誰が誰を恨んだとか。

誰が誰を愛したとか。

そういう重たい話は、なるべく遠くに置いておきたい。


ただ、報酬が良かった。


そして断ると老婆がものすごく悲しそうな顔をした。


後味が悪かった。


だから受けた。


「……俺、こういうところがダメなんだよな」


「ユウセーはめんどくさがりなのに、めんどくさい方へ歩きます」


白ヤギが言った。


「それ、たぶん悪口だぞ」


「ほめました」


「もっと明るい顔で褒めてくれ」


黒ヤギが配達鞄をつつく。


「なあ、それ食っていい?」


「ダメ」


「ちょっとだけ」


「ダメ」


「端っこだけ」


「ダメ」


「匂いだけ」


「それはまあ……」


黒ヤギは封筒に鼻を近づけた。


次の瞬間、赤い目が細くなる。


「……うえ」


「なんだよ」


「この手紙、変な匂いする」


ユウセーの足が止まった。


嫌な予感がした。


こういう時の黒ヤギは、だいたい当たる。


「変な匂いって?」


「甘いふりして、底がどろどろ。焦げたウソみたいな匂い」


「また面倒なやつか……」


「たぶん遺書じゃないよ、これ」


雨音が強くなった。


ユウセーは濡れた空を見上げる。


「……帰るか」


「だめです」


白ヤギが即答した。


「まだ届けてません」


「いや、でも危険物かもしれないし」


「届けるのが運び屋です」


「正論やめろ」


黒ヤギが嬉しそうに尻尾を振った。


「行こ行こ。ウソの手紙、食べたい」


「食べる前提で話すな」


ユウセーは渋々歩き出した。


ミナ・フォルンの住むアパートは、旧市街の奥にあった。


古い二階建ての建物。

壁は雨で黒ずみ、窓枠は歪んでいる。

階段はぎしぎし鳴った。


依頼書に書かれた部屋番号の前で、ユウセーは軽く扉を叩く。


返事はなかった。


もう一度叩く。


「……どなたですか」


細い声がした。


「運び屋です。ミナ・フォルンさん宛ての手紙を届けに来ました」


しばらく沈黙。


やがて、扉が少しだけ開いた。


現れたのは、二十歳前後の女性だった。


顔色が悪い。

痩せている。

目の下に濃い隈がある。


だが、それ以上に印象的だったのは、彼女が扉の隙間から外を恐れるように見ていたことだった。


「……父から、ですか」


「エドガー・フォルンさんからと聞いています」


ミナの顔が強張った。


嬉しそうではなかった。

悲しそうでもなかった。


怖がっていた。


ユウセーは少しだけ眉を寄せる。


「受け取り拒否もできますけど」


ミナは首を横に振った。


「いえ……ください」


ユウセーは封筒を差し出した。


ミナの指が、震えながら封筒に触れる。


その瞬間だった。


「メェ!」


黒ヤギが飛んだ。


「おい!」


遅かった。


黒ヤギはミナの手から封筒を奪い、床に着地すると、そのまま封蝋ごとむしゃむしゃ食べ始めた。


「あっ……」


ミナが息を呑む。


ユウセーは額を押さえた。


「……すみません。うちのヤギが」


「うっま……いや、まずっ! うわ、なにこれ! まずい!」


黒ヤギが床を転がった。


「苦い! 黒い! でも奥に甘いのある! 変な味!」


「味の実況するな!」


ミナは蒼白になっていた。


「そ、その手紙は……父の……」


「本当にすみません。弁償を――」


「待って」


黒ヤギが急に真顔になった。


子供のような声なのに、その瞬間だけ空気が冷えた。


「これ、遺書じゃない」


ミナの肩が震えた。


ユウセーは黙って黒ヤギを見る。


黒ヤギは口元についた紙片を舐めた。


「この手紙に入ってた一番強い言葉は、“許さない”だよ」


雨音だけが響いた。


ミナは唇を噛んだ。


「……やっぱり」


「やっぱり?」


ユウセーが聞くと、ミナは小さく笑った。


泣きそうな笑みだった。


「やっぱり、父は私を愛してなんかいなかったんですね」


黒ヤギが耳をぴくりと動かした。


白ヤギはミナをじっと見つめていた。


ミナは扉を大きく開けた。


「中へどうぞ。……手紙を食べた責任、取ってください」


「それはまあ、はい」


ユウセーは肩を落とした。


「お前のせいだからな」


「ウソの味がしたから仕方ないじゃん」


黒ヤギは悪びれなかった。


部屋の中は簡素だった。


机。

椅子。

寝台。

古い棚。


部屋の隅には、火の消えた暖炉があった。


壁には小さな額縁が一つ。

そこには若い男と、幼い少女の絵姿が入っていた。


男は笑っていない。

少女も笑っていない。


おそらく父娘なのだろう。


ミナは椅子に座ると、ぽつりぽつりと話し始めた。


父エドガーは、昔、ファルン商会の商会長だった。


真面目で厳しい男だった。

妻が亡くなってから、娘であるミナを一人で育てた。


だが、優しい父ではなかった。


褒めない。

抱きしめない。

目も合わせない。


ミナが何をしても、父はただ一言だけ言った。


「間違えるな」


その言葉が、ミナの記憶にずっと残っていた。


「私は父に嫌われていると思っていました」


ミナは自分の指先を見つめた。


「母が死んだのは、私を産んだせいだから」


「……」


「父は私を見るたび、母を思い出していたんだと思います。だから、私を許せなかった」


重い。


ユウセーはそう思った。


こういう話が一番苦手だ。


慰め方が分からない。

何を言えばいいかも分からない。

そもそも、他人の家庭事情に首を突っ込むのが嫌だった。


だが、逃げるには少し遅かった。


黒ヤギが手紙を食ったからである。


「半年前、父は病気で亡くなりました」


ミナは続ける。


「最期も、私は会えませんでした。診療所の方から、“お父様はあなたに手紙を残した”と聞いて……それで、今日まで待っていたんです」


「半年も?」


「手紙が、なかなか見つからなかったそうです」


白ヤギが小さく鳴いた。


「迷子の手紙です」


「迷子?」


「届けたいのに、届けられない言葉は、迷子になります」


黒ヤギが鼻を鳴らす。


「でもこれ、迷子っていうより、ぐちゃぐちゃだよ」


ユウセーは黒ヤギを見た。


「中身、分かるのか?」


黒ヤギは胸を張った。


「オレはウソとか本音とか、隠した言葉を食べるの得意だからな!」


「自慢することじゃない」


「さっき食べた手紙には、表の言葉と裏の言葉があった」


「表と裏?」


黒ヤギは床にぺっと黒い文字の塊を吐き出した。


ミナが息を止める。


黒い文字は床の上で蠢き、やがて文章になった。


――お前を許さない。

――お前がいなければ。

――私は、あの人を失わなかった。

――お前の顔を見るたび、私は。


ミナの顔から血の気が引いた。


「……やっぱり」


その声は、小さかった。


だが部屋の中に深く沈んだ。


白ヤギが慌ててぴょんぴょん跳ねる。


「ちがいます。まだです。まだ全部じゃないです」


「でも、父はそう思っていたんでしょう?」


「思っていました」


白ヤギは正直に言った。


ミナが目を伏せる。


ユウセーは思わず白ヤギをつまんだ。


「言い方」


「でも、本当です」


「本当でも刺し方ってもんがあるだろ」


黒ヤギが床の文字を前足でつついた。


「でもさ。これだけじゃないんだよな」


「どういうこと?」


ミナが顔を上げる。


黒ヤギは首を傾げた。


「変なんだよ。この手紙、ウソは苦い。本音は黒い。でも奥に、なんか甘いのが残ってる」


白ヤギの金色の目が光った。


「届いていない想いです」


ミナは困惑した。


「想い……?」


白ヤギは床の黒い文字の周りを歩いた。


「黒ちゃんは、隠した本音を食べます」


「黒ちゃんって呼ぶな」


黒ヤギがむくれた。


「私は、届かなかった想いを食べます」


白ヤギは自分の胸を張った。


「食べると、届けられます」


ミナはぽかんとしていた。


ユウセーは補足する。


「俺もよく分かってないんですけど……黒い方は、隠された本音を暴く。白い方は、本当は伝えたかった感情を相手に届ける。そういう感じです」


「感情を……届ける?」


「たぶん」


「たぶん?」


「すみません。俺も被害者側なので」


白ヤギが不満げに鳴いた。


「被害者じゃないです。配達員です」


「俺は普通の荷物だけ運びたい」


「でもユウセーは、いつも変な手紙を拾います」


「拾いたくて拾ってない」


黒ヤギがにやにやした。


「悪運つよいよな」


「それだけは否定できない」


ミナは、床に浮かぶ父の黒い言葉を見つめていた。


その顔に浮かぶのは、怒りではなかった。


悲しみでもない。


長い間、覚悟していた傷が、ようやく本当に刺さったような顔だった。


「……もういいです」


ミナは言った。


「父の本音が分かったなら、それで」


白ヤギが首を振った。


「まだ届いてません」


「何が?」


「お父さんが、一番隠したかった言葉です」


その時だった。


部屋の扉が乱暴に叩かれた。


「ミナ! いるんだろう!」


男の声。


ミナの身体がびくりと跳ねた。


ユウセーは嫌そうに扉を見る。


「……誰です?」


「父の元同僚のグレイさんです。今は独立してグレイ商会の商会長をしています」


「面倒な雰囲気がプンプンする」


扉が開く前に、黒ヤギが小声で言った。


「この声、くさい」


「今度は何味だよ」


「金の味」


扉が開いた。


入ってきたのは、恰幅の良い中年男だった。立派な外套を着て、手には杖を持っている。


男はユウセーを見ると、眉をひそめた。


「誰だ、お前は」


「運び屋です」


「運び屋? 余計な者を入れるな、ミナ」


ミナは俯いた。


「すみません、グレイさん」


グレイと呼ばれた男は、部屋の中を見回した。


そして床に浮かぶ黒い文字を見た瞬間、顔色を変えた。


「これは……」


黒ヤギが小さく笑った。


「お、焦げた」


ユウセーは肩の上の黒ヤギを押さえた。


「黙ってろ」


グレイは咳払いした。


「ミナ、その手紙は受け取ったな?」


ミナは答えない。


グレイの目が鋭くなる。


「受け取ったのかと聞いている」


「……はい」


「ならば確認しろ。エドガーは遺産について書いていたはずだ」


ユウセーは少しだけ目を細めた。


「遺産?」


ミナが小さく頷く。


「父はある土地を所有していました。今は使われていませんが、価値があるそうです」


グレイは笑った。


「価値があるどころではない。あの土地は再開発の中心になる。だが、エドガーは頑固でね。生前、売却を拒み続けた」


黒ヤギがユウセーの耳元で囁く。


「こいつ、すっごくまずそう」


「それ、だいたい悪人だよな」


「たぶん」


グレイはミナに近づいた。


「エドガーの手紙には、土地の譲渡について書かれているはずだ。見せなさい」


「……手紙は」


ミナは言葉に詰まった。


ユウセーはそっと目を逸らす。


黒ヤギは口笛を吹こうとして失敗した。


グレイの顔が険しくなる。


「まさか、失くしたのか?」


「……食べました」


「何?」


ミナはユウセーの肩を見る。


グレイも見た。


黒ヤギがにこっと笑う。


「ごちそうさま」


数秒の沈黙。


グレイの額に青筋が浮かんだ。


「ふざけるな!!」


「いや、俺もそう思います」


ユウセーは即座に頭を下げた。


「ですがその手紙、遺書ではなかったようで」


「黙れ、運び屋風情が」


グレイは杖を床に打ちつけた。


床に青白い文字が浮かぶ。


魔法陣。


ユウセーは一歩下がった。


「うわ、魔法使うタイプかよ」


「この場で見たことを忘れろ」


グレイの声が低くなる。


「そして消えろ」


魔法陣から、鎖のような光が伸びた。


ユウセーはとっさに避けようとした。


だが遅い。


光の鎖が腕に絡みつく。


「痛っ」


「これは契約魔法です」


白ヤギが言った。


「契約書を身につけている間だけ使える魔法です。壊せば解除できます」


「契約書はどこにある?」


黒ヤギがグレイの胸元を見た。


「あそこ」


グレイの内ポケットから、紙の匂いがした。


黒ヤギが目を輝かせる。


「食っていい!?」


「今だけ許す!」


「やった!」


黒ヤギが飛んだ。


小さな黒い影が、グレイの胸元へ突っ込む。


「なっ!?」


黒ヤギは内ポケットから一枚の書類を引き抜くと、着地する前に半分食べた。


光の鎖が砕ける。


「まずっ! でもいい悪意!」


床に黒い文字が溢れ出した。


――エドガーの署名を偽造する。

――娘には遺書として渡せばいい。

――土地を得た後は、あの女も黙らせる。

――商館は私のものになる。


ミナが息を呑んだ。


「そんな……」


グレイの顔が歪む。


「化け物どもが……!」


ユウセーは腕をさすった。


「なるほど。やっと分かってきた」


「何が分かった」


グレイが睨む。


ユウセーは面倒くさそうに言った。


「つまり、あんたがエドガーさんの手紙を偽造した。で、本物の遺書を隠した。土地を奪うために」


グレイは答えなかった。


沈黙は、肯定に近かった。


黒ヤギが床の文字をぱくぱく食べる。


「こいつの本音、脂っこい」


「食レポやめろ」


白ヤギは部屋の隅を見ていた。


暖炉。


火の消えた、古い暖炉。


「ユウセー」


「今度は何?」


「本物のお手紙、そこにいます」


ミナが立ち上がった。


「暖炉……?」


グレイが叫ぶ。


「触るな!」


ユウセーは即座に暖炉へ向かった。


灰の中に手を突っ込む。

熱はない。


奥に、金属の筒があった。


取り出すと、中には焼け焦げた封筒が入っていた。


半分以上燃えている。


だが、封蝋は残っていた。


エドガー・フォルンの印。


ミナが震える手で受け取る。


「父の……」


グレイが杖を振り上げる。


「渡すな!」


黒ヤギがその杖に噛みついた。


「やーだ!」


「離せ!」


「やーだ!」


黒ヤギは子供のようにぶら下がった。


ユウセーはその隙にミナの前へ立つ。


「読めますか?」


ミナは封筒を開けようとした。


だが、紙は焦げて脆く、文字の多くが読めなくなっていた。


ミナの顔が歪む。


「……読めない」


白ヤギが前に出た。


「だいじょうぶです」


「でも、燃えて……」


「言葉は燃えても、想いは残ります」


白ヤギは焼けた手紙の端を、そっと食べた。


今度は、黒ヤギの時とは違った。


白い光が広がる。


柔らかく、あたたかい光だった。


部屋の雨音が遠くなる。


ミナの目が見開かれる。


白ヤギの金色の目が、静かに輝いた。


「届けます」


その瞬間。


ミナの耳元で、男の声がした。


低く、不器用で、掠れた声。


『ミナ』


ミナが息を止めた。


『私は、お前に何も言えなかった』


部屋の中にいた全員が、動きを止めた。


グレイさえも。


『お前を見るたび、妻を思い出した。お前のせいではないと分かっていた。それでも、私は弱かった』


ミナの目から涙が溢れた。


『お前を責めることでしか、悲しみに耐えられなかった』


白い光の中で、焦げた手紙の文字が浮かび上がる。


『すまなかった』


ミナの膝が震える。


『私は父親になれなかった。だが、それでも』


声が一度途切れた。


そして。


『お前を愛していた』


ミナは両手で口を覆った。


『一度も言えなかった。抱きしめることもできなかった。笑いかけることさえ、怖かった』


『こんな言葉で許されるとは思わない』


『だが、あの商館も土地も、すべてお前に残す』


『あそこには、お前の母と私が、最初に店を構えた古い商館がある』


『売らなくていい』


『逃げてもいい』


『壊してもいい』


『お前の好きに生きなさい』


白ヤギが、最後の紙片を飲み込んだ。


『ミナ』


声が優しくなる。


不器用で、遅すぎる優しさだった。


『生まれてきてくれて、ありがとう』


光が消えた。


部屋には雨音が戻った。


ミナは泣いていた。


声を殺すこともできず、子供のように泣いていた。


ユウセーは何も言わなかった。


何を言っても、邪魔になる気がした。


黒ヤギも黙っていた。


珍しく。


グレイが一歩後ずさる。


「馬鹿な……そんな手紙……」


白ヤギが振り返る。


「あなたの中にも、届かなかった言葉があります」


グレイの顔が引きつった。


「黙れ」


「でも、それはとても黒いです」


黒ヤギがにやりと笑う。


「じゃあオレのごはんだ」


グレイは逃げようとした。


しかし扉の外には、いつの間にか人影があった。


診療所の老婆だった。


そして、二人の市警隊員。


老婆は静かに言った。


「やはり、あなたでしたか。グレイ商会長」


グレイの顔が歪む。


「なぜここに」


「本物の遺書が見つからない時点で、怪しいとは思っていました。だから、この運び屋さんに依頼したのです」


ユウセーは目を丸くした。


「え、俺、巻き込まれる前提だったんですか?」


老婆は微笑んだ。


「あなたは、妙な手紙に縁があると聞いていましたので」


「最悪の評判だ……」


黒ヤギが胸を張る。


「有名じゃん!」


「嬉しくない」


市警隊員がグレイを拘束する。


グレイは最後まで喚いていた。


偽造だ。

陰謀だ。

化け物の仕業だ。


だが床に残った黒い文字と、偽造契約書の破片がすべてを語っていた。


黒ヤギはそれを見ながら、少し残念そうに言った。


「もっと食べたかった」


「腹壊すぞ」


「悪意で?」


「たぶん」


白ヤギはミナのそばにいた。


ミナは泣き腫らした顔で、白ヤギを見つめる。


「今のは……本当に父の言葉だったんですか?」


白ヤギは首を横に振った。


「言葉ではありません」


ミナの顔が曇る。


白ヤギは続けた。


「お父さんが、本当は届けたかった想いです」


ミナは胸に手を当てた。


「……そう」


「許さなくてもいいです」


白ヤギが言った。


ユウセーは少し驚いた。


白ヤギは、いつもの子供っぽい顔で言った。


「でも、受け取るかどうかは、ミナが決めていいです」


ミナはまた泣きそうになった。


「ありがとう」


白ヤギは嬉しそうに鳴いた。


「どういたしまして」


黒ヤギが横から割り込む。


「オレも手紙食った!」


「お前は謝れ」


ユウセーが言うと、黒ヤギはしぶしぶ頭を下げた。


「ごめんなさい」


ミナは少しだけ笑った。


本当に少しだけだったが、それはこの部屋に来てから初めて見る笑顔だった。


事件の後始末は、市警隊が引き受けた。


偽造契約書。

隠された遺書。

グレイ商会長による土地詐取の疑惑。


話は思った以上に大きくなりそうだった。


ユウセーはそれ以上関わりたくなかった。


「じゃ、俺はこれで」


「お待ちください」


老婆に呼び止められる。


ユウセーは嫌な顔をした。


「まだ何か?」


「報酬です」


「あ、それは受け取ります」


黒ヤギが笑う。


「切り替え早っ」


老婆は小さな革袋を差し出した。


中には約束より少し多い銀貨が入っていた。


ユウセーは中身を確認し、頷く。


「確かに」


老婆は言った。


「あなたに頼んでよかった」


「俺はただ届けただけです」


「それが難しいのです」


ユウセーは返答に困った。


褒められるのは苦手だ。


怒られるよりはマシだが、どうにも居心地が悪い。


「……まあ、次からは普通の荷物でお願いします」


老婆は微笑むだけだった。


ミナが近づいてきた。


「ユウセーさん」


「はい」


「父の手紙を届けてくれて、ありがとうございました」


ユウセーは頬を掻いた。


「いや、食ったのはこいつらなので」


「でも、届きました」


ミナはそう言った。


「やっと」


ユウセーは少しだけ目を伏せた。


他人の人生に深く関わるのは嫌いだ。


面倒だし、重いし、責任が発生する。


けれど。


こういう顔をされると、逃げにくい。


「……どうも」


それだけ言って、ユウセーは部屋を出た。


外に出ると、雨は上がっていた。


レインバルトでは珍しいことだった。


灰色の雲の切れ間から、薄い光が差している。


黒ヤギが肩の上で伸びをした。


「今日はいっぱい食べた!」


「食うなって言ったよな?」


「結果的によかったじゃん」


「結果論で生きるな」


白ヤギは反対側の肩で、満足そうに目を細めていた。


「今日の想いは、あたたかかったです」


「そうか」


「でも、少ししょっぱかったです」


「涙味?」


「たぶん」


黒ヤギが鼻を鳴らす。


「人間って面倒だよな。嫌いって思いながら、好きだったりするし。許さないって思いながら、会いたかったりするし」


「まあ、人間だからな」


ユウセーは歩き出した。


石畳の水たまりに、ぼんやりと自分の顔が映る。


可もなく不可もない顔。

どこにでもいそうな男。


異世界に来ても、特別な英雄にはなれなかった。


戦えない。

魔法も使えない。

目立ちたくない。

面倒事は嫌い。


それなのに、なぜか変な手紙ばかり引き寄せる。


「ユウセー」


白ヤギが言った。


「次はどこへ届けますか?」


「仕事があればな」


黒ヤギが楽しそうに跳ねた。


「ウソの手紙がいい!」


白ヤギも言った。


「かなしい手紙がいいです」


「普通の手紙がいいです」


ユウセーは即答した。


二匹は同時に首を傾げる。


「普通って、おいしい?」


「おいしくないと思う」


「じゃあいやです」


「仕事を選ぶな」


ユウセーはため息を吐いた。


だが、足取りは少しだけ軽かった。


配達鞄は空になった。

依頼は終わった。

報酬ももらった。


なら今日は帰って寝る。


そう思った瞬間、路地の向こうから声がした。


「運び屋さん!」


ユウセーは聞こえなかったふりをした。


「運び屋さん! そこの、ヤギを連れた運び屋さん!」


黒ヤギが笑う。


「呼ばれてるぞ」


「人違いだ」


白ヤギが言う。


「この街でヤギを連れた運び屋は、ユウセーだけです」


「余計な事実を言うな」


声の主は、若い市警隊員だった。


息を切らしながら駆け寄ってくる。


「よかった、まだ近くにいて! 実は奇妙な封書が見つかりまして……」


ユウセーは空を見上げた。


ついさっきまで晴れかけていた空に、また灰色の雲が流れてくる。


「……帰りてぇ」


黒ヤギが嬉しそうに鳴いた。


白ヤギも小さく鳴いた。


そしてユウセーは、今日二度目の面倒事に巻き込まれることになった。

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