その手紙、うちのヤギが食べました
雨の日の配達は嫌いだった。
石畳は滑る。
外套は重くなる。
靴の中はじわじわ濡れる。
そして何より、紙がしける。
「しけった紙、きらい」
八木雄星――こちらの世界ではユウセーと名乗っている――の肩の上で、黒い毛玉が不満そうに言った。
黒ヤギである。
ただし、普通のヤギではない。
手のひらより少し大きいくらいの、小さな小さな黒ヤギだ。赤い目をしていて、角はまだ短い。見た目だけなら、ぬいぐるみのようにも見える。
性格は最悪だった。
「紙はサクサクがいい。あと悪口の味がすると最高」
「人の手紙をスナック感覚で語るな」
ユウセーは雨除けのフードを深く被り直した。
反対側の肩には、白い毛玉が乗っている。
こちらは白ヤギ。
黒ヤギと同じくらい小さく、丸く、ふわふわしている。金色の目をぱちぱち瞬かせながら、配達鞄をじっと見ていた。
「ユウセー。今日のお手紙は、かなしい味がします」
「まだ食うなよ」
「食べません。まだ」
「その“まだ”が怖いんだよ」
白ヤギは、きょとんとした顔をした。
「でも、かなしいままだと、かわいそうです」
「だからって勝手に食べるな。俺の信用が死ぬ」
「信用はおいしいですか?」
「食べ物じゃない」
黒ヤギが鼻で笑った。
「ユウセーの信用、もうだいぶ薄味じゃん」
「誰のせいだと思ってんだ」
ユウセーはため息をついた。
ここは異世界都市レインバルト。
一年の半分は雨が降ると言われる、灰色の街だ。
ユウセーはそこで、フリーの運び屋をしている。
ギルドに所属していない。
貴族の専属でもない。
商会にも属していない。
理由は簡単だ。
どこかに所属すると、こいつらが問題を起こした時に責任を取らされるからである。
「フリー最高。怒られても俺だけで済む」
「でもこの前、出禁になりました」
白ヤギが言った。
「どこだっけ?」
「南門の郵便詰所です」
「あれはお前が受付票食ったからだろ」
「おなかが空いていたので」
「食べるな」
「受付票、ちょっと甘かったです」
「感想もいらん」
ユウセーは配達鞄を押さえた。
今日の依頼品は一通の手紙。
封蝋付きの古い封筒。
差出人は、エドガー・フォルン。
届け先は、ミナ・フォルン。
依頼主は町外れの診療所の老婆だった。
手紙の説明は、こうだ。
――死んだ男が娘に残した、最後の遺書。
ただの手紙なら、そう珍しい依頼でもない。
ただの手紙ならば。
この世界では、強い後悔や願いが込められた手紙は、稀に妙な現象を起こす。
燃えない手紙。
開かない封筒。
宛先が勝手に変わる便箋。
夜になると泣き声がする遺書。
普通の運び屋なら、滅多に触れないような郵便物だ。
だがユウセーの手元には、なぜかそういう面倒な手紙ばかり集まってくる。
ユウセーは他人の事情に興味がない。
誰が誰を恨んだとか。
誰が誰を愛したとか。
そういう重たい話は、なるべく遠くに置いておきたい。
ただ、報酬が良かった。
そして断ると老婆がものすごく悲しそうな顔をした。
後味が悪かった。
だから受けた。
「……俺、こういうところがダメなんだよな」
「ユウセーはめんどくさがりなのに、めんどくさい方へ歩きます」
白ヤギが言った。
「それ、たぶん悪口だぞ」
「ほめました」
「もっと明るい顔で褒めてくれ」
黒ヤギが配達鞄をつつく。
「なあ、それ食っていい?」
「ダメ」
「ちょっとだけ」
「ダメ」
「端っこだけ」
「ダメ」
「匂いだけ」
「それはまあ……」
黒ヤギは封筒に鼻を近づけた。
次の瞬間、赤い目が細くなる。
「……うえ」
「なんだよ」
「この手紙、変な匂いする」
ユウセーの足が止まった。
嫌な予感がした。
こういう時の黒ヤギは、だいたい当たる。
「変な匂いって?」
「甘いふりして、底がどろどろ。焦げたウソみたいな匂い」
「また面倒なやつか……」
「たぶん遺書じゃないよ、これ」
雨音が強くなった。
ユウセーは濡れた空を見上げる。
「……帰るか」
「だめです」
白ヤギが即答した。
「まだ届けてません」
「いや、でも危険物かもしれないし」
「届けるのが運び屋です」
「正論やめろ」
黒ヤギが嬉しそうに尻尾を振った。
「行こ行こ。ウソの手紙、食べたい」
「食べる前提で話すな」
ユウセーは渋々歩き出した。
ミナ・フォルンの住むアパートは、旧市街の奥にあった。
古い二階建ての建物。
壁は雨で黒ずみ、窓枠は歪んでいる。
階段はぎしぎし鳴った。
依頼書に書かれた部屋番号の前で、ユウセーは軽く扉を叩く。
返事はなかった。
もう一度叩く。
「……どなたですか」
細い声がした。
「運び屋です。ミナ・フォルンさん宛ての手紙を届けに来ました」
しばらく沈黙。
やがて、扉が少しだけ開いた。
現れたのは、二十歳前後の女性だった。
顔色が悪い。
痩せている。
目の下に濃い隈がある。
だが、それ以上に印象的だったのは、彼女が扉の隙間から外を恐れるように見ていたことだった。
「……父から、ですか」
「エドガー・フォルンさんからと聞いています」
ミナの顔が強張った。
嬉しそうではなかった。
悲しそうでもなかった。
怖がっていた。
ユウセーは少しだけ眉を寄せる。
「受け取り拒否もできますけど」
ミナは首を横に振った。
「いえ……ください」
ユウセーは封筒を差し出した。
ミナの指が、震えながら封筒に触れる。
その瞬間だった。
「メェ!」
黒ヤギが飛んだ。
「おい!」
遅かった。
黒ヤギはミナの手から封筒を奪い、床に着地すると、そのまま封蝋ごとむしゃむしゃ食べ始めた。
「あっ……」
ミナが息を呑む。
ユウセーは額を押さえた。
「……すみません。うちのヤギが」
「うっま……いや、まずっ! うわ、なにこれ! まずい!」
黒ヤギが床を転がった。
「苦い! 黒い! でも奥に甘いのある! 変な味!」
「味の実況するな!」
ミナは蒼白になっていた。
「そ、その手紙は……父の……」
「本当にすみません。弁償を――」
「待って」
黒ヤギが急に真顔になった。
子供のような声なのに、その瞬間だけ空気が冷えた。
「これ、遺書じゃない」
ミナの肩が震えた。
ユウセーは黙って黒ヤギを見る。
黒ヤギは口元についた紙片を舐めた。
「この手紙に入ってた一番強い言葉は、“許さない”だよ」
雨音だけが響いた。
ミナは唇を噛んだ。
「……やっぱり」
「やっぱり?」
ユウセーが聞くと、ミナは小さく笑った。
泣きそうな笑みだった。
「やっぱり、父は私を愛してなんかいなかったんですね」
黒ヤギが耳をぴくりと動かした。
白ヤギはミナをじっと見つめていた。
ミナは扉を大きく開けた。
「中へどうぞ。……手紙を食べた責任、取ってください」
「それはまあ、はい」
ユウセーは肩を落とした。
「お前のせいだからな」
「ウソの味がしたから仕方ないじゃん」
黒ヤギは悪びれなかった。
部屋の中は簡素だった。
机。
椅子。
寝台。
古い棚。
部屋の隅には、火の消えた暖炉があった。
壁には小さな額縁が一つ。
そこには若い男と、幼い少女の絵姿が入っていた。
男は笑っていない。
少女も笑っていない。
おそらく父娘なのだろう。
ミナは椅子に座ると、ぽつりぽつりと話し始めた。
父エドガーは、昔、ファルン商会の商会長だった。
真面目で厳しい男だった。
妻が亡くなってから、娘であるミナを一人で育てた。
だが、優しい父ではなかった。
褒めない。
抱きしめない。
目も合わせない。
ミナが何をしても、父はただ一言だけ言った。
「間違えるな」
その言葉が、ミナの記憶にずっと残っていた。
「私は父に嫌われていると思っていました」
ミナは自分の指先を見つめた。
「母が死んだのは、私を産んだせいだから」
「……」
「父は私を見るたび、母を思い出していたんだと思います。だから、私を許せなかった」
重い。
ユウセーはそう思った。
こういう話が一番苦手だ。
慰め方が分からない。
何を言えばいいかも分からない。
そもそも、他人の家庭事情に首を突っ込むのが嫌だった。
だが、逃げるには少し遅かった。
黒ヤギが手紙を食ったからである。
「半年前、父は病気で亡くなりました」
ミナは続ける。
「最期も、私は会えませんでした。診療所の方から、“お父様はあなたに手紙を残した”と聞いて……それで、今日まで待っていたんです」
「半年も?」
「手紙が、なかなか見つからなかったそうです」
白ヤギが小さく鳴いた。
「迷子の手紙です」
「迷子?」
「届けたいのに、届けられない言葉は、迷子になります」
黒ヤギが鼻を鳴らす。
「でもこれ、迷子っていうより、ぐちゃぐちゃだよ」
ユウセーは黒ヤギを見た。
「中身、分かるのか?」
黒ヤギは胸を張った。
「オレはウソとか本音とか、隠した言葉を食べるの得意だからな!」
「自慢することじゃない」
「さっき食べた手紙には、表の言葉と裏の言葉があった」
「表と裏?」
黒ヤギは床にぺっと黒い文字の塊を吐き出した。
ミナが息を止める。
黒い文字は床の上で蠢き、やがて文章になった。
――お前を許さない。
――お前がいなければ。
――私は、あの人を失わなかった。
――お前の顔を見るたび、私は。
ミナの顔から血の気が引いた。
「……やっぱり」
その声は、小さかった。
だが部屋の中に深く沈んだ。
白ヤギが慌ててぴょんぴょん跳ねる。
「ちがいます。まだです。まだ全部じゃないです」
「でも、父はそう思っていたんでしょう?」
「思っていました」
白ヤギは正直に言った。
ミナが目を伏せる。
ユウセーは思わず白ヤギをつまんだ。
「言い方」
「でも、本当です」
「本当でも刺し方ってもんがあるだろ」
黒ヤギが床の文字を前足でつついた。
「でもさ。これだけじゃないんだよな」
「どういうこと?」
ミナが顔を上げる。
黒ヤギは首を傾げた。
「変なんだよ。この手紙、ウソは苦い。本音は黒い。でも奥に、なんか甘いのが残ってる」
白ヤギの金色の目が光った。
「届いていない想いです」
ミナは困惑した。
「想い……?」
白ヤギは床の黒い文字の周りを歩いた。
「黒ちゃんは、隠した本音を食べます」
「黒ちゃんって呼ぶな」
黒ヤギがむくれた。
「私は、届かなかった想いを食べます」
白ヤギは自分の胸を張った。
「食べると、届けられます」
ミナはぽかんとしていた。
ユウセーは補足する。
「俺もよく分かってないんですけど……黒い方は、隠された本音を暴く。白い方は、本当は伝えたかった感情を相手に届ける。そういう感じです」
「感情を……届ける?」
「たぶん」
「たぶん?」
「すみません。俺も被害者側なので」
白ヤギが不満げに鳴いた。
「被害者じゃないです。配達員です」
「俺は普通の荷物だけ運びたい」
「でもユウセーは、いつも変な手紙を拾います」
「拾いたくて拾ってない」
黒ヤギがにやにやした。
「悪運つよいよな」
「それだけは否定できない」
ミナは、床に浮かぶ父の黒い言葉を見つめていた。
その顔に浮かぶのは、怒りではなかった。
悲しみでもない。
長い間、覚悟していた傷が、ようやく本当に刺さったような顔だった。
「……もういいです」
ミナは言った。
「父の本音が分かったなら、それで」
白ヤギが首を振った。
「まだ届いてません」
「何が?」
「お父さんが、一番隠したかった言葉です」
その時だった。
部屋の扉が乱暴に叩かれた。
「ミナ! いるんだろう!」
男の声。
ミナの身体がびくりと跳ねた。
ユウセーは嫌そうに扉を見る。
「……誰です?」
「父の元同僚のグレイさんです。今は独立してグレイ商会の商会長をしています」
「面倒な雰囲気がプンプンする」
扉が開く前に、黒ヤギが小声で言った。
「この声、くさい」
「今度は何味だよ」
「金の味」
扉が開いた。
入ってきたのは、恰幅の良い中年男だった。立派な外套を着て、手には杖を持っている。
男はユウセーを見ると、眉をひそめた。
「誰だ、お前は」
「運び屋です」
「運び屋? 余計な者を入れるな、ミナ」
ミナは俯いた。
「すみません、グレイさん」
グレイと呼ばれた男は、部屋の中を見回した。
そして床に浮かぶ黒い文字を見た瞬間、顔色を変えた。
「これは……」
黒ヤギが小さく笑った。
「お、焦げた」
ユウセーは肩の上の黒ヤギを押さえた。
「黙ってろ」
グレイは咳払いした。
「ミナ、その手紙は受け取ったな?」
ミナは答えない。
グレイの目が鋭くなる。
「受け取ったのかと聞いている」
「……はい」
「ならば確認しろ。エドガーは遺産について書いていたはずだ」
ユウセーは少しだけ目を細めた。
「遺産?」
ミナが小さく頷く。
「父はある土地を所有していました。今は使われていませんが、価値があるそうです」
グレイは笑った。
「価値があるどころではない。あの土地は再開発の中心になる。だが、エドガーは頑固でね。生前、売却を拒み続けた」
黒ヤギがユウセーの耳元で囁く。
「こいつ、すっごくまずそう」
「それ、だいたい悪人だよな」
「たぶん」
グレイはミナに近づいた。
「エドガーの手紙には、土地の譲渡について書かれているはずだ。見せなさい」
「……手紙は」
ミナは言葉に詰まった。
ユウセーはそっと目を逸らす。
黒ヤギは口笛を吹こうとして失敗した。
グレイの顔が険しくなる。
「まさか、失くしたのか?」
「……食べました」
「何?」
ミナはユウセーの肩を見る。
グレイも見た。
黒ヤギがにこっと笑う。
「ごちそうさま」
数秒の沈黙。
グレイの額に青筋が浮かんだ。
「ふざけるな!!」
「いや、俺もそう思います」
ユウセーは即座に頭を下げた。
「ですがその手紙、遺書ではなかったようで」
「黙れ、運び屋風情が」
グレイは杖を床に打ちつけた。
床に青白い文字が浮かぶ。
魔法陣。
ユウセーは一歩下がった。
「うわ、魔法使うタイプかよ」
「この場で見たことを忘れろ」
グレイの声が低くなる。
「そして消えろ」
魔法陣から、鎖のような光が伸びた。
ユウセーはとっさに避けようとした。
だが遅い。
光の鎖が腕に絡みつく。
「痛っ」
「これは契約魔法です」
白ヤギが言った。
「契約書を身につけている間だけ使える魔法です。壊せば解除できます」
「契約書はどこにある?」
黒ヤギがグレイの胸元を見た。
「あそこ」
グレイの内ポケットから、紙の匂いがした。
黒ヤギが目を輝かせる。
「食っていい!?」
「今だけ許す!」
「やった!」
黒ヤギが飛んだ。
小さな黒い影が、グレイの胸元へ突っ込む。
「なっ!?」
黒ヤギは内ポケットから一枚の書類を引き抜くと、着地する前に半分食べた。
光の鎖が砕ける。
「まずっ! でもいい悪意!」
床に黒い文字が溢れ出した。
――エドガーの署名を偽造する。
――娘には遺書として渡せばいい。
――土地を得た後は、あの女も黙らせる。
――商館は私のものになる。
ミナが息を呑んだ。
「そんな……」
グレイの顔が歪む。
「化け物どもが……!」
ユウセーは腕をさすった。
「なるほど。やっと分かってきた」
「何が分かった」
グレイが睨む。
ユウセーは面倒くさそうに言った。
「つまり、あんたがエドガーさんの手紙を偽造した。で、本物の遺書を隠した。土地を奪うために」
グレイは答えなかった。
沈黙は、肯定に近かった。
黒ヤギが床の文字をぱくぱく食べる。
「こいつの本音、脂っこい」
「食レポやめろ」
白ヤギは部屋の隅を見ていた。
暖炉。
火の消えた、古い暖炉。
「ユウセー」
「今度は何?」
「本物のお手紙、そこにいます」
ミナが立ち上がった。
「暖炉……?」
グレイが叫ぶ。
「触るな!」
ユウセーは即座に暖炉へ向かった。
灰の中に手を突っ込む。
熱はない。
奥に、金属の筒があった。
取り出すと、中には焼け焦げた封筒が入っていた。
半分以上燃えている。
だが、封蝋は残っていた。
エドガー・フォルンの印。
ミナが震える手で受け取る。
「父の……」
グレイが杖を振り上げる。
「渡すな!」
黒ヤギがその杖に噛みついた。
「やーだ!」
「離せ!」
「やーだ!」
黒ヤギは子供のようにぶら下がった。
ユウセーはその隙にミナの前へ立つ。
「読めますか?」
ミナは封筒を開けようとした。
だが、紙は焦げて脆く、文字の多くが読めなくなっていた。
ミナの顔が歪む。
「……読めない」
白ヤギが前に出た。
「だいじょうぶです」
「でも、燃えて……」
「言葉は燃えても、想いは残ります」
白ヤギは焼けた手紙の端を、そっと食べた。
今度は、黒ヤギの時とは違った。
白い光が広がる。
柔らかく、あたたかい光だった。
部屋の雨音が遠くなる。
ミナの目が見開かれる。
白ヤギの金色の目が、静かに輝いた。
「届けます」
その瞬間。
ミナの耳元で、男の声がした。
低く、不器用で、掠れた声。
『ミナ』
ミナが息を止めた。
『私は、お前に何も言えなかった』
部屋の中にいた全員が、動きを止めた。
グレイさえも。
『お前を見るたび、妻を思い出した。お前のせいではないと分かっていた。それでも、私は弱かった』
ミナの目から涙が溢れた。
『お前を責めることでしか、悲しみに耐えられなかった』
白い光の中で、焦げた手紙の文字が浮かび上がる。
『すまなかった』
ミナの膝が震える。
『私は父親になれなかった。だが、それでも』
声が一度途切れた。
そして。
『お前を愛していた』
ミナは両手で口を覆った。
『一度も言えなかった。抱きしめることもできなかった。笑いかけることさえ、怖かった』
『こんな言葉で許されるとは思わない』
『だが、あの商館も土地も、すべてお前に残す』
『あそこには、お前の母と私が、最初に店を構えた古い商館がある』
『売らなくていい』
『逃げてもいい』
『壊してもいい』
『お前の好きに生きなさい』
白ヤギが、最後の紙片を飲み込んだ。
『ミナ』
声が優しくなる。
不器用で、遅すぎる優しさだった。
『生まれてきてくれて、ありがとう』
光が消えた。
部屋には雨音が戻った。
ミナは泣いていた。
声を殺すこともできず、子供のように泣いていた。
ユウセーは何も言わなかった。
何を言っても、邪魔になる気がした。
黒ヤギも黙っていた。
珍しく。
グレイが一歩後ずさる。
「馬鹿な……そんな手紙……」
白ヤギが振り返る。
「あなたの中にも、届かなかった言葉があります」
グレイの顔が引きつった。
「黙れ」
「でも、それはとても黒いです」
黒ヤギがにやりと笑う。
「じゃあオレのごはんだ」
グレイは逃げようとした。
しかし扉の外には、いつの間にか人影があった。
診療所の老婆だった。
そして、二人の市警隊員。
老婆は静かに言った。
「やはり、あなたでしたか。グレイ商会長」
グレイの顔が歪む。
「なぜここに」
「本物の遺書が見つからない時点で、怪しいとは思っていました。だから、この運び屋さんに依頼したのです」
ユウセーは目を丸くした。
「え、俺、巻き込まれる前提だったんですか?」
老婆は微笑んだ。
「あなたは、妙な手紙に縁があると聞いていましたので」
「最悪の評判だ……」
黒ヤギが胸を張る。
「有名じゃん!」
「嬉しくない」
市警隊員がグレイを拘束する。
グレイは最後まで喚いていた。
偽造だ。
陰謀だ。
化け物の仕業だ。
だが床に残った黒い文字と、偽造契約書の破片がすべてを語っていた。
黒ヤギはそれを見ながら、少し残念そうに言った。
「もっと食べたかった」
「腹壊すぞ」
「悪意で?」
「たぶん」
白ヤギはミナのそばにいた。
ミナは泣き腫らした顔で、白ヤギを見つめる。
「今のは……本当に父の言葉だったんですか?」
白ヤギは首を横に振った。
「言葉ではありません」
ミナの顔が曇る。
白ヤギは続けた。
「お父さんが、本当は届けたかった想いです」
ミナは胸に手を当てた。
「……そう」
「許さなくてもいいです」
白ヤギが言った。
ユウセーは少し驚いた。
白ヤギは、いつもの子供っぽい顔で言った。
「でも、受け取るかどうかは、ミナが決めていいです」
ミナはまた泣きそうになった。
「ありがとう」
白ヤギは嬉しそうに鳴いた。
「どういたしまして」
黒ヤギが横から割り込む。
「オレも手紙食った!」
「お前は謝れ」
ユウセーが言うと、黒ヤギはしぶしぶ頭を下げた。
「ごめんなさい」
ミナは少しだけ笑った。
本当に少しだけだったが、それはこの部屋に来てから初めて見る笑顔だった。
事件の後始末は、市警隊が引き受けた。
偽造契約書。
隠された遺書。
グレイ商会長による土地詐取の疑惑。
話は思った以上に大きくなりそうだった。
ユウセーはそれ以上関わりたくなかった。
「じゃ、俺はこれで」
「お待ちください」
老婆に呼び止められる。
ユウセーは嫌な顔をした。
「まだ何か?」
「報酬です」
「あ、それは受け取ります」
黒ヤギが笑う。
「切り替え早っ」
老婆は小さな革袋を差し出した。
中には約束より少し多い銀貨が入っていた。
ユウセーは中身を確認し、頷く。
「確かに」
老婆は言った。
「あなたに頼んでよかった」
「俺はただ届けただけです」
「それが難しいのです」
ユウセーは返答に困った。
褒められるのは苦手だ。
怒られるよりはマシだが、どうにも居心地が悪い。
「……まあ、次からは普通の荷物でお願いします」
老婆は微笑むだけだった。
ミナが近づいてきた。
「ユウセーさん」
「はい」
「父の手紙を届けてくれて、ありがとうございました」
ユウセーは頬を掻いた。
「いや、食ったのはこいつらなので」
「でも、届きました」
ミナはそう言った。
「やっと」
ユウセーは少しだけ目を伏せた。
他人の人生に深く関わるのは嫌いだ。
面倒だし、重いし、責任が発生する。
けれど。
こういう顔をされると、逃げにくい。
「……どうも」
それだけ言って、ユウセーは部屋を出た。
外に出ると、雨は上がっていた。
レインバルトでは珍しいことだった。
灰色の雲の切れ間から、薄い光が差している。
黒ヤギが肩の上で伸びをした。
「今日はいっぱい食べた!」
「食うなって言ったよな?」
「結果的によかったじゃん」
「結果論で生きるな」
白ヤギは反対側の肩で、満足そうに目を細めていた。
「今日の想いは、あたたかかったです」
「そうか」
「でも、少ししょっぱかったです」
「涙味?」
「たぶん」
黒ヤギが鼻を鳴らす。
「人間って面倒だよな。嫌いって思いながら、好きだったりするし。許さないって思いながら、会いたかったりするし」
「まあ、人間だからな」
ユウセーは歩き出した。
石畳の水たまりに、ぼんやりと自分の顔が映る。
可もなく不可もない顔。
どこにでもいそうな男。
異世界に来ても、特別な英雄にはなれなかった。
戦えない。
魔法も使えない。
目立ちたくない。
面倒事は嫌い。
それなのに、なぜか変な手紙ばかり引き寄せる。
「ユウセー」
白ヤギが言った。
「次はどこへ届けますか?」
「仕事があればな」
黒ヤギが楽しそうに跳ねた。
「ウソの手紙がいい!」
白ヤギも言った。
「かなしい手紙がいいです」
「普通の手紙がいいです」
ユウセーは即答した。
二匹は同時に首を傾げる。
「普通って、おいしい?」
「おいしくないと思う」
「じゃあいやです」
「仕事を選ぶな」
ユウセーはため息を吐いた。
だが、足取りは少しだけ軽かった。
配達鞄は空になった。
依頼は終わった。
報酬ももらった。
なら今日は帰って寝る。
そう思った瞬間、路地の向こうから声がした。
「運び屋さん!」
ユウセーは聞こえなかったふりをした。
「運び屋さん! そこの、ヤギを連れた運び屋さん!」
黒ヤギが笑う。
「呼ばれてるぞ」
「人違いだ」
白ヤギが言う。
「この街でヤギを連れた運び屋は、ユウセーだけです」
「余計な事実を言うな」
声の主は、若い市警隊員だった。
息を切らしながら駆け寄ってくる。
「よかった、まだ近くにいて! 実は奇妙な封書が見つかりまして……」
ユウセーは空を見上げた。
ついさっきまで晴れかけていた空に、また灰色の雲が流れてくる。
「……帰りてぇ」
黒ヤギが嬉しそうに鳴いた。
白ヤギも小さく鳴いた。
そしてユウセーは、今日二度目の面倒事に巻き込まれることになった。




