プロローグ 婚約破棄の夜
王都の中心にそびえるヴェルモンド公爵邸の舞踏会場は、燭台の柔らかな光と宝石のきらめきで満たされていた。
絹のドレスが優雅に揺れ、弦楽四重奏の調べが会場を包み、貴族たちの笑い声が華やかに響き合う。
その中心に立つのは、ヴェルモンド公爵令嬢、アリアナ・ド・ヴェルモンド。
銀色の長い髪を美しく結い上げ、深い青のドレスが彼女の気品を一層際立たせていた。
完璧な微笑みを浮かべ、王太子レオニス殿下の腕にそっと手を添え、貴族たちに優雅に挨拶を返す。
誰もが羨望の眼差しを注ぐ――政略婚約の象徴として、二人はまさに絵に描いたような完璧な姿だった。
だが、アリアナの胸の奥には、温かなものは何もなかった。
レオニス殿下の視線は、いつも彼女を通り越して遠くを見ている。
愛など、最初から存在しない。
ただの義務、ただの契約。
それでいい――そう自分に言い聞かせていた。
少なくとも、今夜までは。
パーティーが中盤に差し掛かった頃、レオニス殿下が静かにアリアナの手を引き、バルコニーへと連れ出した。
夜風が冷たく頰を撫で、月光が大理石の床を白く照らす。
殿下は静かに、しかしはっきりと告げた。
「アリアナ……婚約を破棄したい」
言葉は静かだったが、アリアナの心に鋭く突き刺さった。
微笑みが一瞬で凍りつく。
「……どうして、急に」
「君を愛していない。……本当の気持ちは、別の女性に向いている」
レオニス殿下の視線が、舞踏会場の中へと向かう。
そこにいたのは、黒髪を優雅に流した男爵令嬢、エリカ・ド・ラルフ。
彼女は殿下を見つめ、頰をほんのり染めながら、控えめに微笑んだ。
身分を超えた、熱い想いが二人の間で静かに交錯しているのがわかった。
アリアナの胸が、重く沈んだ。
政略婚約とはいえ、公爵令嬢としての誇り、未来の王妃の座……すべてが音を立てて崩れていく。
屈辱と虚しさが、静かに心を覆った。
「……エリカを、愛しているのですね」
「そうだ。
彼女だけが、私の本当の心を動かしてくれる。
アリアナ、君には申し訳ないが……これ以上君を縛ることはできない」
殿下の言葉は優しかった。
だからこそ、余計に胸を抉った。
アリアナは唇を軽く噛み、ゆっくりと手を離した。
「……わかりました。婚約の破棄を、受け入れます」
声は震えなかった。
だが、心は深く傷ついていた。
その瞬間、欄干に手をかけたアリアナの視界が、ぐらりと揺れた。
胸の奥から、何かが溢れ出すような感覚。
――混雑したホーム。
電車の到着を知らせる音。
突然の叫び声。
「痴漢! この人が触ってきたんです!」
周囲の視線が一斉に突き刺さる。
逃げようとした足がもつれ、ホームから転落する。
落ちる刹那の恐怖と、理不尽な絶望。
アリアナの瞳が見開かれた。
記憶が、洪水のように蘇る。
――自分は、男だった。
普通の会社員だった。
名前は……もう思い出せないけれど、確かに男だった。
そして、あの女子大生。
黒髪で、強い瞳をした……エリカ。
彼女の叫びが、自分を死に追いやった。
アリアナの視線が、舞踏会場の中のエリカへと向く。
エリカもまた、突然顔を上げ、青ざめていた。
彼女の瞳にも、同じ記憶が蘇っているのがわかった。
二人の視線が、月光の下で交錯する。
過去の「冤罪の被害者」と「加害者」が、この異世界で再び出会った。
アリアナの唇が、ゆっくりと動いた。
声は小さく、しかし冷たく響く。
「……あなただったのね、エリカ。あの時の……私を陥れた人」
エリカの顔がさらに青ざめ、身体が小さく震えた。
レオニス殿下が訝しげに彼女を見るが、エリカの目にはもう殿下の姿は映っていない。
「……ごめん……なさい……あの時は、私……」
謝罪の言葉は途切れた。
アリアナの瞳に、静かな決意が宿る。
「謝罪は、もういいわ。……あなたは、私の人生を壊した。そして今度は、私があなたの人生を変える番よ」
アリアナはゆっくりとバルコニーから舞踏会場に戻り、エリカの前に立った。
貴族たちの視線が集まる中、彼女はエリカの手をそっと――しかし確実に――取った。
「エリカ・ド・ラルフ。これより、あなたはヴェルモンド公爵家に仕えることになるわ。私の専属メイドとして、そばに置きなさい。……拒否は、認めない」
エリカの瞳に、恐怖と、どこか抗えない運命のようなものが混じった。
月光が二人の影を長く伸ばし、舞踏会場の音楽が遠く響く。
前世の因縁が絡み合い、新たな物語が静かに幕を開けた。
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