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作者: 小山らいか

 ――どうして、こんなに何もかもうまくいかないんだろう。

 仕事を終えると、何かに誘われるようにこの店に来ていた。繁華街の入口の地下にある珈琲専門店『桜花』。いつも仕事の後は、保育園のお迎えのためにすぐに帰る。でも、金曜日だけは母がお迎えに行ってくれるので、少しだけ自分の時間を持つことができる。

 ――君が優秀なのは十分わかってるけど、もう少し部下を信用したらどう? いまのままじゃ、部下は育たないんじゃないの。それも、君の大切な仕事だよ。

 部下のミスを謝罪しに行くと、部長は大きなため息をついた。

「申し訳ありませんでした」

 部長の言うことはもちろんわかっていた。人に頼るのが苦手な性格が影響していることも。部下をうまく使うことが、自分に求められる能力であるということも。

 今朝、保育園に息子を連れていくと、息子は嫌がるそぶりを見せた。今日はお休みする、と口をとがらせる。何とかなだめて先生にお願いする。すると先生は明るい声で言った。

「お母さん、最近忙しいんですよね。お子さんって、お母さんの変化に敏感ですよね」

 もちろん、悪気はないんだろう。でも、責められているように感じた。本当は、仕事よりもっと子どもとの時間を大切にしなくてはいけないんですよ。あなたは母親なんだから。 

「今日は、ずいぶん疲れた顔してるね」

 淹れたてのコーヒーを私の前に置きながら、彼は優しく微笑んだ。彼はこの店の店員で、何度か来ている私のことを覚えていて、時々こうして話しかけてくれる。

「忙しいの? それとも、何かあった?」

 落ち着いた声。こんなふうに誰かに声をかけてもらえることが嬉しくて、胸が痛んだ。でも、人に弱みなんて見せられない。

 すると彼は、顔を少しこちらに近づけてささやいた。

「もしよかったら、心が軽くなる薬があるんだけど、飲んでみる?」

「……え?」

 心が軽くなる薬……。本当にそんなものがあるんだろうか。もしそれを飲んだら、今のこんなどうしようもない重苦しい気分もなくしてくれるんだろうか。

「……いえ、大丈夫です」

 とっさに声が出ていた。そんなもの、あるわけない。あっても危険なものかもしれない。

「――そう」彼はペーパードリップのコーヒーを淹れながら、目線を落とす。

「どうしても辛くなったら、またここにおいで。いつでも待ってるから」

 

 翌週の木曜日、突然母から会社に電話があった。保育園に来ているという。

 息子が、友達と喧嘩をしてけがをさせてしまったらしい。慌てて携帯を見ると、保育園から何度も着信があった。忙しくて、携帯を見る余裕がなかった。

「あなたと連絡がつかないからって、私のところに連絡が来たのよ」

 母はパートを途中で切り上げて、息子を連れて帰ってくれた。すぐに保育園にも連絡を入れる。先方の親とは母がうまく話してくれたらしい。電話を切ると、深くため息をつく。

「水沢さん、昨日来た新しい案件、どうします?」

 木村くんが顔をしかめてやってきた。このところ営業部から立て続けに依頼が来ていた。

「ああ、それなら私がやるから」

「……でも、水沢さん、別の案件も持ってますよね。大丈夫ですか?」

「大丈夫。木村くんも、別件で忙しいでしょう?」

 今日は、もうお迎えの心配はない。少し残業していこうと、母に連絡を入れる。

「……あなた、何言ってるの? 仕事と子ども、どっちが大事なの?」

 厳しい声に、思わず電話を切った。母の言うとおりだ。息子の気持ちを考えたら、今日は急いで帰らなければ。でも……。流されるまま、パソコンに向かって手を動かす。


 翌日の金曜日。

 仕事のあと、また『桜花』に来た。少し落ち着いて考える時間がほしい。でも、頭のなかはずっともやもやしていて、うまく考えがまとまらない。

「いらっしゃい。……どうしたの、そんな顔して」

 いつもの彼が声をかけてきた。その優しい雰囲気に、思わず言葉が出ていた。

「……あの、心が軽くなる薬、ありますか?」

 すると彼は、棚の奥から白い錠剤を取り出した。「……これを飲んで」

 躊躇なく口にした。少しでも楽になりたい。リスクなど、考える余裕がなかった。

「それはね、本当の気持ちを吐き出したくなる薬なんだよ。ほら、もう効いてくるはず」

 さあ、話してみて。彼の穏やかな口調に導かれるまま、話した。本当はもっと仕事もがんばりたい。子どものこともかわいいし、大切にしたい。もっと、ていねいに生きていきたい。そして、上司でも母親でもない自分のことも大事に……。溢れ出して、止まらない。最後はもう言葉にならず、泣き声を抑えることしかできなかった。

 彼は何も言わず、黙って話を聞いてくれた。「よく、話してくれたね」

 淹れたてのコーヒーを私の前に置く。「どうぞ」涙をふくと、コーヒーを口にした。甘い香りが広がって、体にも心にも沁みていく。

「……すみません。こんな話を聞かせてしまって。迷惑ですよね」

 すると彼は、笑顔のまま肩をすくめた。

「いや、それは僕が渡した薬のせいだから。気にしなくていいよ」

 よかったら、残りもあげるよ。彼は棚の奥にあった錠剤のビンを私の前に置いた。

 ――ビタミン剤。

「ただね、これを飲むときにひとつだけ守ってほしいことがあるんだ」

「守ってほしいこと?」

「そう。けっして一人でいるときに飲まないこと。誰かがそばにいるときに飲んでね」

 階段を上がると、店の外に出た。華やかな駅前のビルのライトが、ゆらゆらと空を照らしている。駅へと一歩踏み出すと、バッグの中の錠剤が軽やかな音を立てた。  


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