【第9話 束の間の孤独、滲む反抗心】
――2018年12月26日(水)8:33 美織のアパート
美織は、朝のうちに帰省の準備を済ませる。
数日分の着替えと、必要最低限のものだけ。
その手つきは慣れが感じられる。
(…頻繁に帰省しているのかな…)
私の存在が、彼女を家に縛っていたのかな…
胸の奥で、鈍い音を立てた何かが、重さだけを残した。
「あっ…前にも言ったけど、自分ん家だと思ってねっ」
玄関で靴を履きながら、話す声だけが、いつも通りだった。
美織は、玄関のノブに手をかけ振り返る。
「――留守番、頼むよっ番犬君っ。」
私は頷いた。
自然な流れに身を委ねることが、今の私にできることだった。
”今の”美織は笑っているのに、
そのまま鍵を閉めそうな気がした。
鍵の閉まる音が響く、部屋から音が消えた…
まるで最初から何もなかったみたいに…
この静かな部屋には、
汗とタバコの臭いはしない。
誰の息遣いも聞こえない。
甘い香りも、甘い声もない。
ただ、無機質な安全がそこにあった。
スマホの時計を見る回数だけが増えていった。
何も起きないまま。時間が過ぎる。
私は、いつも通りに過ごそうとした。
洗濯をする。
ハンガーが余る。
簡単な食事を取る。
味は覚えていない。
シャワーを浴びる。
浴槽は空のまま。
夜になると、冷たい布団に入る。
何も香らないことに、少し遅れて気付く。
今まで、あれ程までに焦がれた平穏は、
香りのない冬の冷気のように、足元を通り過ぎた。
――2018年12月26日(水)11:47 美織の実家
美織の実家は、時間が止まっていた。
玄関の香り、置かれたスリッパの向き。
観葉植物の種類も色合いも、時計の秒針の音や、
玄関に迎えに来る母の足音まで、記憶のまま。
「美織、一人暮らしはどう?」
母の問いかけは、想像通りだった。
食事のこと、生活リズム、大学、進路の話。
「あなた、ちゃんとやってる?」
美織は、短く頷いた。
嘘はない。
ただ、それ以上を足す理由がない。
話題は成績に移り、
そのまま進路の話になる。
「あの子は、もう院も考えてるらしいわよ」
「それに、教授にも気に入られてるって」
名前がいくつか通り過ぎていく。
美織はにこやかに相槌を打つ。
「…うん。うん。そうなんだ。うん。」
言葉を選ぶ必要はなかった。
――『どれも体温を感じない、私の肌の外側の話だ。』
用意された"美織"の部屋に戻る。
布団に腰を下ろして、天井を見上げる。
香りのしない空虚な色が壁紙を染めていた。
私は考えごとをしていたわけじゃない。
目を閉じても、胸のざらつきだけは消えない。
今まで感じていたものは、
甘えだとか、努力不足、失敗。
そういう名前をつけられるものだと勘違いしていた。
学費の振込日を思い出す。
家賃の引き落としも。
生活費の仕送りも。
スマホの画面を伏せると、父の顔が浮かぶ。
今は、選択肢を並べる位置じゃない。
“そういう”立ち位置だった。
翌日からも、“美織”として振る舞う。
電話をして連絡を返す。
声の調子も表情も変えない。
クリスマスの夜に置いてきた、
甘い香りや咲蘭の暖かい笑顔が胸の奥にじわっと染みになる。
――2018年12月27日(木) 朝 美織の実家・美織の部屋
朝の光がカーテン越しに差し込む。
フローリングの床を淡く照らす。
普段ならきっちり合わせるはずの起床時間を決めずに起きた。
キッチンに立ち、朝食を作る。
卵焼きの形は不揃い。
トーストは焦げ目が濃く見えた。
「美織、心配だわ。ちゃんとやってるの?」
母の声が背後から響く。
「うん。」
相槌は返すが、声に力入れなかった。
食卓ではスマホを手に取り、ニュースやSNSを眺める。
フォークの動きも雑になり、パンくずが少しテーブルに落ちる。
母は気づくが、眉をひそめることもなく、
ただ「疲れてるのかしら」と短くつぶやくだけだった。
昼の時間、洗濯物を干す。
ハンガーは半分余り、シャツはくしゃくしゃのまま。
シャワーを浴びても髪はタオルドライで終わらせる。
今までの描いたような「美織」とは違う、
ほんのわずかな反抗の影が滲む…
夜、ベッドに腰掛け、窓の外の月を眺める。
誰もいない静かな部屋で、心の奥に湧き上がる感情がある。
悔しさとも言える、濡れて皺になった感情と、
苛立ちにも似た、湿度のある熱。
まだ言葉にはできないが、
確かに私の中に存在するその小さな火種は、
母の言う“正しさ”の前では、姿を見せない。
ただ、その正しさに組み敷かれた時に、
微かな反抗心の芽吹きを指先に感じた。
――2018年12月31日(月)20:51 美織のアパート
年末の夜は、咲蘭はアパートの灯りを落としていた。
遠くの電車のが走る音が、夜を進めていく。
美織は、まだここにいない。
カモミールの香りや、一眼レフのシャッター音。
シャワーの温度やお湯の感触。
浴槽の中の細い指や、ほのかに色付いた水面。
長く艶のある黒髪。
切れ長の目元と整った鼻筋。
明るい表情と、あどけない笑顔。
震える唇や甘い声。
甘い香りが玄関のドアを開ける時、
私が隣に座って頬擦りすることが出来るのか。
そのことだけが、私の胸の奥に刺さっていた。




